檻の山猫 前編
もしも、突然不思議な力を手に入れたら
もしも、突然人外の存在になってしまったら
もしも、突然飼い猫が、飼い犬が、人間になってしまったら
もしも、突然化け物に襲われたら
そんなもしもが誰にでも起こりうる世界なら
貴方自身の身に起きたのなら、貴方はどうしますか――
問い掛けても返事は返ってこなかった――
傷だらけの体を摩りながら部屋をぐるりと見渡せば、灰色の壁と鉄格子が嵌められた小さな窓、反対側に重たそうな鉄の扉、それから冷たいタイル貼りの床には五人の、人間の男が転がっている――
早くここから逃げ出したいところだけど恐らく外には見張りもいるはず。
何人いるかもわからない、人間かどうかも分からない敵を相手に戦う力なんて私にはもう残っておらず、これではどうしようもないと白旗を上げるしかないのだ。
「無理ですね……」
ぽつり、呟いたのは諦めの言葉。
床に座り、ごろりと転がったそれを一人、引き寄せて膝の上に載せる。
「ねえ。私、あれ程懇願したじゃないですか。止めて下さいって……」
人間って本当に仕方ない生き物ですね――
慈しむ様に一人一人順番に髪を梳いてあげて、最後に吐き捨てた言葉は人間へ対する憐れみ、恨みつらみ。
傷だらけの手をぼんやりと眺めながら思い出すのは過去のこと――
昔々も大昔、私はなんてことない山猫だった。
森を、山を、駆け回り、食われそうになったら逃げて、逃げて、図太く生きる、なんてことない山猫だった。
そんななんてことない山猫の私には他の動物とは違う点がふたつ。
ひとつは、人間が大好きだったこと。
人里離れた山の中、迷い込んだ人間を見つけると気まぐれに麓まで案内したり、構ってくれと強請ってみたり……私を食らおうとする人間もいなかった訳ではないけれど、それでも多くの人間は私に優しくしてくれて、私は彼らのことが大好きだった。
そしてふたつめ、それは私が他の動物達と比べると大分長生きだったこと。
年月については数えていないからわからない。わからないけれど、他の動物達が世代を重ねていく中、私はずっと独りで生きてきた。
しかし私も不死身ではない。
怪我をすれば動けなくなるし、食べなければ死ぬ。
それを悟ったのは、虎だったか熊だったか、自分よりも大きな獣に襲われ死を覚悟した時のこと。
どうにか抜け出し命からがら逃げることは出来たが傷は深く、もう体も思う様に動かない。
ついに私にも死が訪れたのだと、理解するのは簡単だった。
すぐそこに迫っている死という現実に不思議と恐怖の感情はなく、流れに身を任せゆっくりと目を閉じそこで私の意識は途切れ……次に目を覚ました時、私は人間になっていた――
否、正確には人間に良く似た別の生き物になっていたと言った方がいいだろう。
だって体は間違いなく人間と同じ見た目なのに、
本能が、
中身が、
種族が、
人間とは全く違っていたのだもの。
――憧れだったはずの人間の体を手に入れてから何百年経ったか。
人間の体を手に入れたその時から私は、人間とも獣ともつかない奇妙な生き物として、人間とは程遠い、しかし獣ともまた違った、これまた奇妙な生活をしてきた。
「嫌になっちゃいますね」
自嘲気味に呟き鼻で笑うと、ぴくり、動いた一人が憎しみを込めた目で私を睨み付ける。
「なんですか。情けない男ですね」
嗚呼、情けない、情けない。
私のことをか弱い人間の女だとでも思っていたのだろうか。私のことを襲おうと、先に手を出したのは貴方達ではないか。
本当に情けない。
「ねえ、知ってます? この部屋のすぐ外に人がいるのに、助けに来るどころか様子を見に扉を開けることもないんですよ。可哀想に、見捨てられたんです、貴方達。まー、もしかしたら最初から私の餌としてここに入れられたのかも知れませんけどね」
意地悪く笑ってみせて、一歩前に出る。
それからしゃがんで、男の顎を摩り、持ち上げてみると忌々しげに私を睨みつけていた表情は恐怖に歪み、体はがたがたと震え出す。
嗚呼、愉快愉快。最初はあんなに楽しそうに私の服を剥いでいたのに、そんな目で見られたらぞくぞくしてしまう。
「何を怖がってるのかと思いましたが、そうですか……貴方はこれ以上精を吸われたら死ぬって理解してるんですね。お利口さんじゃないですか。さあ、最期の精を下さいな」
精、それは気力とか活力とか元気とか、そんな感じの曖昧なもの。
人の姿になったその日から、私はそれを糧に生きる様になり、今まで多くの人間を食らい、今日まで生きてきたのだ。
だから人間は私の餌、糧、活力源で私が生きていく上で必要な存在。
あれ程人間に憧れ、恋焦がれていたのに、現実とは皮肉なものである。
「さあ、他の方が目覚めないうちに……いただきます――」
腹の上に跨り人間の真似をして手を合わせ、頬、顎、首と手を這わせれば嫌だ嫌だと首を振っていた男の表情は恍惚へと変わりすっかりおとなしくなる。
良い子ですねと頭を撫でて顔を近付け、すっと息を吸い込んだその瞬間、彼は気を失う様に息絶えた。
あっさりとした、あまりにも呆気ない最期だった。
「今にも死にそうな人間の精を頂いても何の腹の足しにもならないですね。でも、ご馳走様でした」
もう一度手を合わせ、残りの四人も同じ様に頂き、ごろりと床に寝転がれば壁と同じ灰色の無機質な天井と、ちかちかと点滅する蛍光灯が目に入る。
「一体、ここはどこなんでしょうか……」
私が何をしたと言うのだろう。
薄暗い部屋に閉じ込められ、見知らぬ人間の男達に襲われ、抵抗すれば殴られ、蹴られ、本当に散々だ。
山と街を往復しながらひっそりと暮らしていたはずなのに、何がどうしてこうなったのか、敵の目的は何なのか、皆目見当がつかないものだから困ってしまう。
「もうお手上げです」
考えても埒があかない。
ここから出られるのかもわからない。
頭を使うのは得意ではないし疲れてしまう。もうどうにでもしてくれとひとつ伸びをし瞼を閉じ、
「全く、本当に散々――」
と、溜息と共に呟いたその瞬間だった。
外が俄に騒がしくなったかと思えば、悲鳴と銃声、それから固い何かを壊す様な、金属がぶつかる様な、そんな大きな音が聞こえてくる。
「本当に、なんなんですか……」
息を殺して部屋の隅、耳を澄まして探るのは外の様子。
公安か、それとも軍か別の敵……何にしてもこの騒ぎに乗じて逃げ出せればそれが一番良い。男達を死なせてしまった以上、私も完全な被害者ではいられない。私に残されたのは強行突破のみなのだ。
引きちぎられた衣服を拾い上げ、隠し持っていた釵を取り出すと扉のすぐ隣に移動し待機する。狙うのは扉が開いたその瞬間だけだった。
怒声、悲鳴、呻き声はだんだんと聞こえなくなり、足音だけが近付いてくる。
やがてそれは部屋の前でぴたりと止まり、扉の下、ほんの少し空いた隙間からは二人分の影が見えた――二人、先程の騒ぎの大きさと比べて人数が少ない。ということは侵入者は公安や軍ではない。
ならば全く別の敵が侵入してきたのか、敵同士の内輪揉めか……敵の目的が何にせよ人間二人なら好都合。不意打ちで仕留めて逃げれば全くの無問題だ。
「結構な人数が居たが……人間の男五人にこんなに人を割くものかねぇ」
「全くだ。しかし俺達二人でこなす仕事でもないと思うが、果たして」
男の声が二つ、聞こえてくる。
どちらの声も低く落ち着いているので相当な手練か油断しているかのどちらか、或いはそのどちらもか。嫌な汗が出る。
「まあいいさ。五人まとめてちゃちゃっと助けてさっさと帰ろう。一応、油断はするなよ」
「その様なこと、百も承知だ」
会話の内容からすると二人の目的は、私と一緒に閉じ込められた男達の救出。
都合が悪い展開に頭を抱えたくなるけれど、今はそんなことは関係ない。
私の目的はただ一つ、ここから逃げ出すことだけだ。
ついに来た……。
かちゃりと、鍵が外され扉が開いたその瞬間、私は一歩踏み出し男の喉元に爪を立て――るはずだった。
「なんのつもりだ」
しくじった。
掴まれた手首を捻りあげられ喉の奥から声が漏れる。
二撃目に用意していた左手の釵は、するりと滑り落ちて、高い音を立てて床に叩きつけられた。
「殺したのはお前か」
年の頃は四十くらいか、黒髪を後ろへ纏め撫で上げた男は部屋を見回し私に問う。
二本の腕は男にしっかりと掴まれ、足で蹴っても私よりも大きな体はびくともしない。
「だったら、なんだって言うんです?」
私だって何も好き好んでこんなことをした訳ではない。
襲われたからやり返した、丁度よく獲物がいたから食べただけ、仕方のないことなんだと、きつく睨み付けた視線の先、黙ったままの男の双眸は、静かな怒りを湛えていた。
「そうか……。では、何故殺した」
私の手首を握る手に、ぐっと力が込められる。
そしてその腕とは反対の、男の右手に握られているのは、槍――
この人は人間ではない、私の勘がそれを告げる。人間が今日日槍を使って戦うとは到底思えない。それに、身に纏っている空気が人間のそれとは違い、重苦しいのだ。
「お腹が空いていたから、食べただけですよ。それと、私からも質問です。私が食い殺した男達は、貴方達の仲間ですか」
質問を返せば男は私を解放し、それから槍を構えて一言答える。
「仲間ではない」
「そうですか。なら――」
「食い殺す必要はあったのか」
なら問題ないでしょう、と、言いかけた私の喉元当てられた刃先。
一体全体なんなのだ。この男は碌に話も聞けない奴なのか。
私は男の問いかけを鼻で笑い飛ばし、冗談じゃないですと吐き捨てた。
「殺す必要ですって? 私だってこの方達が善良な人間なら死ぬまで精を啜るなんて真似はしませんよ。監禁された挙句、見知らぬ男五人にひん剥かれたのに、腹が立っても腹が減っても殺さない様にしろと言うのなら、黙っていろと言うのなら! そんなの死んだ方がマシです――」
長い時間閉じ込められていた苛立ちでどうかしているんだ。
無性に腹が立つ。
泣きたくて仕方ない。
解ってはいるけど止められない。
馬鹿みたい、長生きなんてするもんじゃないですね、と毒突いて、それから私は槍へ向かって倒れ込み、死ぬ、つもりだった――
「おっと危ない。女の子に目の前で死なれるのはちょっとな……」
私を支えたのは槍を構えた男の後ろに立っていた大男。
槍の男と年齢はそう変わらないであろう、焦げ茶の長い髪を低い位置で纏めた彼は一瞬で距離を詰め、がっしりとした腕で私を抱きかかえたかと思えば、自らが羽織っていた上着を私に被せ、ばつが悪そうに目を逸らす。
彼もまた、人外の存在なのか。座り込んだ床のひんやりとした感触に鳥肌が立つ。
「おい、少し苛め過ぎじゃあないのか。この子は手負いだぞ。お嬢ちゃん、傷は痛むか?」
大男は槍の男を咎め、それから私の体を見て眉間に皺を寄せる。
まるで自分が怪我をしたかの様な彼の悲痛な面持ちに、私は、どうして貴方がそんな顔を、と首を傾げることしか出来なかった。
「この子が嘘を言っていないことぐらい、俺にでも判る。なあ、お前ならこの子が完全な悪ではないことぐらい、とっくに解っていただろう」
どうして追い詰めた――責める様な大男の問いに、男は構えた槍を投げ捨てる。
がらんと、鈍い音を立てるはずだった槍は空中で何かに呑み込まれる様に消えていき、やはり人外かと、妙に納得してしまうのだ。
「刺すつもりなど毛頭なかったが、こいつは放っておくと悪さをする様になるからな。少し灸を据えてやるつもりだった」
「それは勘かい?」
「半分はな」
伏し目がちに呟いた男は私が落とした釵を拾い上げ、深く大きく息を吐いてから私を見下げる。既に瞳に怒りの色はなく、そこにはただただ憂いのみが存在していた。
「そうか……。まあお前の言いたいことも解るが、お前が彼女を追い詰めたのは事実だぞ。何かすることがあるんじゃないかねぇ」
大男が呆れた様に頭を掻けば、男は私の前にしゃがみこみ、視線を合わせて私に釵を差し出して、それからぎこちなく口を開く。
「その……良い釵だな。大事にしていた物なのだろう。……乱暴にして、すまなかった」
「別に……ただの頂き物ですよ。大事になんかしていません」
別に今更謝ってもらおうなんて思ってない。
それにこの釵は、昔々に貰っただけの頂き物。使ったことなど一度もない、私には無用の物なのだ。
素っ気無く返事を返して釵を受け取ると、男は懐から小瓶を取り出し中身を私の傷に塗り始めた。液体が傷口に沁みる感覚が不快で手を払いたくなるけれど、しっかりと掴まれた腕は思う様には動かなかった。
「なんのつもりですか」
「怪我人を放っておく訳にもいかんだろう。少し痛むだろうが大人しくしておけ」
痛めつけられることには慣れていたけど、優しくされるのには慣れていない。
こそばゆいのは肌か心か、気安く触らないで下さいと睨み付けても男は構わず薬を塗り続け、その男の後ろ、大男は何かを考える様にその様子じっと見つめている。彼らの行動ひとつひとつが、全くもって理解出来なかった。