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草叢の蛇の眼は昏く

 じっとりとした汗で、シャツが張り付いたのが分かる。

 背中ではない、直射日光が当たっているので、そこはむしろ乾いている。

 張り付くのは胸元。俺が手を動かすたびに、まるく開いた襟ぐりの下で、薄いヘインズのTシャツがぴたりとくっついたりはらりと離れたりを繰り返す。


 草むしりは、いつまでも終わるようにはみえない。

 たいして広くもない庭なのに、生えている雑草はとてつもない量かと思えてくる。

 元々花にはそれほど興味はないので、庭にあるのは数本の立ち木のみだ。

 それでも、雑草はすでに俺の腰くらいまでに伸び呆け互いに絡まり合って、悪意に満ちた真夏の熱気を隙間すきまから濛々(もうもう)と発している。


 無心に作業することはいいことだよ、妻は言った。

 あなたのように、仕事がみつからなくてやきもきしている人間には、たまにやるそんな単純作業がとても効果的なのよ。

 ちょうど草もすごいことになっちゃってるし、梅雨前に取ってくれたきりでしょ? ちょうどいいから、お願い。あ、帽子はちゃんとかぶって、それから水分ちゃんと摂ってね。

 じゃあ、行ってきます。

 そう妻が視界から消えてから、すでに数万年経ってしまった気がする。


 単純作業が精神的に安らぎを与える、などと誰がほざいたのだろう?

 俺は駄目だ。こうして『無心に』草をむしっている間にも、思い浮かぶものは、ふり返りたくもない過去の記憶と、もしもあの時ああしていたら……という無限の悔悟と、ちょっとした過去の出来事から可能性として思いつくさまざまな(いさか)いの一部始終。

 ハローワークでの会話の時もしも俺が窓口の生意気な小僧に掴みかかっていたら?

 表の側溝の件でうちに文句を言いにきた爺さんをお前が悪いと突き飛ばしていたら?

 道ですれ違った宗教勧誘の女たちに悪態をついてみたら? お前の宗教は間違っている、と。

 そしてその無作為の相手との最終的な対決……うしろ暗い妄想のありとあらゆる種類が次から次へと押し寄せてきて、俺を責めさいなむ。

 洗車、物置を掃除、新聞を束ねて溜まったアルミ缶を潰してまとめる、そんな普通ならば眠くなるようなくり返し作業をするたびに、俺の心の中は黒く、黒く塗りつぶされていくのだ。


 真夏の草むしりには、そんな妄想を倍加させる何かがある。

 熱気だろうか、この湿度だろうか、それとも草いきれ――千切りとられる植物の青臭い断末魔の叫びなのか。


 手を伸ばしたすぐ先、二十センチも離れていないところにいきなり蛇をみた。

 こちらに頭を向け、舌先をちろちろと出したりひっこめたりしている。

 俺は息を呑んだ。思わず飛び退り、尻もちをつく。

 蛇の目は、何もみていない。

 まるでトンネルの中の照明のように昏く、ひんやりとしている。

 しかしそれは、俺をしっかと捉えていた。


 しばらくは、息すらつけなかった。

 硬直した時が過ぎ、大きく息を吸い込んだ時、ようやく気づいた。

「……オモチャかよ」

 舌が出たりひっこんだり、というのは完全に俺の思い違いだったようだ。

 

 おそるおそる拾い上げると、長さ三十センチにも満たない全身がすでに枯れ草となったゴミの中からずるずると姿を現した。全身は黒味が掛かっていて、腹側はオレンジと黄色のぼかしたような横縞に覆われている。どうも、ヤマカガシをモデルにしたようだ。


その玩具には見覚えがあった。

夜店で俺が面白がって買ったのだ。妻を驚かせてやろうとして。


 台所に置いた時には大騒ぎになった。

 俺の予想をはるかに超えた驚きよう、そしてその後の怒りの凄まじさ。

 どうしてこんな酷いことをするの、子どもじゃあるまいし。

 妻は目に涙を浮かべんばかりに俺に食ってかかった。

 ごめん、本当にごめん、俺は心から謝った、しかし、彼女は許してくれなかった。

 おもちゃなのに、そのしっぽをティッシュで包むように掴み、縁側から庭に放りだしたのだった。そして、「ばか! このっ! バカっ!」大声で暗がりに向かって叫んだ。

 オマエこそ、なんでそんな子どもじみた真似すんだよ、俺もはずみで怒鳴る。

 オマエの方がよっぽど子どもじゃねえかよ、そんなんだから……

 そこまで言った時、彼女がふり向いた、昏い目をしたまま。

「そんなんだから、何? 

 そんなんだから、いつまでたってもここから抜け出せないの? わたしたち」


 結婚して十年、子どもがいなくても充実した幸せな毎日だと思っていた。

 俺が失業した時にも、すぐにチャンスはあるよ、あなたは才能あるし、頭もいいんだし、手先も器用だし、必ずいい仕事は見つかるはずだよ、あきらめないで。そう言い続けてくれた。


 なのに、あの夜に全てが崩れていったのだ。草叢(くさむら)の中、半分朽ちかけた蛇の目は語っている。

 あのヨルのカノジョの目をみたか? あのクラサ、つめたさ。

 オマエはいつからカノジョを失っていたのだ? オレをふたたび見つけたトキから?

 それとも、もっとずっとマエから?

 それとも、


 あのトンネルの中で、クイズを出された時からだろうか?

 存在すらしない俺の娘から。

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