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切り立った崖の縁に


 真夏というのは、すでに日の沈むのが早くなってきているものだ。

 仰向けになった俺の視界には、すでに薄墨色に染まった空が拡がっていた。

 何だろう、俺は寝転んでいる。頭が下がって、のばした腕が足の位置より低い、そして、背中には尖ったものがいくつもあたっている。寒い。

 真夏だというのに、寒い。

 自分の中の温かい液体が少しずつ流れだしていって、俺はもうすぐ空っぽになろうとしているのだろうか。


 一番星が見えた。

 そのすぐ脇を飛行機らしい明かりが点滅を繰り返しながら横切っていく。


 山道を登っていこうとする自分の姿をみる。まるで映画のようだ。映っているのは自分ではないみたいだ、もっと浮き浮きとして、ふり返りながら、ロクに足場も注意していない。

 気をつけろよ、俺は俺自身に向かって声をかける。

 いくらハイキングコースとは言え、かなりの高低差があるし、コースの脇はずっと崖になってるんだから。

 それに雨の後で滑りやすい。トンネルにも書いてあっただろう?


 トンネルに? 何の話だ。


 明るく済み渡る夏の空のはずなのに、なぜかイメージの中では薄暗い霞みがかかっている。

 沢から吹き上げる風か、ひんやりと俺の頬を撫でていく。

 冷たさと湿り気、そして押し寄せる残暑の熱波。草の香りが鼻に入り、俺はいつの間にか息を詰めたまま急斜面をよじ登っていた。

 とにかく、ここから逃げたい一心で。


 帰りも同じ道を通る予定だった。

 車はこの登山道の始まり、小さな空き地に停めてきていた。

 コース全体がやや荒れているせいか、すでに昼下がりというには少し遅い時間の出発だったせいか、他に人は見当たらなかった。

 登り始めは順調だった。尖った小石と太い木の根が進路のあちこちを塞いでいたものの、所どころにいきなり姿をみせる大きな奇岩がかなり印象的で、登山に疲れた俺の目を慰めていた。

 想像していたよりもずっと急な崖じみたルートを辿り、ようやく杉林の中へ入る。

 杉林の端にたどり着いた時には少し日が傾いていたにも関わらず、俺はなぜか意地になってそこから更に山頂を目指す。

 林が途切れ、遠くに富士山を望むスポットがある、と聞いていたせいもある。

 山頂近く、富士山が見える場所は確かにあった。俺は深呼吸してからさらに、上を目指す。

 雑木林となったうす暗い尾根道はだらだらとどこか上に向かって伸びていた。

 その先の山小屋に着いた時、俺は林の間、遥か彼方もっと高い山々の間に沈む夕日を見た。

 その時ようやく気づく。今の行程を、今度は全て逆に辿って降りねばならない、と。

 小走りで林の中をかけ下りて行く。途中、あまりにも急でロープが掛けてある場所もあったのだが、そこすら飛び降りるように下っていった。とにかく、暗くなる前に林だけは抜けないと。

 行きもそうだったが、帰りも何かから追われているように俺はふり向きながら道を急ぐ。途中で拾った杖代わりの棒で、足もとにかぶさる草を薙ぎ払いながら、俺はとにかく先を急ぐ。

 呑気な鴉の声が既に冷えはじめた天空に響き、草叢から虫の歌が藍色の冷気を帯びて立ち上る。

 崖のいっとうてっぺん、ここからずっと、巨岩の間を抜けて降りてゆく道の端にたどり着いた時にはあたりはすっかり暮れなずんでいた。

 登って来る時、崖伝いの道だけで一時間半以上はかかっていた覚えがあるので、降りるのにも少なくとも四十分はかかるだろう。暗がりの中、そんな所を降りていくのはさすがにぞっとするものがあった。

 どこでどう、時間配分を違えたのかさっぱり見当がつかない。俺は更に不安になって辺りを見回した。

 こんな場所では、一晩明かす事も出来ないだろう。日帰りの予定だったので照明ひとつ持っていない。第一、このコースはもともと家族で楽しめる初心者向け、というふれこみだったのでは?

 崖の縁に立って、俺は愕然とする。

 どうして俺はこんな所に一人でいるんだろう。

 そもそも、ここに登った理由は何だったのか? 思い出せない。

 富士山、だけが理由だったのか? 俺には山に登って景色を楽しむなんて趣味があったのだろうか? カメラも持っていないのに。

 カメラもそうだったが、一緒に楽しむ家族や友人すらひとりとしていないのに。

 俺は闇の中、遥か下に流れているだろう渓流の音を聴く。水の流れは俺に向かって囁いていた。

 そうだ、オマエには何もないのだ、全ての責任から逃げ、努力から導かれるであろう全ての楽しみを放棄しようとしている、オマエは創り出すことを(いと)い、生み出すことをおそれ、何かをし遂げようとする行為を徹底的に憎んでいる。

 そんなオマエがどうしてここに立っている? 

 すぐ目の前、数メートルも離れていない場所に、白い影が浮かんでいた。

「な……」

 人の影、ちょうど俺の目線と同じ高さに顔らしき部分がぼんやりとみえる。その顔には、表情がなかった。ただ、まっくらな眼窩の中には、虚無があった。

 影が口を開いた、ちろちろと舌先がみえる、そしてその声はかすれた風となって俺の耳に届いた。

<オマエは、無を欲したのだ>

「止めろ!」

 声が聴こえたと同時に、俺は右手に持った棒を思い切り振り下ろした、大声で叫びながら。

「違う、俺はそんなじゃないぞ、俺はそんな」

 足もとが突如崩れ落ちた。そして、俺はまっさかさまに転落して行った。


 そうして、今では静かにこうして星を眺めている。

 よじ登っていたはずじゃ、なかったのか? いや、身体はまるで、動いていなかったようだ。

 俺はもうろうとした意識の中で何度もなんども起き上がり、崖を登ろうとしていたらしい。

 しかし、何が真実の自分だったのか、今ではもはや、どうでもよくなっていた……その身を冷たく横たえて。


 星はいつの間にか、見えなくなっている。

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