第一話
北方には青くけぶる雄大な山脈を望み、東西には豊かな大地が長く広がる。美しく広大なこの地の名はミュシャ。
過去にはミュシャ全土で血生臭い戦乱が幾度も繰り返され、大小の国家が生まれては消えていったが、今やそれも昔のこと。ミュシャには現在、東方、中央、西方に三つの国家があり、三国は互いに不可侵の条約を結び、国交を樹立させてからは百とニ十年程の時を経ていた。それぞれの国家内において、ごく小さな諍いは絶えないものの、至って平和な時代を迎えている。
ミュシャの西方に位置する王国の名はモリーシア。この国には戦乱の世よりも遥か昔、いつの頃かも定かでは無い程の、遠い遠い昔に、突如滅んだと伝えられる古代王朝の遺跡郡が、数多く地下に埋もれている。
モリーシアでは国策として遺跡の発掘調査や研究に力を注いでおり、遺跡に関連した職に就く者達も多い。遺跡より発掘された古代美術品、宝飾品、歴史的価値のある資料等は専門の鑑定免許を持つ者達によって、それぞれ等級を付けられる。その中で、比較的価値の低いものは役所にて許可を得れば、一般人でも売買する事ができる。そして、それらの品々は等級が上がっていくにつれ、売買の経路は狭まってゆく。流通できる中での最上級のものは、国が主催する競売でのみ、お目に掛かれるという具合であった。
このような国の背景があるがゆえに、王都をはじめ主要な都市部や規模の大きい遺跡の発掘現場等の人が多く集まる場所には盗人、詐欺師、贋作師、掏摸らが横行していた。また、人出を当て込んで無許可で商売を始める、売春婦や男娼、怪しげな薬売り達がどこからともなく湧いて出るのも、ある意味道理というものだろう。それに伴い、盗掘されたお宝や盗品が売りさばかれる闇市の存在も、またしかり。
当然、国としても貴重な発掘品の流出と財源を荒らされる事を防ぐ為、警備にはかなりの力を注いでいる。時に見せしめとして、捕らえた犯罪者達を公開刑にて裁くことも辞さないでいた。罪の重さの如何によっては極刑をもって。それもかなり残酷な方法で行ってはいるものの、根本的な解決には到っていない。
なぜならば、とびきり甘い過去の遺産という名の汁が、未だ枯れる様子が無い、という点が挙げられる。労力を惜しまず、多少の危険に目さえつむれば、その甘い汁が存外すすれてしまう事が要因である。また、犯罪者達の背後で暗躍する闇組織が、国の有力者達と敵対しているように見せつつ、その実しっかりと蜜月関係を築き上げている為であったからして。
身の内に消化しきれない腐敗を孕んでいながらも、モリーシアの国民の多くは、過去の恩恵に与り、この世の春を謳歌していた。
王都から東へ旅慣れた者の足で七日程の所に、近郊に数多の発掘現場を抱えた、モリーシア王国第二の都市、ペクがある。ペクの中心部には貴人達が暮らす瀟洒な街並みが存在し、高い外壁によって隔てられていた。その中心部を取り囲むようにして、分限者達が暮らす街が形成されている。更に外壁を隔て、外側に向かう程に、街はどんどんと猥雑な様相へと変化していった。
カルコ・ジャモンもまた、ペクを拠点にし、遺跡を盗掘する事を生業にしている者の一人である。カルコはまだ少年の域を完全に抜け出せてはいないものの一人立ちして早四年、今ではいっぱしの宝飾品、及び宝石専門の盗人として、そこそこに稼いでいた。
「カルコ、今から盗掘かい?」
ここはペクの街外れに広がる貧民街。未だ夜も明けやらぬ頃、カルコが遠出用の装備に身を包み、住み処から外へと出てきたところで、近所に住む枯れ枝のような老女が声をを掛けてきた。
「あぁ。ちょっくら潜ってガッポリ稼いでくるぜ。それにしても相変わらず、朝の早いバァさんだな」
「カルコ、お前はどこに目ぇ付けてんだ! あたしはまだ、お姉さんだよ!」
手に持つ角灯でしわくちゃな顔を照らしながら、老女は鼻息も荒く、まくし立てる。
「あたしにゃ娼館でお客を取ってた頃の生活が骨身に染み付いちまっているからね。この時分といやぁ、まだまだ宵の口さね。それはそうと、あの頃のあたしは娼館の中でも特級の娼妓でねぇ。浮き世という泥に咲く気高い一輪の白蓮華と言われ、そりゃあもう御大尽共がひっきりなしに列をなして……」
話がいつものように、老女の過去の栄光に差し掛かってきた。カルコは外套の合わせから出した手をひらひらと振りつつ、それを聞き流す。
「へいへい、じゃあな。朝っぱらから興奮し過ぎて卒中起こすなよ、ババァ」
「この糞ガキが! 穴に嵌まってピーピー泣きやがれってんだ! あと、あたしゃまだお姉さんだよっ!」
カルコと老女は、これまたいつものように口汚く挨拶を済ませる。カルコは一度大きく手を振ると、振り返る事なく足早にその場を後にした。
街から続く踏み固められた道を、カルコは一人黙々と歩き続ける。この頃めっきり春の気配が濃くなってはきたが、残夜の冷え込みはまだまだ厳しい。カルコの体は厚手の外套にすっぽりと覆われてはいるものの、隙間から入り込む冷気に思わずぶるりと体を震わせた。暫くして体が十分に温まってくれば、足取りさえもしっかりとしてくる。その確かな歩調に合わせて、ひょこひょこと揺れるのは頭の上で結わえられた 前髪だ。
以前はこの前髪を貧民街の住人や同業者に、やれお嬢だの、おしめの取れてない赤ん坊みたいだのと馬鹿にもされたが、カルコ本人が全く気にも留めていなかったので、今では誰も、その事に言及しなくなった。カルコが前髪を頭上に結わえている理由は、視界の明確な確保。その一点に尽きる。
癖の強い髪は耳の下辺りで切られてはいるものの、あちらこちらへと持ち主の性格を表すかのように自由奔放に跳ねている。その躍動感あふれる焦げ茶色の髪も、よく日に焼けた健康的な肌も、大きくて強い意志を感じさせる瑞々しい杏子のような双眸も、今は亡き、母にして盗人の師であったメイゼイの面影を色濃く残していた。
カルコは物心がつく前から母メイゼイによって盗人として生きる術を叩き込まれて育った。普段はおおらかで、細かいことは余り気にもしないメイゼイであったが、盗人の師としてカルコに接する時は、まさに『鬼』の如し。容赦もへったくれも無かった。
盗掘の基礎に始まり、情報が命の仕事であるがゆえに読み書きは勿論、遺跡の攻略に必須の古代語の習得に暗号の解読法。手に入れたお宝を売り捌く際の交渉術に算術。役人や裏の顔役への筋の通し方。野外で生活する為の知恵。敵に襲われた時に身を守る為の格闘術や投擲術、短剣を用いた戦闘術の修練には敵に殺される前にメイゼイに殺されると、カルコは本気で思ったりしたものだ。メイゼイ自身も宝飾品や宝石専門の盗人であり、目利きは玄人に引けを取らず、カルコは宝石や貴金属に関する知りうる限りの事を教えられ、本物を見極める目を養われた。
時にカルコは、その扱きの辛さに耐えきれず、メイゼイと大喧嘩をしては家出を幾度となく繰り返した。だが、なんだかんだとあっても決して嫌いになどなれない母と、粗末ながらも住み慣れた我が家が恋しくなれば、カルコは重い足取りで、家にと帰って行ったものだ。家に帰り着いてバツの悪そうな顔をしているカルコの頭をメイゼイは決まって優しくぽんぽんと撫でた。その時のメイゼイの目は「あたしもあんたと同じようなもんだったさ」と語り掛けるかのように悪戯っぽく笑っていた。
結局の所、カルコもメイゼイと同じく、盗人としての生き方に共感していたのだ。カルコもまた、長い眠りから目覚めた、太古の宝飾品や宝石が放つ美しくも妖しい魅力の虜となり、やはり血は争えないものだと、つくづく感じたものだった。
カルコがメイゼイと一緒に遺跡に潜り出したのは、いくつの頃だったのか、余り覚えてはいない。はっきりしているのは、十ニの年を数える頃には単身で遺跡に乗り込むことも多くなった、という事だ。そして、カルコがこの世に生を受けて十三回目の夏を迎えたある日、メイゼイは何の前触れも無しに突然家で倒れ、そのまま息を引き取った。近場に住む闇医師にして藪の話では、心の臓か、はたまた頭に血の塊が詰まったのだろうと、何とも曖昧な事を言っていたものだ。
それ以来カルコは一人で必死に盗掘を続け糊口をしのぎ、ここ最近になって、ようやく生きていくのに余裕を感じられるようになった。
「夜が明けるな」
こうして何度払暁を迎えた事だろうか。
「今回の潜りで、そろそろきっちりとケリを付けてやる」
カルコはそっと独りごちるも、言葉の端々には思いの丈が強く込められていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カルコがペク近郊にある遺跡の発掘現場の一つであり、傾斜のきつい険しい山の麓にある通称『山裾』にたどり着いたのは、まだ日が高いうちであった。
遺跡の発掘現場と、そこで作業する者達が寝起きをする天幕村は、山を背にして刺々しい高い柵でぐるりと囲まれており、出入り出来るのは正面の門一ヶ所のみ。カルコは他の現場帰りの作業人を装って、涼しい顔で門へと近づいていく。通常、門の詰所には二人一組の役人が詰めている。どうやら一人は中にいるようだ。一人外に出て紫煙をくゆらせていた役人が、怪訝そうな表情を浮かべながら、カルコを注視する。
「お役人様、お役目お疲れ様です。自分は『大杉』の所で一掘りして来まして、ペクに帰る途中なんですが、ちょっと張り切り過ぎたみたいで、今になってどっと疲れが出てしまいまして……。誠に恐縮なのですが、天幕村の端っこを少しばかり使わせて頂けたらなぁと思い、声をお掛けした次第です。どうか一晩だけ宜しくお願いします。勿論、発掘現場には一切近付きませんから、ご安心下さい」
普段のカルコの口からは間違っても出ないような言葉をするすると紡ぎ出し、通称『大杉』と呼ばれる、近くに大きな杉の木が生えている遺跡の発掘許可証を役人に差し出す。許可証の下には大銀貨を五枚、そっと忍ばせて。
本来であれば『山裾』の発掘許可証、若しくは、ここで商売をする許可証を持つ者以外は入れない決まりである。煙管をくわえた役人は、指の感触で硬貨の種類と枚数を確かめると、袖の中へと大銀貨を落とし込んだ。その後『大杉』の許可証にさっと目を通すと、役人はすぐにそれをカルコへと返す。役人は相方のいる詰所をちらりと一瞥し、やや渋る素振りを見せた。するとカルコはすかさず、もう一押しとばかりに畳み込む。
「やっと春の足音を聞いたばかりで、まだまだ冷え込みは厳しいですからね。帰りしなに『大杉』の仲間が気を利かせて持たせてくれたのですが、生憎と自分は下戸でして……。よろしければあちらのお役人様と一緒に飲んで頂けないでしょうか? そうすれば、こいつも喜ぶと思います」
カルコは透明な硝子瓶に入った綺麗な琥珀色の蒸留酒をひょいと差し出す。この時にも先程と同じ枚数の大銀貨をこっそりと役人の手に握らせた。遠慮無しに瓶に貼られた銘柄を見やると、役人は思わず顔の表情を弛めた。相方の分の銀貨と、かなり上等な酒をせしめた役人は、弛んだ顔を元のしかめ面に戻すと、さっさと行けとばかりに顎をしゃくってカルコを促す。
「発掘現場の監視の役人と、作業人共には迷惑を掛けるなよ」
役人はぞんざいにそれだけを言うと、相方の所へいそいそと向かって行く。カルコは役人にぺこりと頭を一つ下げた後、門をくぐり抜けて天幕村の一番端へと移動する。
カルコは背嚢を下ろせば、手早く簡易天幕を張る。張り終えた簡易天幕の中に入って腰を下ろすと、カルコはようやく一息ついた。
「情報通りの、ちょろい役人だったな。出費は少々かさんじまったが、勝手に勘違いしてくれたんだから万々歳ってか」
先程のやり取りで、役人はカルコの事を『大杉』での発掘が空振りに終わった為『山裾』で一つ博打に打って出た輩だと思い込んだのだ。
ここ『山裾』の後ろに、でんとそびえている山には色々な種類の薬草が自生している。傷口の血止めや腹下しに良く効くものなど、現場で働く者達とって、それらは非常に重宝されており、その為に、とても険しいこの山には『山裾』で働く者達専用の山道が整備されていた。だが役人もカルコが薬草を採取する為に、決して安くはない袖の下を渡したとは、当然思ってはいない。なぜならば、この山には非常に美しい蝶が極々僅かだが生息し、それが高値で取引されているからである。この蝶は蛹の状態で越冬する。今の時期ならば、まだ羽化はしていないので、蛹を上手く見つけて大金持ちの蝶の愛好家の所にでも持ち込めば、それこそ目玉の飛び出るような値が付くのであった。
モリーシアでは一昔前に虫を飼育したり標本を作ったりするのが大流行した。次第により珍しい虫を人々は求め出し、一時期はわざわざ高い金を払って『山裾』の発掘許可証を取得したにも関わらず、遺跡の発掘よりも山道を利用しての蝶探しにここへ訪れる者の方が多い程であった。元々蝶の数はそう多くはなかった為、あっと言う間に激減し、今では幻の蝶とまで言われるようになった。虫の収集の流行が去った今も、真の虫愛好家だけが残った為、この蝶の価値は未だ天井知らずなのである。
そういった事情であるがゆえ、蝶の蛹はよほどの幸運に、それこそ遺跡で古代の王家ゆかりのお宝を見つける程の幸運にでも見舞われなければ、そうそうに見つかるものでは無い。役人の目にはカルコが『大杉』で空振りしてツキに見放されたくせに、見苦しく一攫千金を狙って悪足掻きしている輩と映った事であろう。あっさりとカルコを捨て置いたのが良い証拠だ。
「役人の鑑みてぇな融通の利かない堅物は、上が動かし、現場にはおらず、か」
本物と見まごうばかりに精巧な造りをした、偽の『大杉』の発掘許可証をくるくると手で弄びながら、カルコは今後の予定を、今一度頭の中で組み立て出す。それは蝶の蛹を探す事ではない。カルコが蝶を隠れ蓑にして挑む、己の盗人魂をかけた大仕事だ。カルコは口元に弧を描くと、まだ見ぬ宝にへと思いを馳せる。