夜と昔話 後編
どなたですか――距離を取り臨戦態勢で声を掛ければ女はくすくすと口元に手を当てて笑う。
女の後ろ、長い髪に隠れて見えるのは尾に間違いはなく、この女が人間ではないことをまざまざと物語っていた。
「尻尾、素敵でしょう?」
得意げな女は尻尾をふわり、動かして私に見せる。
「妲己……?」
妲己、それは昔読んだ書物に出てくる狐に成り代わられた女であり、国を滅亡へと追いやることとなった悪女の名。
戸惑いを隠せずにいる私の顔を見た女は今度は少女の様に大きく口を開けて笑った。
「あっはは、違うわよ。私は仙狐、あくまで善良な狐よ」
空狐とも呼ばれているわ、と言った彼女は人に危害を加えることはないらしいがどうにも胡散臭くて敵わない。
さっきだって私の心の中を覗き見る様なことをして、お陰で非常に気分が悪い。おっとりとした笑顔が逆に恐ろしく、出来るだけ関わりたくはないと思ってしまう。
「狐は嘘吐きだと言います」
じりじり、後退りしながら吐き捨てれば女は溜息を吐いて一歩、前に出る。
「あら、用心深いのね。でも平気よ。悪さをするつもりなんてこれっぽっちもないわ。しょぼくれた仙狸ちゃんがいるなー、って思って声を掛けてみただけ」
「余計なお世話です。では私はこれで――」
「貴方、理彰とフーヤンの所の子でしょ」
面倒な女に捕まってしまった。やってられないと去ろうとした私を呼び止めた女の口から出たのは理彰と富陽の名。
人の心を覗き見ることが出来るのだから彼らの名前を知っていても別段可笑しなことではないと思うが、女の口ぶりからすると二人とは知り合いの様子。
「ええ、まあ……」
「理彰、貴方のことを必死になって探しているわよ。送って行ってあげましょうか」
これは千里眼、というものだろうか。
女の力はよくわからない。よくわからないが、今理彰の元へ戻っても自分の気持ちを説明出来る気がしないし、逆に気まずくなるだけだ。早く謝った方が良い気もするけれど、どうせ謝っても叱られるのが落ちだろう。
理彰の元へ戻るべきか、なかなか返事を返せずにいる私を見兼ねた女は、ならうちにいらっしゃいと空を裂いて道を作り出すと私の手を強引に掴んで走り出した。
「何するんですか!?」
「悪いようにはしないわ――」
それから程なくして辿り着いたのは先日理彰と来たことのある、妖魔達が暮らす街。
街外れにどっかりと建っているのは女の邸だった。
「ごめんなさいね。人間の街じゃちょっと目立つから……ああ、私のことはクー子って呼んでね。可愛いでしょう? 空狐のクー子ね」
これが和風建築か――時代劇の奉行所の様な門をくぐり、大きな庭を抜ければクー子さんの家。
行灯に火を灯したクー子さんは、ここに一人で住んでいるのだと言う。この世界自体広くないのだと理彰は言っていたのに、彼女は無駄に広いこのお邸で何をしているのか、気になって仕方がないが――
「何もしてないわよ。日がな一日ごろごろして、たまに散歩に行くくらいかしら」
「あの、人の心を覗くのは止めてくれませんか……」
「あら、ごめんなさい」
彼女、私が少しでも疑問に思ったことがあれば一つ一つ答えるのだから非常に面倒だ。
聞かなくとも答えてくれるのは有難いことの方が多いが、余計なことまで話し出すのは如何なものか。何より心を読まれるのは気持ちが悪い。
「誰かと話すのは久々だから、つい嬉しくなっちゃって。あ、そうだわ。お茶とお菓子があるの。一緒に食べましょう」
にこにこと、厨へ向かった彼女が持ってきたのは茶器と焼き菓子。向かい合って座る卓の前、上に並んだ菓子を摘めば女はどうぞとにこにこ笑う。
「いただきます」
「はい、どうぞ。じゃあ私も、いただきます」
ずっと外に居たから温かい茶と甘い菓子が嬉しい。
ほっとする心のままに笑みを溢すとそんな私を見たクー子さんもまた、良かったと笑うのだ。
「お客様なんて何十年振りかしら……。私、独りで生きていたいって思う癖にいざ独りになると寂しくてね。だから今夜は雨華ちゃんが来てくれて嬉しいわ」
そう言って茶を啜るクー子さんはどこか寂しげ。
空狐ともなれば何千年も生きてきただろうにそれでも寂しいなどという感情が残っているだなんて、不憫でならない。とっくに悟りを開いていてもおかしくはないと思っていたけれど、どうやら違う様だ。
しかし理彰と富陽と知り合いなら彼らと共に働けばいいものを、一体どうして……。
「理彰や富陽とは会わないんですか」
口に出した言葉に、クー子さんは俯き首を振る。
「別に啀み合ってる訳じゃないんだけど、あの人達とは根本的に考えが合わないわ。でも目指すのが人間との共存っていう所は一緒だし、私はこの土地だけ提供して後は出来るだけ関わらない様にしてるの」
「はい……?」
特別仲が悪いということではなさそうだけど、それよりもクー子さんが土地を提供しているということが気になってしまう。そうなるとなんだか規模が大きくてついていけそうにない。菓子を持ったまま、ぽかんと口を開けて固まっていれば、彼女は変ね、と首を傾げた。
「あら、あらあら。こちらの世界については二人から説明があったんじゃなくて?」
「いえ、急ぎだったのであまり」
「あら、そうなの。そうね、確かに説明が面倒だものね――」
顎に手を当て思案するクー子さん曰く、この世界は昔々に人間の世界の一部を間借りして作ったものらしい。
間借りといえば聞こえは良いものの、実際の所は誰も立ち入らないであろう世界中の土地を寄せ集めて無理矢理拡張、隔離、隠蔽したものだから形も歪で非常に不安定な世界なのだと、お茶を啜りながら言っていた。
「昔は前人未到の地、なんてものがいっぱいあったからこの世界ももっと広かったのよ? でも今はどんどん狭くなってきている。きっといつか消えてしまうわ……。それとね、たまにここで暮らす妖魔が外の世界の人間に見つかってしまうことがあると、それを見た人間達が未確認生物なんて騒ぎ立てるし、逆に人間がこちらの世界に来てしまうと、やれ神隠しだとか異世界だとか、大事になるから困ってるのよ。ネットが普及してからはこの世界に迷い込んだ人間が実況中継を始めてしまう始末でね、全く、今の人間達には畏れとかってないのかしら。はあ……人の世界で虐げられていた妖魔でも平和に暮らせる様にと作ったのに、残念だわ」
彼女も色々と溜まっていたのだろう。吐き出した言葉には疲れが滲み出ているものだから同情してしまう。
「大変なんですねー」
「そうなの。宗教上の理由で立ち入ることの出来ない土地なんかがあるからまだ助かっているけれど……正直空狐ともあるこの私が世界の宗教頼みって言うのもねえ……。だから禁足地を増やしたくて都市伝説をでっち上げて噂を流したこともあるくらいなのよ。知ってる? 魔の三角海域とかってあれ、元々あった噂を広めたのは私なの…………あら、失礼。ちょっと関係ない話が多かったわね。まあ何にしても、出来るだけ早く人間と共存出来る世界を作ってもらいたいものだわ」
このままだとそれこそ本当の異世界へ行くしか道は無くなってしまうもの――そう呟いた彼女の話は要領を得ないから分かりづらい。が、部屋の隅、床の間にぽつりと置かれた古めかしい地球儀を憂い顔で見つめるクー子さんは美しかった。
長い髪と尾の輝きに吸い込まれてしまいそうで、その魅力には神々しさすら感じる程。
昔どこかで聞いたのは、狐は神の使いだという話、それもあながち間違いではないのかも知れないと私はただただ見惚れてた。
それから彼女はお茶を飲み干しころり、表情を変えて私に微笑みかける。
「それで、雨華ちゃんの悩みは?」
「はい?」
「何かあったのでしょう?」
私の話はもうお終いだからと、そう言ったクー子さんが私の隣へ座れば、ふわり漂う香の香り。
着物に焚き染めてあるのか、彼女が動く度に香る匂いが心地良い。
「悩んでるだなんて、そんな大きな問題じゃありませんよ。自分は平和に甘えきってたのかなーって考えたら急に恥ずかしくなったというか、その、怖くなったっていうか…………なんか疲れちゃいました」
悩んでる訳じゃない。ただ、急に色々あったからびっくりしただけ。餓鬼相手とは言え、泣いて許しを乞う者の命を奪う様なことをしたのだ。
奴らが黙って消えてくれればまた気持ちも違ったのだろうが、断末魔が耳からこびり付いて離れないから胸が痛い。
「そう……。そうね、人は罪深い生き物だわ。動物に比べるとずっとずっとね」
心を覗かれている、ざわざわする。
それでも嫌な気がしないのは撫でられている頭が気持ちが良いからか。ささくれ立った心がどんどん落ち着いていく――
「雨華ちゃん、人間が好きなのね」
「そんなこと――」
「違うなら違うでいいわ。雨華ちゃんは優しい子なんだって、私が思っただけよ。醜く小汚い、人間の負の感情を凝縮した様なそんな存在を助けようだなんて、慈悲深いじゃない」
餓鬼も元々は人間、飢え死にした人間の悪霊と、餓鬼道へ堕ちた人間との二種類がいるのだと、クー子さんは言った。
「どちらも人間の信仰によって生まれた妖魔な上に、この世界にいてはならない存在よ。理彰の行いは正しいけれど、そうね、彼らにも痛みはあるものね……辛くはなかった?」
もたれ掛かった先、クー子さんは私の髪を梳いて、撫でて、問い掛ける。
「悲鳴が耳障りでした。もし虫が死ぬ時に断末魔を上げる様な生き物ならきっと人間は虫を殺すことを躊躇うと思います」
「そう、そうね。私も桃の実を捥ぐ時に一々叫ばれていたらきっと気が滅入ってしまうかも。まあ……こう言ってしまうのは納得がいかないかも知れないけれど、理彰の判断に間違いはないわ。彼は厳しく頑固だし、私は理彰の考え方は理解出来ないししたくもない。でもね、彼は見る目があるの。善と悪を、人を見分ける力がある。彼が殺せというのならそれは間違いのないことよ」
理彰の判断に間違いはない――大狼さんとことりさんも同じことを言っていた。
私は理彰との付き合いが浅い、何しろ出会ってからまだ一週間だ。
理彰や他の人達の目指す所は分かっていても、それぞれの考え方やそこに至るまでの道筋、何をしてどうしたいのか、詳しいことは何も知らない。
私が今、何をすべきなのかも分からない。
「そうですね。理彰は間違ってはいません。もしあの時、餓鬼達が私を騙そうとしていたら、私が彼らを見逃していたら、大変なことになっていたかも知れません。楚襄の仁という言葉がありますから」
「雨華ちゃん、それを言うなら宋襄の仁だわ」
「それです……」
無力だ……。役に立とうなどと思っていた訳ではないけれど、言われた通りに動かないのなら、私は酷い足手纏いだ。
「だからと言って雨華ちゃんが間違っている訳じゃないわ」
ぼんやりとした灯りの中、クー子さんの優しげな表情だけははっきりわかる。
そうだ、気にしても仕方がない。
どうせ明日にはこの世界で暮らすこととなる身、今更何を悩むことがあるのだろう――そうやって開き直ってしまいたいのに、そう上手く気持ちを切り替えられないから難儀なものだ。
「貴方は良い子だわ。悩みなさい、時間が経てばそのうち気にならなくなるか、答えが見つかるから。これは数百年生きてる雨華ちゃんに言うことではないかも知れないけれど、まだ若いんだから、色々吸収出来るはずよ。それに雨華ちゃんはとても努力家だわ。気になることにはなんでも手を出してみなさい…………なんて、ちょっと年寄り臭かったわね。さて、雨華ちゃん。今日は泊まっていくでしょう?」
にこにこと笑うクー子さんに言われるがままに頷けば、待っていてと彼女は席を立つ。揺れる大きな尾を見送って、残されたのは私と菓子と、香の残り香だった。
最初こそ胡散臭い女だと思っていたけれど、どうやらそれは私の思い違いだったらしい。
その実彼女は優しいし、私にとても良くしてくれる。
しかしどういう訳か、私が考えるのは理彰のことばかり。怒っているだろうか、戻ったら叱られてしまうだろうか、どうすれば許してもらえるか。
そうしてぼんやりとクー子さんが戻ってくるのを黙って待っていると、外から聞こえてきたのは二人分の足音で――
「子猫ちゃん、いるかー?」
玄関先から聞こえる声は大狼さんのもの。ではもう一人は誰なのかと感覚を研ぎ澄ますと、ことりさんとも理彰とも違う匂い。恐らくこれは富陽のもの
だ。
大方理彰に頼まれて私を探しに来たのだろう。そのままずかずかと邸に押し入って来た二人は土間からこちらを覗き見て、私を見つけて嬉しそうに手を振った。
「おう、子猫ちゃん元気だったか」
「お嬢ちゃんが無事で何よりだ」
軽く会釈をして二人の側まで近付くと、安心した様に笑う富陽に頭を撫でられた。
でも、どうしてここが分かったのだろう。クー子さんが連絡をしたのかと首を傾げると、奥から布団を抱えて現れたクー子さんが、あらあらとこちらへ駆けてくる。
「フーヤンに大狼君じゃない。こんな時間にご苦労様。お茶でもどうかしら?」
この様子だと二人のことは知らなかったみたいだ。クー子さんがにこにこと話し掛ければ富陽は眉間に皺を寄せて、すまんが遠慮すると一言、断った。
「お嬢ちゃんを引き取りに来ただけだからな」
「あら、そう」
遠慮すると言った富陽も、残念だわと呟くクー子さんもどこか素っ気ないから、やっぱりあまり仲は良くない様だ。
そうして二人の様子を眺めていると横から私に声を掛けたのは大狼さんで、彼は私に菓子をひとつ差し出し困った様に頭を掻いた。
「彰さん、心配してたぞ」
「そう、ですか……怒ってましたか?」
聞いてみたは良いけれど、怒っているに決まっている。
勝手に動いてはいけないとあれ程言われていたのに、勝手に動いたどころか逃げ出したのだもの。外から入ってくる風が髪を揺らす。嗚呼、憂鬱だ。
「いや、怒っちゃあいないが、叱られはするだろうな」
「やっぱりそうですよね」
「なに、そこまでこっ酷く叱られることもないから安心しろよ。彰さん、子猫ちゃんのこと気にしてたからな」
気にしなくていいから帰ろう、と一言私の肩を叩いな大狼さんはにかりと笑う。
それでも今ひとつ勇気が出ず、一歩踏み出せずに困っていると、ちらり、横目で富陽を見た彼はこう言うのだ。
「これから富陽さんが飯奢ってくれるっつーし、帰ろうぜ」
きっとそんな予定など無いのだろう。
「あ、おい! 大狼、俺は飯を奢るなんて一言も――」
「あら、良かったわね。雨華ちゃん、大狼君。フーヤン、連れて行ってあげなさい」
ほら、その証拠にクー子さんと話していたはずの富陽は聞いてないぞと大慌てで否定し始めた。クー子さんも乗っかる形で煽るものだから富陽も黙っちゃいない。
「おうおう、好き勝手言ってくれるじゃねえか。ここは大地主様直々に奢ってくれても良いんじゃないのか?」
「残念ね、私は現金を持ち歩かない主義なの」
「ああそうかいそうかい。じゃあ俺達はこれで。大狼、お嬢ちゃん。飯、奢ってやるから行くぞー」
やっていられないと言う様に背を向け歩き出した富陽は既に私よりずっと前にいる。しかしちょっと待ってほしい、私は帰るとも泊まるとも、まだ結論を出していないのだ。
「富陽、あの――」
クー子さんは、と呼び止める私を遮ったのはクー子さん本人。
彼女は首振り微笑んで、良いのよと私の背中を押した。
「それよりも貴方は早く理彰に会うべきだわ。謝らなくてもいい。ただ会うだけでいいから、行きなさい」
それから彼女が私に握らせたのはすっかり忘れていた釵で、優しげな声で一言忠告するのだ。
「これは貴方の大事なもの。肌身離さず持っているのよ」
ありがとうございますと、振り返った先のクー子さんの表情は険しかった。
まるで何かを案じている様な、すっかり未来を見通している様な――
「子猫ちゃん、富陽さん行っちゃうぞ」
「は、はい!」
大狼さんに呼ばれて駆けて、後ろにはまたねと手を振るクー子さん。
何も心配することはない。一言理彰に謝ることが出来れば私はそれで十分だ。
富陽に追い付き並んで歩き、向かう先はご飯屋さん。それはすぐに会うのも気まずいだろうからという、大狼さんと富陽さんの気遣いだった。




