Please...
火の海だった。
どちらを向いても燃え盛る炎が行く手を塞ぐ。立ち込める煙に視界が涙で霞み、熱風に肌を焼かれる。
その中を、走る。
「――クレスティア……!」
戦争だ。龍人と、人間の、戦争。
仕掛けたのは一方的に人間だったが、戦況は一方的に龍人の優勢だった。
何せ、人間には生まれ持った力などなく、邪知奸佞しか武器がないのだ。龍と人とを行き来できる龍人に、圧倒的な暴力を以て制圧されれば、屈するしかない。
「クレスティア……!」
火の海だった。無事な場所などない。
数日前まで帝都一の商業都市だった街が、たった半日で燃え尽きた。
「くそ、どこに……!」
走る。
探す。
だが、見つからない。
360度が燃えている。燃え盛っている。
焼け落ちていく建物の隙間、既に火の手の抜けた焦土を縫うようにして駆け抜ける。
生存者は、ほぼ皆無。
炎の奥に、影が見えることがある。灰の中から突き出た手のような炭が見える。半身を炭化させながら、狂おしく喘ぐモノが転がっている。
それらの全てに、一瞥を送り、しかし駆け抜ければ一顧だにしない。
「クレス、ティア……!」
熱風にあてられて、眼球が乾く。喉奥が焼け付く。ときに酸欠に襲われ、ときに焼け落ちた何かに足を取られて炭と灰に頭から突っ込む。
彼自身、無傷ではない。打ち身や擦り傷、火傷が全身を所狭しと覆っている。
それでも、彼は立ち上がる。走り続ける。
探し出さなくてはならない。
「クレスティア」
狭くはなかった街の中の、道なき道を駆けずり回る。けれど、探し人は見つからない。
今また、何かに足を引っ掛けて転んだ。疲労から手もつけず、受け身なしに倒れこむ。
が、と思わず吸い込んでしまった灰を吐き出し、眼球をぐるりと巡らせて自分の足を引っ掛けたものに視線を送る。
一見それは、人の形をしているようにも見えた。既に芯まで炭化しているらしく、どうやら彼が引っ掛かった拍子に真っ二つに折れたようだが、
「………」
それに対して何の感情も抱くことはなく、彼はまた必死の思いで立ち上がる。
「……が、あ」
どこに。
どこに、いる。
街中を駆け抜けた。だがどこにもいない。
街を蹂躙していた龍人たちは既に次々と離脱を開始しており、空に姿を見かけるたびに地に伏せ、しかし凝視する。
その龍の姿を子細に見る。
そして、空の彼方に遠ざかるのを待って、再び走り出す。
もう、いないのだろうか。
ぜぇぜぇと掠れた呼吸を繰り返す中で、脳裏によぎる。
探し求めている彼女が、既に”いない”という可能性。
ありえない、ことはない。どころか、一度それに思い当たるとそうとしか思えなくもなってきた。
「……いや」
ひゅ、と腹の底に空気を呑んで、彼は踏み出した。
疲労から上がらない膝を強引にかちあげて、前へ、前へと連続し、いつしかそれは疾走になる。
あと、一ヵ所。
確認していない場所がある。
かつて商業都市だったそれは、程遠くないところに崖を背にしていた。遠い昔に地盤変化が起きたのであろう、大地の標高が途方もない高さに分かれてしまっている。
その崖の上。
街からは離れているが、ここまでも余さず炎獄だった。その中を一度も立ち止まることなく駆け抜け、彼はようやく、たどり着く。
荒い息の中、熱波に揺れる景色の向こう。
見る。
そこに立つ女性。
彼の探していた人。
「――――」
彼は叫ぶ。だがその声はどうしようもなく掠れ、また周囲の燃え爆ぜる暴音にかき消され、自分の耳にすら届かない。
けれど、まるでその声が聴こえたかのように、崖っぷちに立つ彼女は振り返った。
視線が交差する。
「――――」
再び叫ぶ。だが今度もまた、声は音にならずに霧散する。
ひゅ、と灰を吸い込んで、激しく噎せた。
その彼の姿を、彼女は静かに見つめている。
が、と息を吐いて、彼は顔を上げた。けれども、走り続けたことで蓄積した疲労と負い続けた負傷から限界を迎え、意識が閉じかける。
ざ、と倒れる寸前で身体を支え、彼は一歩前に出る。
手を、伸ばす。
彼女のもとへ、差し伸べる。
彼女は。
彼女は、微笑んだ。
嬉しいような、哀しいような。
まるで今にも泣きだしそうな。
そんな、微笑を。
その笑みの意味に、彼が疑問を浮かべる前に、彼女は一歩、下がった。
背後の崖に向かって。
もう一歩。
近づく。
「――――っ」
息を呑む。何をしているのかと。近づこうとする。急に踏み出した足は簡単にもつれ、転倒する。
すぐに起き上がれずもがく彼を見て、彼女は哀の色を強める。
だが、後退する。
もう、踵が断崖に接していた。
あと一歩下がるだけで、いや、ちょっと風に煽られただけでも、容易に転落してしまうだろう。
そこに立ち、彼女は彼を見つめる。
彼も、彼女を見上げる。
「――クレス、ティナ」
名を呼ぶ。それも、きっと届いてはいない。それでも、彼女は両目を瞑った。
そして再び目を開いたとき、彼女はもう一度、彼へ向かって、笑った。
無理をしていることがありありとわかる笑みだった。
“――――”
彼女の唇が言葉を紡ぐ。その言葉もまた、彼の耳には届かないけれど。
凝視する。
“――――”
彼女は言う。
“――――、――――”
最後にもう一度、微笑んで、
身を、背後へ倒していった。
そこは断崖だ。
ゆっくりと、彼女は倒れていく。
その様を、彼は、何もできず、指先は塵芥を掻き毟り、握り潰すばかりで、ただ黙って見送り、
彼女の姿が虚空へ消え、
神々しいばかりの光が、彼女の落ちていった断崖の向こうで炸裂し、その中から飛び上がったものがある。
龍だ。
白銀の身で陽光を美しく照り返し、巨大な翼を悠々と広げ、熱風を散らして上空へ舞い上がる。
龍は、その澄んだ碧い眼で地に伏せる彼を一瞥すると、羽ばたきをひとつ置いて一瞬で加速した。
彼のなすすべもないままに、龍はあっと言う間に遠ざかり、点になり、見えなくなる。
後には、彼だけが残された。
燃えるもの全てを燃やし尽くした炎はやがて自然と立ち消え、生温い風が吹くばかりになる。
ゆっくりと、彼は立ち上がった。
足元はおぼつかず、何度も転びそうになりながら、彼女が落ちていった断崖まで進む。
一歩よろければ転落死する手前で立ち止まり、彼は、龍の飛び去った空の彼方を見つめる。
「――冗談じゃない」
やがて、ぽつりと彼はつぶやいた。
“ごめんね”
“約束、絶対に守ってね”
「約束なんて、誰が守るか」
彼方を睨みつけて、彼は噛み締めるように言う。
約束。
彼と彼女が、幼い頃に交わした、約束。
一触即発、いつ戦争が始まってもおかしくなかった幼少期に、ふたりは、約束したのだ。
いや、約束ではないのかもしれない。
それは、ともすれば一方的とも言える、”お願い”だ。
“もしも戦争になったら。私とあなたが戦わなきゃならなくなったら”
幼かった彼女は、幼かった彼に、言った。
“そのときは絶対に、あなたが私を殺してね”
待ってるから、と彼女はそう言った。
「誰が殺しに行くものか」
彼は言う。強く、深い感情を込めて、誓う。
「約束する――俺は君に、必ず会いに行く。でも、殺しに行くんじゃない」
そのためなら、どんな犠牲も厭わない。
障壁となるのなら、この戦争だって終わらせてみせよう。
障害となるのなら、人類を滅ぼすことだって構わない。
もっとずっと幼い頃に。
愛も恋も知らない頃に交わした、純粋で、無垢な約束を。
きっと守ってみせる。
だから、
「俺は、君と一緒に生きるために――必ず生きて、会いに行く」