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夜と昔話 前編

 雪、雪だ。理彰リショウから逃げて都会の路地裏、座り込んだコンクリートは冷たかった。

 溜息は白く消え、体はどんどん冷えていく。逃げてきたのはいいけれど、ここがどこだか分からない。

 別に何が気に入らなかった訳ではないしどうせ明日には理彰と離れることになるのだから、今更どうこう思ったりしない。

 ただ、理彰は優しかった。本気で怒っていたのは最初に出会ったあの日だけで、私の面倒を見ると決まってからは私にとても良くしてくれたから、ほんの少しだけ、胸が痛む。

「たったの一週間なんですけどねー……」

長い間独りで生きてきて、自分にとっての平和にすっかり慣れきっていた私には、理彰の考えや、何かを裁くということについては、まだ、よくわからなかった――

 それにしても、雪の降る東京の冬は些か寒すぎやしないか。

 元々暖かい地域で暮らしていただけに、都会の冬は冷たく厳しい。元の姿に戻ってからコートと衣服に包まればまた違うのだろうが、そうしたら服は汚れてしまうし移動は出来ない。

 何より理彰に整えてもらった髪型が崩れてしまう。確かめる様に触れた髪は先の戦闘で乱れてしまったみたいで、するり、落ちる髪とかんざしを見るとなんだかとても遣る瀬無い。

 そういえば、この釵をもらったのは何百年も前、王朝で言えば明の時代だっただろうか――


 この釵は昔、私がある男から貰った物だった。その人はいつも笑みを浮かべている妙ちきりんな男で、初めて客を取ると決まった日、水揚げの日に私の前に現れた。

 あの日の私はどうやって逃げようかということばかり考えていたものだから、部屋に入るまでの記憶はない。腹を括ることも出来ず、かと言って逃げ出す勇気もなく、緊張した私を見て困った様に笑っていたのが、私に釵を贈ることになるその男だった。

「無理はしないほうがいい」

それは私を気遣っての言葉だ。男は、私の返事を待たずに軽い身の上話を始めた。

 男が妓女を買うのは初めてらしい。

 酒を飲み、照れたように教えてくれた。

「ではどうしてこの様な妓楼に?」

気になるのはどうしてこの様な妓楼に来たのか。

 男の身なりは綺麗だったし、そこそこの身分の者なのだろう。こんな所よりもっと良い店だってあるはずだ。投げ掛けた私の問いに男は困った様に頭を掻き、ふにゃりと笑った。

「この様な所こそ良い女がいると思ってね」

「はぁ……?」

「ああ、そうじゃないんだ。別に貶して言っている訳ではないんだよ。高級な所は少し気疲れしてしまうから。俺みたいな人間にはここの方が合うんだ」

よく分からずに首を傾げた私を見て、何かを勘違いしたらしい男は首を振って急いで訂正する。

 腰の低い、妙な男だというのが私の、彼に対する第一印象だ。

 それから話したのは、外の世界の話。

 四川に住んでいた私だが、いつの間にやら流れ流れて江蘇は南京。

 男もまた元々は成都の出らしくこちらの地域について何も知らない私に対し、ここがどんな地域で何があるのか、国の外、東の海の向こうの島国の話から、西の果てにある国の話まで色々なことを教えてくれた。

 又聞きの話だけどねと笑う男の話は、そのどれもが興味深く、私の心を踊らせる――

「本当に太陽が沈まないんですか? じゃあ夜は来ないんですか?」

太陽が沈まない国がある、と男は言う。

 太陽は夜になれば沈むものだし、朝になれば昇るもの。そんなことがあるものかと問い掛ければ、男は大きく口を開けて笑うのだ。

「はは、譬え話だよ。とてもとても大きな国だから、どこかが夜でもどこかは昼間なんだ。その国では必ずどこかしらで太陽が出ているから、太陽が沈まない国、ってね」

その様な国があることを、私は知らない。

 私は頭の良い女ではなかったからあまり外の物事を教わることはなく、笑って相槌を打って、後は音を奏でて舞えば良いと、上からはそう言われてきたからだ。

「へー、おっきな国なんですねー。私には想像出来ません」

だから男の話は面白い。私の知らないことを知っている。教えてくれる。

 その時私は久々に、人間が大好きだと言うことを思い出した。

「本当だね。いつかこの国もその様になればいいのだけれど……――」

と、そう言った男の憂い顔は見ない振りをして――――

 そうして気になり出したら仕方のない性格の私の質問にも男は嫌な顔一つせずに答えてくれて、結局事に至ることもなく時間はやってくる。

 普通なら何でもかんでもただ質問するだけの私の様な面倒な女とは二度と会いたくないと思うのだろうが、男はひらひらと手を振りまた来るよ、と笑って去っていったので驚きだ。

 それから男は毎日私の元へとやってくるようになり、ただ話をするだけの、妙な関係が始まった。

 男が話し、私が聞く。ただそれだけの、男はそれ以外の一切を私に求めない、そんな不思議な関係だった。

 私は仙狸、人を食らう化け物だ。人を誘い出す為の力だってある。その力をまだ上手に扱えなかった頃だったのにも関わらず、男は常に理性的で、私はそれが不思議で不思議でたまらなかった。

「興味がないと言えば嘘になるね。でも、俺はこうやって話しているだけで十分なんだよ」

どうして私を求める様なことを言わないのか。私の問いに照れたように笑って返した男の本心は今でも分からないけど、でも私に好意の様なものは寄せていたのではないかと思う。多分。

 そんな風に男とただ話をするだけの関係が続いたある日、男はとんでもないことを言い出した。

 身請け――である。男は私を買い取る気であった。

 その旨を告げた男の様子から見ると冗談なんかじゃない様で、どうだろうかと真剣に問うのだ。ここから出られる、とても喜ばしいことだが、私には問題がひとつあった。

 それは私が化け物であること。ここでは主が面倒を見てくれている。食事に困ることはない。

 だが、男の元へと行けば、日々の食事は自分で用意しなければならない。見つかれば捕まる、男に迷惑が掛かる。そう考えるととてもじゃないが喜んで返事は出来ない。

 悩んだ挙句に少し考えさせて下さいと伝えれば、男は全てを見透かしたような、真っ直ぐな視線で私を射抜いてこう言った。

「君が食べる物には、困らせないよ」

それは至極当たり前の、ありふれた口説き文句なのにどうしてだろう、何かが変だ。

 ぴりりと体を駆け抜ける感覚すら男には伝わってしまっているみたいで、男はそのまま、今度はにっこり、私の緊張を和らげる笑顔で告げる。

「平気だよ。殺さなければいいんだ。外で生きていく為のことは全部俺が教えるから、ほら、一緒に行こう?」

男は知っていた。

 私が人を食い殺して捕まった化け物であるということ、

 妓楼の主に匿われ、飼われていること、

 四川で人が消えるという噂も、

 この周辺で度々人が消えるという噂も、全部、全部――


 結局、名目上は下女として、私は男と共に暮らすことになった。

 男の家で世話になることになったその日、妓楼に来たのも最初は調査の為だったのだと男は言った。度々人が消える妓楼がある、入ったきり出てこない人間がいると噂を聞きつけ調査の目的で出入りする様になり、それから様子を探り目星を付けて、そこで辿り着いたのが私だったらしい。

「あの妓楼の主には前々から問題があってね。ついでに君も捕まえるつもりだったけど、気が変わったんだ。決して馬鹿にしている訳じゃなく、君が可哀想になってしまってね。もしかしたら、君の持つ不思議な力に中てられてしまったのかも」

寂しそうに、しかし微笑みながら私を見つめる男は、ごめんね、とただ一言謝り、その次の日から仕事の合間を縫って私に生きる術を教えてくれた。

 危険な目に遭ったらまずは逃げることを考える――

 私が最初に覚えたのは護身術と暗器の扱い。

 腕を掴まれた時の対処法に針や爪の使い方、近接戦闘術からひょうの投擲まで、武器を持った並の兵士相手に、対等に戦えるというまではいかなくとも確実に逃げられる様になることを目標として、私は来る日も来る日も鍛錬に明け暮れた。

 男の攻撃を躱し、避け、一撃を当ててそれから逃げる――

 私はとても長生きだからこの先一人でも生きていける様に、何かがあっても大丈夫な様にと、身の守り方、人間社会のこと、読み書き、簡単な計算……生きていく上で必要なことを、男からひとつひとつ教わった。

 食事は男の精を、最低限、必要な分だけ頂いて、それ以外は何も求めず、求められず、それは少し歪な師弟関係だったと思うが、私はそんな生活が楽しくて仕方がなかった。

 そうして何年かが過ぎた頃に男から贈られたのが、この釵。これは男の、最期の贈り物だ。

 君の髪は綺麗だから――そう言った男は笑っているのに泣いていた。

「元気でね」

それだけを言い遺して去った男は明の兵士だった。

 彼は、もう国が長くないことをずっとずっと前から知っていたのだと思う。それでも逃げなかったのは、きっとこの国の人間であることに誇りを持っていたから――

 私はやはり頭の悪い人間だったのだ。男から教わることばかりで自ら物を知るということをしなかった。現に、戦の火の手が近づいて来ていることすら知らなかったのだ。全くの阿呆である。

 世の情勢を知っていたから何を変えられるという訳ではないけれど、何かしら力になれたのではないか、がらんとした邸の中で、私は初めて涙を流し、名も知らぬ敵国を呪った――


「随分とあっさりしているのね。それで、貴方はどうしたの?」

「私、私ですか。そうですね。男と出会う前、妓女になる前の暮らしに戻ってしまいました。歴史の勉強はちょっとだけしましたが、戦争だなんてやっぱり、人間は碌な生き物じゃなかったので…………あれ……?」

物思いに耽っていた私の眼前に二本の足、見上げればニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべた女の顔があった。

 先程までここには誰もいなかったはず、黄金色の長い髪を持ったその女が纏う空気は酷く重苦しい、人間のものとは違う、別のものだった――

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