Japanese Louise
僕の目の前にあるのは、ハート型のストローが挿されたカップルジュース、見た目二十代の美しい女性、そして、婚姻届。僕たちはカップルジュースから伸びるハート型のストローに、互いに吸い付き合っている。傍目から見たら初々しい恋人同士にも見えるだろうが、僕たちを取り巻く雰囲気はそんな悠長なものではない。まさに一触即発。一言でも何か発しようものなら、僕が彼女に殴られる。
「はやくここにサインしてよ」
「……」
彼女が急かす。僕は何も言い出せない。
彼女の名前は夕岸涙。よわい四十歳にして二十台前半の美貌を保つ魔女であり、魔性の女だ。もちろん、実際にイングランドで名を馳せているような魔法云々の魔女ではなく、比喩表現としてのそれなのだが。
彼女が魔女と呼ばれる所以は諸説(!)ある。「心臓が弱いのに若い子向けの婚活パーティに悠々と出席する」だとか「仲間と徹夜で酒を飲み明かす」とか「イケメン男子を囲っていちゃいちゃする」なんて芸当を当たり前のようにこなす姿がたびたび目撃されている。ゆえに、彼女が魔女と呼ばれる所以はそこにあるのだ。心臓が弱いはずなのに、まったく明朗闊達とも言える、その行動をこなせることが。しかも、彼女は現在高級マンションにひとり暮らしだ。囲った男性を毎日入れ替わらせるように家に呼んで、それで自分の身の回りの世話をさせているらしい。両親はすでに亡くなっているらしく、彼女を支えるのはその男性たちだけだ。
「あの、もう一度聞きますけど、なんで僕なんですか」
だからこそ、イケメン男子でもなければお金を持っているわけでもない、そんな僕に結婚を申し込んでくる彼女の行動が理解できず、僕は今日何度目かもわからないその疑問を彼女に投げかけた。ちゅう、とジュースを吸ったのち、彼女が僕に答える。
「いい加減にしてよ。あなた頭悪いわね」
拗ねてまったく答えてくれない彼女。僕は彼女が放ったその言葉をもう一度思い出した。
「その冷めた目なら、私のこと何でもお見通しかと思ったから」
そう。これだけだ。意味を把握しかねるその言葉をまったく理解できず、僕は喫茶店に入ってジュースを頼み、そして今に至るまで何度も彼女に意図を訊ね続けている。だが、彼女は一向に答えてくれないのだ。僕は自分で自分の目を冷めたものだなんて思ってもいないし、夕岸涙という女性のことは「諸説」とそこから推測できるような彼女の性格しか知らない。まして「何でもお見通し」なんて千里眼はどこぞのウジャトにでも渡り歩かない限り手に入るものでもない。ここは日本、そして僕は日本以外の国に興味は無い。
「あの、じゃあ質問を変えます。僕のことを、最初どこで見かけたんですか」
それならば、と僕は質問を変えた。
僕と夕岸涙は大学生だ。都内の有名私立に通っている。最初、僕は彼女のことなんてまるで知りもしない女性だった。彼女のような女性が合格していたなんて露とも知らず、僕は新しい仲間と大学生活を謳歌していた。けれど、それは唐突に終わりを迎えたのだ。彼女──夕岸涙──が、友人と談笑している最中に突然やってきて、「私と結婚してよ」と話しかけてきたからだ。僕と仲間は呆気にとられ、しばらくその場で立ち尽くしていたが、彼女がまた不意に僕の手を取って大学構内を意味もなく連れ回したのだった。解放されたのはそれから二時間後だった。
彼女とのファーストエンカウントはそういった経緯があるが、こうして僕と向かい合って真剣に結婚について持ちかけているのは今という一度だけではない。僕は何度も何度も彼女から、事あるごとに結婚の申し出をされている。
だからこそ、まるで神が僕にけしかけてきたかのように、僕の人生の大きな壁となって現れた彼女の真意とその根拠を知らなければならないのだ。これは権利であり、同時に義務だと思っている。
彼女は静かに言った。
「あなたがゼミの中途結果発表で『〈発現〉と心理系量子脳理論の未来性』を発表していたでしょ。そのときに見たの」
その発表会なら、もう二ヶ月は前のことだ。彼女が僕に話しかけてきたのは発表の日から数日後のことだったから、発表のときに僕を見てすぐに「結婚しよう」と思い立ったことになる。
「発表のときに結婚しようと決めたなら、何が根本的なきっかけですか」
僕は頭に浮かんだその素朴な疑問を彼女に投げかけてみた。すると、彼女は頬杖を付きながら言う。
「その発表会であなた、最後に『まあ、この研究が何かを確固たるものとするなら、それは未来の学問への理論造りだけなんですけどね』と言ったじゃない。『〈発現〉と心理系量子脳理論の未来性』は学問だし、未来にきっと役にたつものになるだろうけれど、あなたは自分の研究が他人や社会のものには決してならないと公言した。それって、あなた自身がこれから先の人生をそんなものに決められたくないと思っているからでしょ」
図星だった。図星すぎて、僕は飲んでいたジュースで噎せた。
彼女は続ける。
「私があなたに目をつけたのは──だからこそ何でもお見通しだと思ったから。一次元的に人生を見るんじゃなくて、まるで神様にでもなったみたいに人生を俯瞰しながら生きているあなたなら、きっと私のこともすべてお見通しで、私のことを心から大切にしてくれる日が来るだろうって思った」
「そんなの……」
そんな理由で目を付けられた自分を恨みたい。たしかにあのときの発言は本心で、しかしそのときはジョークのように締めくくっていた。だが、まさかそれを本心だと気づく者がいたとは思わなかった。もしかしたら目の前の夕岸涙という女は、僕が思っている以上にデリケートな側面を持っているのかもしれない。感受性も高い。
しかし、だからといって僕が目の前の女と結婚するなんて、僕自身が想像できない。彼女は四十歳を超えている。僕は彼女の年齢とダブルスコアで離されている。二倍の年齢差がある。彼女は大学でも随一の美貌を持ち合わせているけれど、少なくとも僕の好みではない。こうなっては最終的に好みの問題になるのは致し方ない話ではある。
少しだけそう言い出すのが怖いが、僕は勇気を振り絞って言ってみた。
「あの、本当に申し訳ないんですけど、僕はあなたのような女性は好みじゃないんです。僕はこう、なんていうか……もっと自然派な女性のほうが好みなんです。涙さんみたいに向上心のあるお方ではなくて、あるがままの自分を見せてくれるような……ああ……男に守られるのを望んでくれているような女性を……その」
言いながら、僕はだんだんしどろもどろになっていった。彼女の顔がしかめっ面になっていったからだ。
男性に守られる女性は僕の理想の女性ではあるが、目の前の女はまるですべて計算づくで動いているかのようだ。イケメン男子が入れ替わり立ち代わり彼女の自宅に出入りしているという噂を聞くと、そんな気持ちになってしまう。それ以前に彼女の心臓は弱いのだ。いつ発作が起きてもおかしくない体で今さら大学を目指していたというのもおかしな話だし、今現在、毎日元気に登校している。
「好みじゃないなら、自然派な女性が好きなら、どうして私の呼びかけに応えてくれたの。私のことがどうでもいいなら無視すればいいじゃない」
「仮にも涙さんは女性ですし、そんなことは……」
「ふざけないで」
もはや心臓が弱いというその証言すら嘘なのではないか。不意にそんな可能性が頭をよぎる。こんな強気な大病人は始めて見た。
「……たしかに、涙さんは誰もが羨む美貌をお持ちですし、教養も身に付けてます。そんなあなたに言い寄られて、僕は内心喜んでいるのかもしれません」
「だったら!」
でも、と僕は続ける。
「涙さんは本当に生きてるんですか」
「え……」
彼女は息を飲む。あなたは幽霊なんですか、という意図ではない。ただ、僕には彼女の生き方が、まるで薄氷の上を無表情のままスケート靴ですいすい滑っているような、例えるならそんなもののように感じられた。まったく人生を楽しんでいるように見えない。
「僕は、あなたが幸せを手にした途端に心臓発作で死んでしまうような、そんな気がします。あなたはきっと幸せなんて重いものをそのまま担いでいたら死んでしまいますよ」
涙さんは俯いて唇を噛みしめる。僕の言わんとしていることはわかっているはずだ。
「そのままのあなたで仮に僕と結婚しても、あなたはすぐに死ぬと思います。まずは薄氷の上から抜け出して、それから無表情でいるのをやめて、自分の生き方に素直になって──そのあとでご自分の心臓を治すように努めてください。それからなら、考えてあげてもいいですよ」
彼女は俯いたままぽつりと言う。
「そのときにはあなた、私のこと好きになってくれるかしら」
「僕は自然派な女性なら誰だって好きになれますよ。今までそういう女性がいなかったから、彼女いない歴が年齢なだけで」
俯いた顔を上げ、涙さんはキッと僕を睨み付ける。
「今に見てらっしゃいよ。そんな条件すぐにクリアして、この婚姻届にサインさせてやるんだから」
「どうぞ。まあ、僕に彼女ができる前にあなたがクリアできたら、の話ですけど」
「な……」
涙さんは悔しそうな様子で僕を一瞥すると椅子から勢いよく立ち上がり、店内に響きわたるほどの声で宣言した。
「やってやろうじゃない、この──腐れ外道が!」
さすがの僕もこれには慌てざるを得ない。絶世の美貌を持った女性から指さされて「この腐れ外道が」なんて呼ばれた暁には僕の社会的地位が危うくなる。辺りを見渡すと、周囲の客たちがひそひそと声を潜めながらこちらを見ているではないか。
「あの、涙さん。店、出ましょうか」
僕は急いで財布から千円を抜き出してテーブルの上に置くと、戸惑う彼女に有無を言わせずその華奢な腕を掴んで喫茶店をあとにした。
喫茶店を出、「たく、強気にもほどがありますよ……」とほとほと呆れたようにそう言う。しかし、彼女がそれだけで堪忍するはずがなかった。
「あら、別にいいじゃない。生い先長くないって知ってれば、あんなことだって恥ずかしげもなくできるものよ」
「……」
僕は顔に手を当て「はあ……」と大きなため息を吐いた。
「じゃあ、明日から条件クリアのために頑張るから。その魚みたいな目、皿にして見てなさいよ」
「わかりましたよ。さようなら」
僕はぴょんぴょん跳ねて喚きながら遠ざかる彼女に弱々しく手を振った。心臓が弱いくせにぴょんぴょん跳ねていいのか、そして、四十歳とはとても思えない子どもっぽさに、僕は彼女の内に間違いなく魔女の魂を見た気がした。
三ヶ月が経った。彼女は喫茶店での一件以来、僕の前に一度だってその姿を現していない。大学にいても、僕の視界の片隅にちらりと映るといったこともなく、まるで木枯らしに巻かれてしまったかのように、僕の心はなんとなく寒々した感覚をたたえていた。
授業を受けていても、食事を摂っていても、頭に浮かぶのはどうしたことか彼女の安否ばかり。もしかしたら発作を起こして死んでしまったのだろうか、という邪推がいつも鎌首をもたげている。
「……」ひどく落ち着かない。
彼女をやる気にさせてしまったのは間違いなく僕だ。それで無理をして発作を起こしてしまったのなら、と思うと。
「はあ」
僕は目の前に置かれたアイスコーヒーに口を付けた。
と、ここで耳に誰かが呼びかける声が聴こえてきた。「おーい」
待ち合わせの女子学生かなんかだろうか、と思い、僕はアイスコーヒーをもう一口。
学生ラウンジの片隅で一人、ぼうとしながらアイスコーヒーを飲む冴えない男子がいても、声をかけてくる奇異な人物はいないだろう。仮にいたとしても、それは授業をサボタージュした僕の友人に他ならない。「おーい」
残りのアイスコーヒーを一気飲みし紙コップを握り潰すと、僕は三限の準備のために席を立つ。体を反転させ、る、と。
「は……」
「なに? 私の声、忘れたの?」
三ヶ月ぶりの彼女が立っていた。
見た目はまったく変わらない、といったものではなかった。
明るい色彩の服装、薄い化粧、茶色に染まった髮(けれど、けばけばしいものではない)、口元に浮かぶ自然な笑み、目尻の下がった優しい視線。どれもこれもが今どきの「自然派な明るい子」の見た目だ。もちろん、その美貌はまったく変わっていない。よわい四十歳がそのような格好をしているとは到底思えない。
「どう?」
彼女はぴょんぴょん跳ねてその格好を見せびらかす。けれど、僕はそれを滑稽に思いながらも冷めた目で見ていた。
「涙さん」
「なに?」
呼びかけた僕に、彼女は嬉々とした様子で聞き返す。まるで何かを期待しているような声。すみません。残念ながらそうではないのです。
僕は言う。
「この三ヶ月間で、いったい何をしてきたんですか」
「え?」
彼女の動きがぴたりと止む。「それは……」
言い淀み、次第に俯き翳る顔を見定めながら、僕はまた言う。
「それがあなたの自然な姿とは思えないんですけど、どうですか」
僕は率直に正直に思っていることを彼女に告げた。当の彼女は俯いて黙ったままで何も語らない。
仕方なく黙って待っていると、やがて彼女は口を開いた。
「二ヶ月前に発作が起きて、一ヶ月くらい入院してた。三ヶ月間、一度だってあなたの前に現れないんじゃ、あなた私のこと勝手に殺してるんじゃないかと思って……。そう考えるといてもたってもいられなかった。退院してすぐにここに来たの」
それを聞いて僕は愕然とした。ついに彼女に発作が起きてしまった、と。
もしかして、彼女が抱える心臓病は思ったよりも厄介な代物なのかもしれない。彼女が自分というものを目指し、生きることの幸せを得るための準備でさえ、その心臓病は許してはくれないかのようだ。これは厄介以外のなんでもない。
「予定変更ですね。まずは心臓病を治しましょう」
「でも」
僕は彼女の反論を遮った。「病気を治してからでないと本末転倒になりかねません。治療が最優先です」
彼女の唇がきゅっと噛み締められるのを見届けると、僕は「次、講義入ってるんで行きますね。いいですか。まずは心臓を治してくださいね」そう言って何度も彼女の姿に振り向きながら立ち去った。奥の廊下を曲がるために僕の視界から彼女の姿が消えようというときに、彼女は素早く踵を返して僕とは反対方向の廊下に消えていった。
それから、涙さんとは大学を卒業するまで顔を合わせることも連絡を取り合うようなこともなかった。僕は、毎日彼女が病を治すために闘病に励んでいる姿を想像して過ごした。
そして、僕が新社員として某金融大手のマネジメント部門の立食会合に参加したときのことだ。僕の携帯電話に約四年ぶりの連絡が入った。
「申し訳ありませんが、少しお席を外させていただきます」
役員に断りを入れ会場から一旦出ると、僕は高鳴る心臓を静めつつ通話ボタンを押した。「はい、もしもし」
『もしもし、涙だけど』
四年ぶりの涙さんの声だ。しかし、その声色は五十代を目前にした女性とは思えないほど若々しい。まるで二十代の女性だ。彼女が変わらないことに安堵した僕は、深くため息を吐いた。
「涙さん、どうですか。四年前の約束、果たせましたか」
『うん』
確かに頷くように紡がれたその言葉に、僕はなぜか気分が晴れる心地がした。
「だったら、今日の夜八時にロイヤル・ブリスホテルで待ち合わせましょう。都合、大丈夫ですか」
『ええ、大丈夫』
「じゃあ、その時間に」
四年ぶりとは思えないほど短い会話だったが、そんな長いブランクなどつゆとも感じない。
僕は携帯電話を胸ポケットにしまうと立食会場に戻った。
七時間後、僕は声を出せずにいた。
「涙さん……」
僕はそれだけを絞り出すように呟いた。
僕の目の前にいるのは見知らぬ男性と腕を組む涙さんの姿。彼女の薬指には憎らしいほどの輝きを放つダイヤモンド。それが意味していることなんて言わずともわかる。
「涙さん、どうして」
僕はまた、絞り出すように言った。
「治療している間に病院で知り合った方なの。すごく優しくしてくれて、おかげで心臓病もすっかり治った。約束はちゃんと果たしたから、これからはお互いに会うことはやめましょう」
「そんな。今さらそんなこと……」
彼女の言うことに納得がいかず、僕は往生際悪く食い下がる。しかし、ぴったりとくっつくように涙さんを抱く婚約者らしき男性は、そんな僕にこう言った。
「君らがどんな友達付き合いをしていたかはわからないが、涙さんはこの僕を選んだ。僕と彼女は年齢も近いし、君のような青二才が彼女の人生をわかってあげられるとは思えない。どうか、ここは潔く引いてくれないか」
友達付き合い、青二才、彼女の人生をわかってあげられるとは思えない。そんなはずはない。彼女はたしかにあのとき僕にこう言った。「私のことは何でもお見通し」だと。彼女はとても繊細で感受性が高い。彼女が自身に感じたことは間違いがないだろう。まして、僕と一生を共にするために婚姻届まで持ってきて直談判をしたような彼女に、今さらどうして別の男性と結婚なんてできるっていうんだ。
けれど、と僕は彼女の目を見る。
とてもまっすぐとしたその視線に僕は彼女の決意の固さを見た気がした。そして、そんな彼女を見、僕は敗北したような気がした。
「……わかりました。もう涙さんに近づくのはやめます。連絡も取りません」
「……わかってくれたかい」
「末永く、お幸せに」
妙に陰鬱とした心持ちになって、僕は肩を落としながらゆっくりと踵を返した。
踵を返す前、彼女が何かを紡ごうと口を動かしていたのは無視し、僕はそのままとぼとぼとした足取りで自宅へと帰った。
帰ってきてから僕は力無くベッドに倒れ込んだ。そして、年甲斐もなく涙を流す。
いつの間にか彼女に引かれていた。彼女が僕を一直線に見ていてくれたことに甘んじて、引かれていたことに気づいていなかった。だからこそ、僕の前から消え失せて、ようやく僕は彼女へのやるせない気持ちに気づくことができた。
僕はなんて不甲斐ないのだろう。彼女は魔女で、魔性の女だ。やはり僕は気がつかないうちに彼女にじわじわと引かれていたのだ。けれど、こんな結末、僕はいったいどうやって納得したらいいのかわからない。僕は彼女を好きになってしまった。それも、どうしようもないくらいに。
「僕は馬鹿だ……」
泣き晴らしたしゃがれた声でそう呟くと、僕はそのまま寝てしまった。
彼女の身辺が風の噂でなんとなく耳に入る、というような状況のなか、僕は毎日気が気でないまま過ごしていた。
そんなある日のことだった。僕は社員食堂で、大学からの友人で同僚の田中と遅めの昼食を摂っていた。田中との結婚適齢期の会話から、唐突に涙さんの話になる。
「そういやお前、あの魔女との付き合いはどうなったんだよ」
「彼女が結婚したんで、もう会ってないよ」
ずきりと胸が痛む。平然としていられるが、内心は荒れ放題だ。
「まじかよ。あんなにお前にアタックしてきたのにか。あんな美人だったのに、もったいない」
「ああ」
「はああ……。でも、あいつの心臓、治ってないんだろ。旦那もいつ死ぬかわからない妻の世話しながら生きていくとか辛すぎだろ」
「いや、最後にあったとき『ちゃんと治った』って言ってた。たぶん幸せに暮らしてると思うよ」
僕は言って、無意識にため息を吐いた。幸せに暮らしているとは思えなかった。
「ん、でもさ、魔女の心臓病って不治の病だってされてる、あのPDS(脈動性機能不全症候群)だろ。治ったならニュースくらいにはなるアレ。本当に治ったのかよ」
田中がそんなことを言うものだから、僕は思わず顔を上げた。
彼女の心臓が治ってない。そうだとして、彼女の心臓が彼女の幸せを拒む存在であるなら、涙さんは、やはり。
「……」
僕は思わず胸ポケットから携帯電話を取ろうとした。しかし、彼女の旦那にも彼女にも、もう連絡はしないと宣言してしまった。今さら連絡をしても突き返されるだけではないのか。
だいたい、彼女の病気が治ってないかもしれないなんて知るのも今さらな気がする。
僕はおかしな挙動を取り繕うように水の入ったコップに手を伸ばした。
「涙さんの病気が治ってなかったところで僕にはどうしようもできないよ。僕は医者でなければ医学的知識も持ち合わせてない」
何気ない本心を吐露し、僕は項垂れる。僕が医者なら僕は彼女を見てやれただろうか。結婚とまでは行かないにしろ、治療のために人知れず会うこともできたのではないか。だが、それは空虚な空想にちがいない。少なくとも、いまの僕は金融会社のいち社員に過ぎない。彼女の元へ行ける余地など無い。
しかし、田中はこんなことを言う。
「でもよ。やっぱり治らない病気抱えながら生きるってのはつらいだろ。いつ死ぬかわからないんだ。魔女の旦那さんがどれほどの根性を持ち合わせているかはさておき、病弱な人間てのはやっぱり、一番身近にいて安心できる人間と共に過ごしたいと思うもんなんじゃねえかな。魔女はたぶん、まだお前のことが好きだぜ」
「まさか……。じゃあなんで別の男と結婚したんだよ」
僕が至極もっともな疑問を投げかけた。なぜ、あの男なんだ。
箸をこめかみの辺りでくるくると回しながら、田中は言う。
「お前が一番大切だから心配させたくなかったんだよ。こう言っちゃ旦那さんに悪い気もするが、本当に大切な人には余計な心配なんかかけさせたくないって考えるもんだ。末期ガン患者が家族に何も告げたがらないのと一緒だって」
田中の言い分は道理にかなってる気がする。たしかに、涙さんは発作が起きる前、まるで病気など抱えてないと僕に疑わせるほど元気な様子だった。けれど、それがもし空元気なのだとしたら彼女の妙にむなしい生き方の理由もわかる。
「田中」
「なんだよ」
「もう一度、涙さんに会ってみるよ。俺」
「……おう、頑張れ」
田中にさりげない応援をされた僕は、ひと足先にカレーの食器を片付けるために席を立った。そして、上司に断りを入れ、涙さんの住むマンションへと向かった。
『……なんだ。また君か』
インターホンの画面越しにあの男の顔が目に入る。ひどく窶れた顔は彼の日頃の疲労を感じさせる。
しかし、それより気になったのは、なぜこの時間に彼がいるのかということだった。まだ午後も始まったばかりの時刻だというのに自宅にいるだなんて、普通ならば考えられない。少なくとも彼の職がどこかの企業の重役だというのは、初対面時でもありありと見てとれるほどだった。
「あの、失礼ですが、この時間にご在宅しておられるのは……」
『君はそんなことを聞きに来るためにここに来たのかね』
あからさまな嫌悪感をにじませた声でそう言う男。もっともな主張だ。
墓穴を掘った僕が返答に困っていると、インターホンの奥に彼女の声が入る。
『だれと話してるの』
男の顔が明らかにバツの悪いものとなる。
『涙。だれでもないよ。職場の後輩だ』
『後輩? なら少しくらい家に上がらせたほうがいいんじゃないの。あなた、何日お仕事行ってないのよ』
『そ、それは』
画面に表示された彼の視線が、僕と奥にいるであろう涙さんの顔をしどろもどろになりながら交互に見やる。
仕事に行ってない、とはどういうことだろう。それも、何日も。
『私にも挨拶させて』
『涙。お前は関係ないだろう。仕事関係に首は突っ込むな』
『挨拶するくらいいいじゃない。挨拶が仕事に関係あるの』
『ちがう。いいからお前は黙っててくれ』
画面の男の顔がだんだんと歪んでくるのがわかる。このままでは喧嘩に発展してしまうのではないかと危惧した僕は、スピーカー越しでも涙さんに届くほどの声量で呼びかけた。
「涙さん、僕です!」
マンション入り口のパネルの前で叫ぶ僕に、周りの通行人が訝しげな様子でじろじろと見ているのが背中で感じられる。
『その声、もしかして……』
『涙! お前は奥で安静にしてるんだ!』
『わ、ちょ……きゃっ!』
「涙さん!」
画面から男が離れ、奥で男が涙さんを力任せに引きずる画が映し出される。
引きずられて部屋の奥に消えてしまう前に、僕は彼女に叫んだ。
「あの喫茶店で待ってます! 毎日必ずいるようにします! だから来てください!」
言い終わってすぐに彼女の姿も男の姿も画面から消えた。そして、しばらくその部屋からがたがたと物音がして男が出てきた。画面に息を切らした男の顔が鮮明に映る。
『帰ってくれ……』
「あの」
『二度と来るな……!』
そう言って睨み付ける眼光は本気で射殺すほどの鋭さを湛えていた。僕はその目に圧倒され声すら出せなかった。ぷつりと画面が暗くなり、インターホンが切れた。
「……涙さん」
僕は彼女の身を案じた。あんなことをされて涙さんが幸せなはずはないと確信する。だが、僕にできることはこれだけだ。あとは彼女の意思と、あの男が彼女のことを束縛しないことを祈るのみ。
何日、何ヶ月、何年経てば彼女が喫茶店に現れるかはわからない。けれど、待つことしかできないのなら僕は約束を守るしかないだろう。
僕は十分ほど立ち尽くしたあと、たしかな足取りで帰路へとついた。
「で、そのあと魔女とはどうなったんだよ。来たのか」
「いや、まだだ。たぶん旦那さんに止められてるんだろうな。ここ一週間、仕事帰りに喫茶店に寄って一時間くらい待ってるんだけど、まるで来る気配ないよ」
「へえ」
僕と田中は一週間前と同じように社員食堂の片隅で昼食を摂っていた。今日の僕のメニューは味が薄いことで悪名高いしょうが焼き定食。田中は出前の安牛丼だ。なんとなく湿っぽい雰囲気を助長させているのは、間違いなくこのメニューたちだろう。僕はそう思いながら、ご飯の上にタレを精一杯からませた肉片を置き、一気に頬張る。
涙さんの自宅に電撃訪問してから、僕は宣言どおり例の喫茶店で毎日待ち続けた。なるべくあのときと同じ席を陣取り、目の前の席に涙さんの姿を想像する。ただ、そんな毎日で、目の前の想像はやはり想像のまま一週間経ったというわけだ。
味の薄いそれを味わうためによく咀嚼するが米の味しかしないと思っている僕に、田中が言う。
「もし仮にずっと来なかったとして、お前はどうやって魔女を家から引きずり出すんだ。それこそずっと待ってても埒があかないかもしれない奴の境遇で。俺は無理やりにでも連れ出してみたほうがいいんじゃないかと思う」
田中の意見に応えるため、僕は咀嚼したご飯を飲み込んだ。
「まあ、そりゃ確かにずっと待ってるわけにはいかないだろうな。でも、また彼女の家に行ったところでインターホンすら出てもらえないかもしれないんだ。もう、僕には待つしかできないよ」
「そらそうだけど……」
田中が不服そうな声を洩らすが、田中とてそれはわかっているはずだ。僕が言ったとおり、彼女の旦那に異常な警戒心を与えてしまった以上は僕があのマンションに近づくことさえ許されないのだから。
「田中。ありがとうな」
「な、なんだよ急に」
「なんでもないよ」
僕は田中が僕と涙さんの行く末を案じていることに感謝の意を告げた。大学生の頃は異常なまでに涙さんを毛嫌いしていた田中だが、今はこうして一緒に飯を食いながら彼女を話の中心に据えて会話することができている。彼の変化は、少々特殊な恋路をたどる僕にとって大きな心の支えになっているのだ。それを感謝しないわけにはいかないだろう。
「そうだ。今度すき焼き屋に連れてってやるよ。普段の感謝をこめて。もちろん僕の奢りだ」
「やーめーろ。俺は大したことしてねえよ。あとなんか気持ち悪いわ。いらんいらん、何もいらん」
田中が手に持つ箸を振り回して僕の提案を一蹴する。そんな彼の行動に「田中は素直じゃないなあ」と思うわけだが、そう思ったことに確かなネガティブイメージを感じた僕は田中に対する気持ちを払拭した。田中は何もいらないと言っている。
「……なんか、悪い。そうだな、ごめん」
「ああ……。まあ、わかってくれりゃいいよ。気にすんな」
それから僕たちは昼食を食べ終わると、午後の仕事に向けて自分のデスクへと戻った。
それからも、仕事を終えては喫茶店に赴いて一時間ほど時間を潰すという毎日を繰り返した。一ヶ月間、毎日決まった時間に喫茶店に来る僕に、顔を覚えてくれた店員がいた。
「サラダとスープとナポリタンで」
「かしこまりました」
シフトの関係からか、僕のオーダーには決まったウエイトレスが聞きに来る。首から提げるネームプレートには「七尾鈴」とある。身長は百五十半ばほどで、顔立ちはとても幼く、髪型は短いボブ。例えるならプラスチックの簡単なおもちゃのような印象。そんな彼女が突然僕に話しかけてきた。
「あの」
「ん、なんだい」
「毎日来てますよね。この喫茶店に」
「ああ……そうだね」
「どなたか待ち合わせですか?」
なかなか礼儀正しい子だな、と漠然と思う。
「待ち合わせ、だね。うん」
「でも、来ませんね」
「仕方ないんだ。来るか来ないかはその人次第だし、まず来れるかどうかもわからないから。僕には待つしかできない」
僕がしんみりとそう言うと、彼女は問う。
「わたしにその話聞かせてください。お相手は……女性ですよね。もしかしたらお手伝いできるかもしれません」
「まさか。それに、君に手伝ってもらうなんて。相手は確かに女性だけど四十歳越えてるんだぞ」
「えっ、四十……」
僕が「四十歳超え」と言ったあたりで、彼女は驚きの表情を見せた。無理もない。見た目二十代の会社員とダブルスコアで離れた相手との恋愛など、アブナイ関係以外に考えつかないだろう。
しかし、その直後の彼女の表情は意外にも好奇心に満ちたものだった。
「いいじゃないですか、ダブルスコアで離されてたって! 男はもっと食いついていくべきです!」
「え、あ、ああ、うん。そう……だね」
彼女の豹変ぶりにびっくりした僕は、まるで生返事のような声で頷いてしまった。これでは彼女の申し出を許可してしまったにも等しい。
「じゃあ、このあと予定ありますか」
「いや、ないけど。なんで」
「わたしの家で作戦を練りましょう!」
「はあ?」
初対面というほどの顔見知りでもないが、いきなり女性の、しかも考えうる限り大学生の人の家に僕のような青二才──じゃなくて会社員が上がり込むなんて、どう考えても何かを企んでるだろう。
僕がそんなふうに考えて顔をしかませていると、彼女が何かに気づいたかのように慌てて訂正した。
「えと、そんなつもりはなくて、本当にただのお手伝いなんです。それに、一人暮らしじゃなくて彼氏と同棲してるんで」
「あ、ああ……よかった。それならいいか」
なにが「ならいい」んだ。彼氏がいたらそれはそれで修羅場になるだろう。しかも、こんな冴えない男を上がり込ませていい気などするはずがない。
同時に、しかし、とも思う。
恋愛中の者に相談するのもいい機会だ。そもそも僕は涙さんにこの感情を抱くまで、好きになった人がいなければ恋人いない歴年齢だったのだ。田中も恋人らしい恋人がいるなんて話は聞いたことがないし、恋愛の達人である人間に聞いた方が建設的な行動なのかもしれない。
「わかった。君の家に行くとしよう」
「そうこなくっちゃ」
「ただし、変なことはしないからな」
「わかってますって」
そのとき「おーい鈴ちゃん。五番できたよー」という声が厨房の方から聞こえてきた。「はーい。今行きまーす」と叫ぶと、彼女が言う。
「じゃあ、シフト終わるの八時なんでそれまで待っててくださいね」
「ああ。わかったよ」
僕が惰性で返事をすると、彼女はぱたぱたと小動物のような挙動で持ち場へと戻って行った。
それから僕は料理が来るまでパソコンでプレゼン資料を作成したり、メールのチェックをしたりして時間を潰した。料理が来てから食べ終わったあとも同様だ。八時までずっとその調子で、「そういえばポストの中身確認しておくの忘れたな」とぼうと考え事をして過ごした。
夜にもかかわらず無糖コーヒーの刺激に舌鼓を打っていると、肩を叩かれる。反射的に腕時計に目をやると、時刻はいつの間にやら八時ちょっと過ぎだ。後ろを振り向くと、そこには制服から私服へと着替えた七尾さんの姿。
「ああ……七尾さん。行こうか」
「七尾さんだと呼びにくくないですか。『七尾』か『すずちゃん』でいいですよ」
七尾はまだしも、すずちゃんは七尾さん並みに呼びにくいと思ったのは内緒だ。それにしても、七尾なんて名字の呼び捨てというのも妙に気恥ずかしいものがある。名字にもかかわらず名前のようなその韻が原因だろうか。
「じゃあ、七尾ちゃんで」
僕が無難な呼び方を提案すると、彼女は一度ぴょんと跳び跳ねて嬉しさを表現した。まったく小動物のようだ。
「いいですねそれ。あ、と……」
「渡賀大人。渡る祝賀に大人と書く」
「とが、ひろと、さん。なんだかめでたい名前ですね」
「よく言われるニックネームは『オトナちゃん』だ」
「じゃ、わたしはオトナちゃんさんて呼びますね」
「……あ、ああ、うん」
オトナちゃんさんてなんだ、と思いつつも深くは突っ込まない。最近の女の子は天然が多いというから、七尾ちゃんもその類いの女の子なのだろう。
「あ、そろそろ行かなきゃ。早くそのコーヒー飲んでください。行きますよ」
「ああ、うん」
僕は彼女にそう急かされ、急いで残りのコーヒーを煽った。
そして、その喫茶店を後にする。
「ここがわたしのお家です」
彼女の自宅があるマンションには歩いて十五分ほどで到着した。バイト先に近く、駅もそこそこ近い。良い立地だ。
「立派なマンションだな。でも、七尾ちゃんって見る限り大生だよね。ここ家賃高そうだけど、大丈夫なのかい」
僕が淡い照明で照らされたマンションの外壁に目をやる。駅に近いだけで万単位で家賃がはね上がる都心では、学生の身分でこんなに立地の良いマンションを借りられるとは到底思えない。
彼女はセキュリティシステムを操作しながら言う。
「わたし院生なんです。よく間違われますけどね。返還義務の無い奨学金でここに住んでます。最近の無償奨学金は金額がいいんですよお。おかげで助かってます」
「院生で、しかも義務無し奨学金か。頭いいんだね」
「これでも頑張ったんですよ」
僕は彼女の意外すぎるキャリアに素直に驚くが、当の彼女ははにかみながらやんわりと答えるだけにとどまる。こんなに性格の良い彼女を抱える彼氏はいったいどんな男なのだろう。
「あ、開きました。彼氏がいるみたいです。こっちまで迎えに来てくれるそうです」
「ああ、助かる」
恋愛中の男女というやつを目に焼き付けておくにはまさに適任のカップルだ。僕はそう思いながら、七尾ちゃんと彼氏が来るまでエントランスでしばし待った。
やがて、エントランスのエレベーターのひとつが「ちん」という音をたてて開いた。
「んあ」
「あっ」
「え?」
まさかの田中である。
「おま……お……」
「かっちゃん。この人でしょ?」
「あっ? ああ、うん。そう……だけど」
バツの悪そうな顔で僕を見る田中の目は「なんでお前がここに」とでも言いたげだ。いいや、実際心の中でそう思っていることがありありと見てとれる表情だ。僕は言い知れぬ感情に、体がわなわなと打ち震えるのを止めることができなくなっていた。
両の手に固い拳を作りながら田中に近づく。
「田中あ……貴様あ……」
「……悪い。彼女いるんだ、俺」
僕はゆらゆらと揺れたまま田中の胸ぐらを掴む。
「ツラ貸せやオラ……」
田中に彼女なんていないと信じきっていた僕は、とうぜんのごとく裏切られたそれと似たような心境に陥っていた。だが、どおりで僕へのアドバイスが紳士的だと思った。女性の気持ちをわかっているかのようなあのアドバイスは、やはり恋愛中の男にしか紡げない言葉なのではないか。
そう思うと、僕は胸ぐらを掴む手をゆっくりと離した。
そして、大きなため息をひとつ。
「お前の話は部屋に行ってからな」
「え、なんだよ。部屋に上がるのか」
「悪いかよ。僕は七尾ちゃんに連れてこられたんだぞ」
僕の発言を聞き、田中は訝しげな目付きで七尾ちゃんのほうを見た。それに気づいた彼女が答える。
「だ、だって、かっちゃん前からすごく心配してたじゃない。オトナちゃんさんのこと。喫茶店に毎日行ってるらしいっていうから、『この人に違いない!』って思って……。ダメだった?」
はあ、と田中も大きなため息を吐く。どうやら僕たち二人は七尾ちゃんにいいように振り回されているらしい。それを察した僕と田中は顔を見合わせる。
「まあこの際、だ。今夜は飲みながらゆっくり相談していけ」
「ああ。そうするよ」
「あ、じゃあわたしコンビニでお酒とおつまみ買ってくるね! 二人はピザファットでLサイズの何か頼んどいて」
七尾ちゃんが手を合わせて嬉しそうにそう提案する。ふと漏れたそのピザ屋のネーミングセンスに悪意を感じてやまない。つい二時間ほど前に夕食を摂ったばかりだが、飲むというのなら別腹だ。肥える心配も今は頭の片隅に寄せておこうと思う。
だが、お呼ばれされた身で、かつ夜間に友人の彼女ひとりに行かせるというのは少々気が引ける。ここは僕が買いに行くべきだろう。
「七尾ちゃん。僕が行くよ。さすがに女性に行かせるわけにいかないし」
「うえ、いいんですか」
「遠慮しなくていいよ。呼ばれた身だし。田中、後でインターホン鳴らすから部屋番号教えてくれ。いいよな」
「ああ。507号室だ」
「わかった。行ってくるよ。先に部屋に戻っててくれ」
「了解」
僕はそう言って荷物を預かるという田中に鞄を渡した。二人がエレベータの中に消えると、携帯電話で近場のコンビニを検索。ここからの位置を確認すると歩き出す。
しかし、まさか田中が彼女持ちだったなんて勘づきもしなかった。恋人がいることなど微塵にも感じさせない田中のなんと冷静沈着なことか。大学時代も彼女らしい人物がいる素振りは見せなかったが、もしかしたら二人は幼馴染みかなんかなのだろうか。だとしたら、田中一志という名をとって、七尾ちゃんが田中を「かっちゃん」と呼ぶのにも納得がいくし、恋人がいる素振りを見せない理由も納得がいく。幼馴染みで二十年以上の付き合いともなれば、恋人関係など通り越して夫婦も同然だ。
僕は身近のコンビニに足を踏み入れ、酒コーナーとつまみコーナーで適当な品物をカゴに入れていく。田中はビールを飲むが、七尾ちゃんは何を飲むかわからないので、いちおうカクテルの類いも突っ込んでレジへと持って行く。
「お会計、二千百十二円です」
「クレジットで」
「そちらのリーダーに差し込んでください」
僕は会計を済ませると、酒とつまみを別々にした二つの袋を手に持って彼らの待つマンションへと向かう。帰りの道もしばし考えた。涙さんのことだ。
彼女の心臓が治っていないかもしれないということについては、僕の頭の中にまだどんと居座っている事柄ではある。もちろん、これは単なる憶測に過ぎない。しかし、彼女の健康と生命を本当に気にするなら、一介のサラリーマンでしかない僕と結ばれることが、本当に彼女にとっていいのかという思いが漠然と胸の内に生まれてしまうのも事実。それに、万が一にも彼女の心臓が治っていなかったとして、彼女の心臓は彼女が幸せになることを拒むだろう。それは数年前も、そして今現在も証明中だ。もし治っていなかったら、の話だが。
僕はマンションの入り口にあるセキュリティシステムの機械に部屋番号を打ち込む。少しして、画面上に田中の顔が映る。
『ああ。今開けるよ』
田中の一声を聞くと入り口の自動ドアが開いた。
「ありがとう。今行くよ」
僕はマンションの中、上階へ向かうエレベータに乗り込んだ。
部屋の中は同棲するには十分な広さを持っていた。田中に聞くと、3LDKで月二十万の部屋だそうだ。僕のマンションの約三倍の家賃。値段以上の生活をしているに違いない。羨ましい限りだ。
リビングのガラステーブルに酒とつまみを並べ「とりあえず乾杯といくか」と田中に押される。僕と田中は生ビール、七尾ちゃんはカクテルだ。ぷしゅりとプルタブを開け、改まる。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
「かんぱーい」
僕たちは各々持っているアルミ缶を鳴らす。そして各々、控えめな一口。
七尾ちゃんが嬉々とした様子でつまみの袋を開け始める横で、僕らは本題に入ることにした。
「で、何を相談したいんだ」
「ああ」
僕は田中の動きにつられて缶ビールをテーブルに置いた。
「相談ってのは、アレだ。どうやったら涙さんを奪還するか……」
「奪還ねえ」
田中は腕組みをしながらううんと唸る。無理も無いだろう。こんな九時ドラマのような恋愛は現実で聞いたことがないし、そもダブルスコアで年齢が離れた人と恋愛するなんて、周囲の人間からしたら冗談も甚だしいところだろう。だが、実際僕はそんな特殊な恋愛をしているのだ。始末に負えず、後にも退けない大恋愛を。
「奪還するったって、お前の見解ではそのマンションから魔女を連れ出すのは難しいんだろ。それに、魔女の真意を知らない」
「う……」
田中の一言を聞き、僕は図星を突かれて体が奮える。たしかに田中の言うとおり、僕は涙さんの僕に対する真意を知らないのだ。
「最後に会ったとき、魔女はなんて言ってた」
田中は腕組みをしたままそう問う。
「ええと、『治療している間に病院で知り合った方なの。すごく優しくしてくれて、おかげで心臓病もすっかり治った。約束はちゃんと果たしたから、これからはお互いに会うことはやめましょう』って」
「で、その約束ってのは」
僕は四年前の学生ラウンジでのことを、涙さんに向けて放った言葉を思い出す。
「『病気を治してからでないと本末転倒になりかねません。治療が最優先です』……」
田中はさらに問う。
「まずは治療が最優先。なら、その前に何を約束してた」
僕はさらにその三ヶ月前のことを思い出す。
「『そのままのあなたで仮に僕と結婚しても、あなたはすぐに死ぬと思います。まずは薄氷の上から抜け出して、それから無表情でいるのをやめて、自分の生き方に素直になって──そのあとでご自分の心臓を治すように努めてください。それからなら、考えてあげてもいいですよ』……」
田中はその言葉を聞いて顔が凍りついたように固まった。その面持ちはまさに「信じられない」とでも言っているかのようだ。そして、七尾ちゃんが一人でむしゃむしゃと食べて残り少ないチーズ鱈をひとつまみ摘んで口の中に放り入れると、噛まずに流し込むようにビールを煽った。
缶をガラステーブルに叩きつける。
「馬鹿かお前はあ!」
「うわっ!」
「わ、ちょっ。もう、びっくりさせないでよ! あと近所迷惑!」
チーズ鱈をむしゃむしゃさせながら七尾ちゃんが田中に怒鳴るが、当の田中はそんな怒鳴り声も耳に届いていないらしく、その形相には憤怒の鬼のごとく修羅が渦巻いている。酒のせいで少し頬が赤らんでいるのが、一層それを引き立たせているように思えてならない。
恐い田中は言う。
「あー、わり。……あのな、魔女はやっぱりまだお前のことが好きだ。魔女がその男とわざわざ結婚したのは、たぶん、お前の言う『自分の生き方に素直に』って部分の反映だと思うぞ」
「はあ」
僕は田中の少し呂律の回っていない口調に相槌を打つ。
涙さんがあの男と結婚したことが、僕との約束を果たすための行為だとは到底思えない。だが、涙さんはあの男と結婚して幸せを感じてはいないだろう。それだけは断言できる気がする。
しかし、だとしたらそれはそれで疑問が残る。彼女はどうして「約束は果たしたから会うのはやめよう」なんて言ったのだろう。田中の推測が的を射ているのなら、彼女がどうしてそんなことを言って、僕をわざわざ突き離したのか納得がいかないではないか。
「田中、だとしたら、どうして涙さんは『会うのやめよう』なんて」
「それは今から話すことだ。──すず」
田中はカクテルごときのアルコール度数ですっかり出来上がっている七尾ちゃんに呼びかけた。
「んー、なにー」
「すずは俺と別れたいか?」
「んー……」
七尾ちゃんは目を瞑ってうつらうつらと眠そうに首を揺らしながらしばしの間思案する。そして、その後勢いよく田中に抱きついた。
「かっちゃんと別れるなんて考えらんなーい。いやーだー」
「だよな」
僕はわけもわからず展開されたそのいちゃつきぶりに少しばかりいらつきを覚えた。もちろん、これは田中の「今から話すこと」の範疇なのだからまったく気にすることではないはずだ。
「で、これが何の話になるんだよ」
「俺とすずを見てみろよ。これが互いに好き合ってる人間の姿だ」
「それがどうしたんだよ」
田中は、はあ、とため息を吐くと、抱きついて離さない七尾ちゃんを無理やり剥がして隣に寝かす。
「要するにだ。魔女は約束は果たしたんだよ。お前の言うことを忠実にな。病気のことはわからないが、少なくとも内面においては間違いなく魔女はお前との約束を果たした。今の魔女はもう自然体なんだよ。魔女は魔女らしくあれが自然体ってこった。つまり、あいつが自然体に変わって、自ずとお前への愛情の向け方も変わっちまったんじゃねえかな」
「そんなの」
僕はそれでも田中の言い分が信じられない。田中が言いたいことは一言で言うなら「心境の変化」だ。彼女の僕への気持ちが変わってしまったから、彼女はあんな優しさの片鱗もない男と結婚してしまった。けれど、だとするともう一つ疑問が生まれてくることになる。
「じゃあどうして涙さんは『もう会うのはやめよう』なんて言ったんだ。やっぱり、僕のことなんか、もう……」
そこまで言って僕は不意に涙が出てきそうになった。そのこみ上げてくる何かを抑え付けるように僕は勢いよく缶ビールを煽る。
口からビールが溢れだすのも無視し、全てを飲み下そうとする荒廃した僕の飲みっぷりを見て、田中は唖然としながらも言葉を紡ぐ。
「あのな、前に言っただろ。本当に好きな人には心配かけさせたくないもんだ、って。魔女はどこかにお前にも言い出すことのできない秘密を抱えてるから、そんなことを言ったんじゃねえの。……まあ、ここら辺は完全に俺の推測だけどな」
「秘密?」
僕は彼女の秘密について考えてみた。そのために、彼女の知りうる限りのプロフィールを頭の中で列挙する。
彼女は現在四十四歳だ。僕と出会ったのは今から四年前の夏ごろ。そして、その頃の彼女はまだ四十歳で、僕と同じ心理学科に所属していながらゼミは異なる、という境遇にいた。その頃の彼女に既に両親はおらず、マンションに一人暮らしで男を入れ替わり立ち替わり自宅に呼んでは自分の身の周りの世話をするという有様だった。もちろん、僕はその頃の彼女の私生活全てを知っているわけではない。そして、喫茶店で婚姻届を眼前に突きつけられ、結婚を申し込まれた。その時に小さな約束を交わし、僕らは別れ、そのまましばらく会うことはなかった。次に現れたとき、彼女が発作を起こして入院していたことを知り、その時点で改めて大きな約束を交わした。
そういえば、彼女はなぜあの年齢で大学に進学しようと思ったのだろうか。それに「人生を俯瞰しながら生きているあなたなら私のこともお見通し」と言っていたこともある。
「ひっかかるな」
「なにがだよ」
田中は新しくつまみの袋を開けながら問う。僕は顎に手を当てながら話す。
「僕は涙さんの人生を何も知らないんじゃないかと思って。だって、よく考えたらおかしいだろ。あの年齢で大学に進学しようなんて普通思わない。それに病気持ちだ」
「そりゃたしかに。でも、魔女だぜ。それに男を囲っていた事実から、ただの男探しということもありうるじゃないか」
「いや、でも涙さんは『人生を俯瞰しながら生きているあなたなら私のこともお見通し』って僕に言ってくれたことがあるんだ。なんか不思議なこと言うよなあ、って思わないか。少なくとも普通の人間が人を好きになる理由としてはかなり特殊だと思う」
「ああ……たしかに」
僕はそこであるひとつの推測に思い至った。
「なあ、田中」
「あん?」
「涙さんが前に住んでた家って、どこか知らないか」
「はあ?」
田中は僕の身も蓋も無い推測に上ずった声を出す。
「お前なに言ってんの? 俺が知ってるわけねえだろが」
「まあそうだろうな」
「だったら聞くなよ」
僕はその返答が来ることを予期していたので、別段驚きもしない。だが、彼女の人生の手がかりを掴めるなら、僕が彼女の以前の住まいを訪れないわけにはいかないだろう。しかし、彼女の両親が死んでしまって彼女に尋ねることもままならない今、どうやって彼女のことを知ればいいんだろう。
「田中。マンションの大家って、やっぱり前に住んでた住人の情報とか保管しとくもんかな」
「また突飛なことを……。結論から言うと、している可能性がある。ただ、大家よりは斡旋した不動産の方がより有力だ。不動産てのは仲介やら売買やらの関係で、以前の住まいのことも把握してることが多いからな。お前、もしかして魔女の家を調べる気か」
「ああ」
返事を聞き「かああ」と田中が唸る。どうやらこれには常識人の田中も舌を巻いたようだ。僕とて突飛なことだとは思うが、それでも僕は涙さんが好きで、彼女のためなら自分の全てを捧げられそうな気がする。
しかし、田中は僕の意思に待ったをかけた。
「待て待て。それはちょっとまずいだろ」
「なんで」
「たとえ相手が好きでたまらなくても、勝手に身辺調べるのはご法度だろ。浮気とかだったらいいと思うが、誰だってそいつのバックグラウンドに何かいかがわしいことがあったら隠すもんだろう。お前だって大学生のときに酒飲みすぎて道端で粗相したの、俺以外の誰にも知られたくないだろ」
「う、まあ……」
「だから、もっと正攻法で行こうぜ」
「正攻法?」
ひどく愉快そうに人差し指を立て、田中は自身満々に言う。
「そう、正攻法だ。ここまでのことを総括するに、お前の恋愛は映画みたいにドロドロしてて、それでいて愉快すぎるユーモアに溢れてる」
僕は田中の言いたいことがわからずに頭を捻る。
「だから、何をすべきなんだ」
僕がそう問うと、田中は両手にガッツポーズを作りながら勢いよく立ちあがった。
「お前らのことをパンフにして、あの母校の大学にばら撒く!」
僕は「こいつは酒に悪酔いしているだけだ」と、そう思いたかったが、当の本人はどうやら本気のようだ。両手に拳を作り、それを天に向かって力強く突き出している。そして、満面の笑みを浮かべながら僕のことを見ているのだ。これでは僕の「実家探す発言」よりも突飛ではないか。
あと、とても正攻法には聞こえないのだが。
このままでは埒が明かないと感じた僕は、このわけのわからないことを言い出す田中をなんとかしようと、ひどく合理的な提案をした。
「田中。とりあえず今日はもう寝るか」
だが、田中は聞かない。
「まだまだ夜はこれからだろ」
「いや……もういいよ。今日は」
僕はそう言って、なんとか話が脇道に逸れていくのを阻止しようとした。しかし、それは突然部屋に鳴り響いたインターホンのチャイムで阻まれる。その音で寝ていた七尾ちゃんがむくりと起き、まるで夢遊病者のようにインターホンに近づき何事かをやり取りすると、眠気眼のままこちらを振り向く。
「ピザ……Lサイズなんだけど、どうする?」
僕はその夜、一睡も寝ることができなかった。無論、田中も七尾ちゃんも酔いつぶれ、あとの会話は笑い上戸と寝ぼけ上戸の相乗効果で涙さんについての相談は何一つできなかった。結局、僕は何しにここへ来たんだろうか。七尾ちゃんに至っては相談に混ざりもしなかった。
ただ、たまにはばか騒ぎもいいだろうと思い、朝まで飲み明かしたのは久しぶりのことだった。
「昨日は悪かった」
「気にしてないよ」
土曜、日曜と仕事が休みだったから昨夜──正確には今日の朝方まで──は飲み明かしていたわけだが、その後、昼まで眠り込んで起きてから件の喫茶店に赴くことにした。七尾ちゃんはまだ家でぐっすりだ。
僕と田中は昼食がてらブラックコーヒーとサンドイッチを頼み、窓際のカウンター席に座って昨夜の失態の数々を反省し合っていた。
「建設的な話をしよう。とりあえず、彼女のことをもっとよく知りたい。そのために何をしたらいいか」
僕はそう話題を切り替えた。昨夜の田中の「パンフばら蒔き」はなしにしての話し合いだ。
田中はサンドイッチにかじりつきながら言う。
「……やっぱり」
「ん?」
「やっぱり大学に行ってみたほうがいいんじゃねえかな」
「またパンフか」
僕が呆れ気味に相槌を打つと、田中はそうじゃないと否定する。
「魔女だって友人がいなかったわけじゃないだろう。同じゼミ仲間もいただろうし。そいつらを当たった方が手っ取り早いなと思った」
その言葉を聞き、ブラックコーヒーを飲みながら思案する。たしかにパンフばら蒔きなんてしなくとも、涙さんのことを知るためには十分かもしれない。しかし、今思えば涙さんの交友関係も所属していたゼミも知らない。
こうして考えると、僕は本当に彼女が僕のことを真っ直ぐに見ていてくれたことに甘んじていたのだな、と痛々しいほど感じる。恋愛を一度もしたことがない高慢な男が陥りそうな罠だ。まったく、情けない。しかし、そう考えると、対する涙さんは一体その人生でどれほどの恋愛経験を積み重ねてきたのだろうか。あの類い稀なる美貌だ。一度や二度というわけではないだろう。
だからこそ、彼女の身辺を知ることが現状を打破する手立てなのだとも思う。
「荒っぽくなく、かつ、手っ取り早い手段はやっぱりそういうことになるか」
「ああ。お前、魔女のゼミは……知らなそうだな。たしか、立花が担当だったはずだ」
「立花ってもしかして」
「ああ、あの立花」
僕は立花のことを一瞬で思い出した。立花希美。あの人は僕たちが所属していた心理学科の学部長で、いわゆる脳科学の観点から心理学を究めようとする学派の第一人者でもある。著作や論文は数多くあり、次期ノーベル賞間違いなしなんて持て囃されている女性教授だ。
だからこそ、僕が中途発表会のときに「〈発現〉と心理系量子脳理論の未来性」について、その最後に発したなんてことないあの言葉は、発表を傍聴しに来ていた立花に、僕への敵対心を植え付ける結果になってしまった。僕が涙さんのゼミを知らずにいたのは、だからこそ立花と関わりたくないという本能によるものかもしれない。
しかし、涙さんに年齢も近いおば……彼女なら、当時涙さんに一番近い存在であった可能性が高い。つまり、彼女のもとを訪れないわけにはいかない。
「あいつ、たしか土日も研究室に来るほど研究熱心だったよな」
僕が訊ねると、田中はサンドイッチの最後のひとかけを口に放り入れ、コーヒーで飲み下して答える。
「たしかな。今もそうだとは限らねえけど、行ってみる価値はある」
僕は田中と同じようにサンドイッチを食べ終わると、「善は急げだ。田中、付き合ってくれてありがとな」そう言って「頑張れよ」と応援してくれる田中を後に会計を済ませると、僕は喫茶店から出ていった。
数ヶ月ぶりに訪れた大学は何も変わっていなかった。強いて言えば、大学構内全体の雰囲気が妙に忙しなく、学生たちが浮き足立っている、ということくらいか。そういえば、毎年この時期はみんな期末試験でピリピリしていた。
僕は一旦自分の住んでいるマンションに帰り、シャワーを浴びて身支度を整えてから大学に赴いたのだ。しかし、試験期間となると教授たちは問題の作成やら授業評価やらで忙しくなる。立花は学部長という立場上、こういった節目の時期が多忙になりがちだ。突然の訪問、それに僕という人間が彼女に面会できるのだろうか。
僕は事務室に行き、ここの卒業生で立花教授に挨拶に伺いたい旨を伝えた。事務員は立花が今日は研究室にいるということを教えてくれ、いちおうのアポを取ってくれるようだった。歩いている内に伝わるからもう行っていいよと言われ、僕は事務室から出て立花の研究室へ向かう。もちろん、なんともザルな手続きだ、と思いながら。
立花研は心理学部研究棟の三階、この大学でもいちばん見晴らしのいい位置に存在している。この大学では学長の次か、もしかしたら学長以上に声を大にできる存在だ。心理学を極めた彼女の計算され尽くされた物言いには、その点において誰も敵わない。
僕は立花研の扉の前に立ち、数回ノックした。しばらくして扉が開く。
「何の用かしら。オトナ君」
顔を覗かせるのは少しばかり老けた印象のおば……立花の姿。こんなにあっさり開けてくれたことに内心驚きつつも、毅然とした。
「突然すみません。とりあえず中に入ってもよろしいですか」
僕は招かれるまま研究室に入った。適当な椅子に座らされ、ファイルの束が唯一置かれていない小さなテーブルにコーヒーを二つ置かれる。彼女がキャスター付きの椅子を引っ張り、テーブルを挟んで対面に座った。
「で、なに。また『あなたの研究は未来において意味がない』なんて言いに来たの」
「違います。涙さんについてです」
難癖のように言い出す立花に単刀直入にそう言うと、当人は少し眉間に皺を寄せた。
「涙に……。なんで」
「涙さんを取り戻すために、涙さんのことを教えてもらいたいんです」
「なにそれ、意味がわからない。どういうことか教えてくれたら、涙について教えてあげる。いい取引ね。おもしろそうな事情がありそう」
彼女が僕の話に興味を持ってくれたようだ。これはいい流れだ。
「実は……」
僕はこれまで続く経緯について、順を追って懇切丁寧に教えた。立花は頬杖を突きながら、時おりコーヒーカップに手を伸ばし話に聞き入る。十分ほどで語り終えた。
「……というわけなんです」
僕が締めにそう告げると、立花はにやにやとした笑顔のまま数回拍手した。
「おもしろいねえ。まさか涙とオトナ君の間でそんな映画みたいな話があったなんて」
「僕にとっても涙さんにとっても、おもしろい話ではまったくありませんけどね」
立花の言葉を軽くあしらい、僕は本題に入ることにした。
「それで、立花教授。涙さんのこと、知ってる限り何でもいいんで教えてください」
「オトナ君は怖いね。けど十分楽しませてもらった。仕方ない、教えてあげるよ。……その代わり」
立花は人差し指を立てた。
「涙の過去をオトナ君が支えきれるか。もしくは、過去を知りつつ涙を大事にできるか。この二つを守れると誓わないと教えられない」
いつになく真剣な顔つきで神妙なことを言い出す立花に、自然と僕の体は後ずさる。これだけでも立花と涙さんの親交の厚さが窺える。そして、立花がこれから言うことは涙さんの過去が壮絶なものだったことを感覚で教えてくれる。
ここに来てそんな重い条件を提示されたことに面食らった僕は、正直なところ怖じ気づいてしまった。涙さんの過去がわかるということは同時に、もう後には一歩も引けないということも示しているのだ。
僕に、その覚悟はあるか。
「どうした。怖じ気づいた?」
立花に図星を突かれ、体がびくりと震えた。
「そんな調子じゃ教えられないな」
さらに心に揺さぶりをかけてくる立花希美。さすが心理学を極めた人間だ。だが、これしきのことで動揺しては教えてくれないだろう。そんな気がする。
だが、ここで怖じ気づいていては僕の涙さんへの思いが嘘になる。
「……お願いします」
「ん?」
「涙さんのこと、教えてください」
「男だね。わかった。教えてあげる」
立花はテーブルに両肘を突き、ゆったりと腰かけて彼女のことを話し始めた。
彼女は至って普通の家庭、普通の両親のもとに生まれた。両親の頑張りで幼稚園、小学校、中学校と名門の私立校に通わせてもらっていたそうだ。彼女自身は「とても幸せな毎日だった。こんな毎日がずっと続くんだって、ずっと思ってた」と言っていたよ。
ところが、そんな幸せは唐突に終わりを迎えた。彼女の両親が相次いで心臓発作で亡くなったんだ。不思議な話だと思わないかい。両親を心臓発作で同時に亡くし、奇しくも、彼女は突発的な発作などではなく、病気としてそれを持ち合わせてしまったんだ。彼女が十五歳のとき、中学卒業を間近に控えた頃だった。
彼女の家庭は一般家庭ながら少々特殊な立ち位置にいてね。父方は鳳銀行の頭取の息子兄弟の一人。対して母方は鳳銀行の方針に反旗を翻す橋都銀行の代表取締役の義姉。こんな数奇な間柄の両親のもとに生まれた彼女は、両陣営の親類から引っ張りだこだった。だいたいは彼女の両親の遺産目当てだろうけどね。そのことを知ってか知らずか、彼女はそのどれも断って一人で生きていくことを決めたんだ。なぜかと聞いたら、「私の家族像は、お父さんとお母さんが仲良く一緒に暮らしてる姿だけだから」って。
そのあと、彼女は彼女が結婚するときのための両親の遺産を切り崩しながら生きていた。そんなとき、一人目の男性が現れた。恋愛の仕方なんて知らない彼女は男のやり方にまんまと騙されて結婚してしまった。騙されたんだ。すぐに二人は離婚した。離婚して貯金の残高を見ると額が半分にまで減っていたらしい。彼女はそこで、「もっと疑り深くかからなきゃダメだ」と思ったそうだ。そのときからあんな性格になったそうだ。
そして、今の旦那は二人目。涙から連絡は来ないけど、大人君の話を聞く限り、今回もまんまと騙されたみたいだね。まったく彼女は不幸な運命を歩んでると思うよ。
「これで終わり。ぜんぶ彼女本人から聞いたことだ」
僕はすべてを聞き終えて絶句した。声が出せなかった。同時に、「僕は彼女に何をしてやればいいんだ」という気持ちになった。
「すみません。ありがとうございました。……あの、帰ります」
僕がそう言って席を立つと、立花は言う。
「次来るときはアポ取ってから来てね。それがマナーってもんだよ」
「……善処します」
僕は静かに扉を潜り、研究室を後にした。
家に帰ってきてから、僕はしばらくソファに腰かけて僕自信の覚悟について考えていた。
彼女は僕のことを今でも好きでいてくれているのだろうか。僕の方が後からその気持ちに気づいて「いまさら」という気はするが、もしそうでなかったら僕の覚悟は水泡へと帰し、今までのことをすべて忘れざるを得なくなってしまう。けれど、彼女があんな狭量な男と一緒にいて幸せなはずがないのはもはや事実だ。あの無理矢理さでは、まるで軟禁と変わらない。
それに、田中は言っていた。「本当に好きな人には心配をかけさせないもんだ」と。涙さんが果たしてそうなのかはわからないが、だからこそ、心身ともに異なったものを抱える者同士が互いに支え合って生きていくのだ。人生を俯瞰しながら生きている僕になら、彼女の足りない部分さえ捉えることができる。彼女は僕にそう言ってくれた。それだけで涙さんが僕を好きになるには十分な理由だったのだ。
僕は彼女と自分たちの足りない部分を補ってひとつになりたい。ひとつになって、彼女と人生を歩みたい。
僕は心の中で確かにそう決意した。気づくと辺りは真っ暗で、帰ってきてからずっと考え込んでいたことを知った。
「あ……」
そういえば、昨日少し脳裡を掠めた郵便受けの中身を確認するのを忘れていた。大学に赴くときに一旦帰宅したときも、急いでいたからすっかり忘れていた。
僕は部屋から出て階下の郵便受けの鍵を開け、中身を取り出す。電気料金、水道料金、ガス料金、クレジットの引き落とし通知、会社からの業務連絡などなど、いつもの無味乾燥な郵便物の数々。そんな中、たったひとつ手紙のような封筒が混じっていた。誰からだろうと反すと、そこには夕岸涙という署名──。
「涙さん、から」
僕は慌てて他の封筒をその場に落とし、しかしそれには目もくれず涙さんからの封筒を開けた。
便箋にはこんなことが書いてあった。
拝啓 渡賀大人君
「毎日をいかがお過ごしでしょうか」なんて堅苦しい挨拶は嫌いだから割愛します。
さて、これを書いているのは六月も末ごろ、二十七日です。主人の目を盗みながら少しずつ書くことにしています。どうやら私が結婚する以前から主人は大人君のことが大の嫌いらしく、目の敵にしています。
この手紙に書くのは今の主人との出会いについてです。結婚式に呼べなかった代わりと言ったらあれなんだけど、大人君には本当のことを知ってもらいたいと思います。(結婚式で私が話したことはまるっきりぜんぶ嘘なんだけど、この際まあいっかと思ってます)
私が今の主人と出会ったのは、あのとき言った通り、私が持病の心臓病の発作で倒れて病院に搬送されたときです。そのときの担当医が主人だったわけです。
両親がすでに他界していて親戚も遠かったから、私には身寄りがいないも同然でした。治療代や入院代は両親の遺産でなんとかなりました。けれど、病室にいてもずっと独りで、見舞いに来る人なんて大学で知り合った友人がごくたまに訪れるだけでした。私は大人君のことばかり考えていました。「こんなとき彼ならどんな言葉をかけてくれるかな」とか「今の私にすら厳しめの言葉をかけるのかしら」とか、そんな他愛ない想像です。
ですが、やはりひどい孤独感は拭いきることができませんでした。大人君が本当に私のことを気にしてくれているのかと考えたら、涙が溢れてくる有り様でした。そうして個室で声を殺して泣いているところに、偶然、問診の時間を間違えてやってきた主人が現れました。
私は気づかれないように涙を拭いましたが、主人はとても疑り深く、私の涙の理由を根掘り葉掘り聞いてきます。私はあまり熱心に聞いてくる彼に、つい大人君とのことを話してしまいました。
私の話を聞き終わった主人は「なんて酷い奴なんだ! 許せない」ということを話していました。私は大人君のことを思っていたので、そんなふうに言う彼をなだめたのですが、彼は突然「そんな奴のことを好きになるより、君を治療でき、なおかつ君の孤独を癒せる僕と……」と口説いてきました。その時は断ったのですが、やはり孤独とどうしようもならない心の隙間はどうにもなりませんでした。毎日、彼が暇があれば私の病室に訪れて他愛ない会話を重ねる、という日々でした。やがて私はじわじわと彼に惹かれていきました。しかし、やはりそれでも大人君のことは忘れられませんでした。
私は退院して大人君に会いに行きました。そしたらあなたは「まずは治療に専念して」と言いました。私はあのとき少なからずショックを受けていました。大人君ならわかるんじゃないかと思います。
それから、私は少しの傷心を胸に抱きつつ、あの病院に舞い戻りました。出迎えてくれたのはにこやかな笑顔を私に向けてくれるあの医師。私はすっかり心の拠り所を彼にシフトしてしまいました。
私は治療に専念する間、ずっと彼の笑顔を向けられたまま過ごしました。だんだんと私と彼の心の距離は近くなっていきました。毎日優しく接しられたら無理もない話ではないでしょうか。それも、私のような身が。
心臓病は治りました。奇跡のようだと彼に言われましたが、私は同時に大人君との約束を思い出します。けれど、退院して程なくして彼から連絡があり、「結婚しよう。僕となら君を幸せにできる」と、とても強く自信に満ちた口調でプロポーズされました。私はしばらく悩みました。優しくしてくれる彼か、私のことがすべてお見通しな大人君との間で。
結局、私は彼を選びました。でも、それは間違いでした。彼は結婚してから私に暴力を振るうようになりました。あんなに優しく接してくれたはずなのに、結婚したらがらりと変わってしまいました。今書いているこの文章は七月十三日のものです。大人君が私たちのマンションに現れた次の日です。あの時インターホン越しに見たでしょう。あんな感じの毎日です。
おそらく主人は私をただ支配したかっただけなのです。そういう性格の持ち主なんだ、って。
大人君は喫茶店で待ってくれるみたいだけど、私は行けません。主人が私を外に出させてくれないからです。週に一度、主人の車に乗って向かう場所とマンションの一室が今の私の世界です。私も「まさかこんなことになるなんて」と思っています。
どうしようもなく逃げ出したい。今までにないほど孤独を感じて胸が張り裂けそうです。
助けてくれとは言いません。私は大人君を裏切りました。ただ、私のことを思ってくれるなら、それだけで私は救われます。
敬具
不意に手紙の上に雫が落ちた。僕は手紙を両手で握りしめ、その静かな慟哭に体を震わせていた。
「涙さん、僕は」
僕は不甲斐ない。この手紙には本当の涙さんの姿が見える。約束は果たされている。
涙さんを助けに行かなきゃ。
僕は手紙をポケットに突っ込むと、落ちた封筒もそのままに都会の闇の中に駆け出していった。
都会のネオンと不思議そうに僕を見る人の視線を一身に浴びながら。
涙さんが住むマンションの前に着いたときには、僕の体は酸素を求めて息もからがらといった有り様だった。けれど、僕はまっすぐにマンションのセキュリティシステムに近づいて部屋番号を打ち込んだ。数度コールし、画面に向こうの様子が写し出される。
『はい。上出です。……あ』
「涙さん……!」
僕は画面にがっついた。
「涙さん、手紙読みました。ごめんなさい。あなたがあんなにも僕のことを思ってくれていたことに気づかなくて……。僕も、僕も涙さんのことがどうしようもなく好きになってしまいました。この気持ちに応えてくれるなら、ロックを解除してくれませんか」
『わた、し……だめ。だってそんなこと彼に気づかれたら、私、何されるかわからない』
彼女はひどく怯えきった顔でそんなことを言った。これが結婚して一年も経っていない人の浮かべる表情だろうか。
「大丈夫です。僕が涙さんを守ります。だから」
『危ない!』
突然涙さんにそう叫ばれ、僕は後ろを振り向く──振り向きざまに頭を何か固いもので殴られた。ちらりと得物が視界に写る。分厚い医学書だった。
僕はその場に倒れ込む。
「貴様、二度と来るなと言ったはずだ。涙に近づくんじゃない!」
「ぐ……、く」
殴られた衝撃で視界が揺れ、うまく相手の姿を捉えられず立ち上がることもままならない。相手は為すすべのない僕の胸ぐらを掴んで壁に押さえつけると、拳を作って思いきり顔を殴り付けてきた。その衝撃をもろに受けて僕はさらに視界が霞む。口の中に一気に血の味が広がった。
「お前に涙の何がわかる? 涙のことなど何も知らん奴が、のうのうとここに現れては涙に要らぬことを吹き込もうとしている。この──悪魔が!」
何度も顔を殴られる。顔が腫れ上がっているのが自分でもわかる。
不意に腹を膝で蹴り上げられ、僕は息をすることもままならない。けれど、このままでは引き下がれない。僕は何をしにここまで来たと思ってる。
涙さんを助けるためだ。
「お前なんかに……」
「なにっ」
「お前なんかに涙さんの何がわかるんだ」
「……ふざけるな!」
僕は掴まれていた胸ぐらを離され、地に落ちた。そして、今度は何度も蹴りを入れられた。
このままでは埒が明かない。そう感じた僕は最後の気力で蹴りを入れようと上げた足を全身で掴んだ。
「うわっ、く」
相手はバランスを崩してその場に倒れる。片足にしがみついて離れない僕を、もう片方の足で蹴って剥がそうとするが、僕も必死だ。絶対に剥がされるものか。
そのときだった。
「君たち。そこで何してるんだ!」
突然聞こえた男の人の声。僕を蹴り上げている相手の顔を見ると、真っ青になっている。近づいてきた男も真っ青な服装だ。
真っ青な男は相手に何か黒い手帳を見せると懐から黒い輪を二つ取り出した。
「上出秀三さんですね。──さあ、君も足から離れて」
僕は言われるままに足から離れた。そのとき誰かが後ろから支える。
「涙さん……」
その名前を呼ぶと、彼女は涙を浮かべながら微笑んでくれた。
「二十一時二十三分。現行犯逮捕です」
真っ青な男はそう言って相手の手に丸い輪をかけた。引きずられるようにしてパトカーに乗せられる。
「ま、待ってくれ! こ、こいつもストーカー行為をしてたんだぞ。こいつも……」
「詳しいことは署でね」
パトカーに乗せると、もう一度こちらに戻ってきて僕と涙さんに言う。
「大変な目に遭いましたね。でも、もう大丈夫ですからね。救急車を呼びましたので、間もなく来ると思います。奥さんも通報ありがとうございます。増援と救急車が来るまで二人だけになってしまいますが、よろしいですか」
「はい。構いません」
僕の代わりに涙さんが答える。
「では、我々はこれで」
真っ青な男はそう言ってパトカーに乗り込み、サイレンをけたたましく鳴り響かせながら行ってしまった。あとに残るのは僕と涙さんだけになる。
「全部、終わりましたよ。涙さん」
「うん。うん……」
涙さんは僕を支えながら涙声でそれだけを言った。
しばらくして増援と救急車がやって来て、僕たちは一旦離ればなれになってしまった。けれど、またすぐに会える。僕はそう確信しながら救急車に乗せられ、病院で精密検査と治療を受けることになった。
「ごめんなさい」
開口一番に放たれたのは感謝の念ではなく、謝罪の言葉。涙さんらしいと思う。
「気にしないでください。命に別状はなかったわけだし、ぴんぴんしてますし」
「でも」
「僕はもう大丈夫です」
僕がはっきりとそう告げると、涙さんは黙り込んでしまった。
あの夜の出来事は全国新聞にも取り上げられ、一時期僕は周りの人からひどく持て囃された。いや、今現在も週刊誌の取材がたまに舞い込むぐらいには持て囃されている。あの夜のことはもう二週間以上前のことだけれど、今回のドラマか映画のような一連の出来事は、やはり世間の人にとっては話題に事欠かないネタのようだ。
僕は腹に受けた膝蹴りが原因で重傷を負い、やはりここ二週間ほどは直接的な面会は一切許されなかった。だから、こうして面と向かって人と会うのは二週間ぶり。涙さんは僕の両親の後にこっそり訪れたというわけだ。
僕は俯いたままで負い目を感じている彼女に語りかける。
「涙さん。僕、大学時代のゼミの教授に会って、涙さんのことを聞いてきました」
「ゼミって……立花教授?」
「はい」
僕は涙さんの過去のことをすべて立花に聞いたことを話した。彼女はとても気恥ずかしくしていたけれど、だんだんと穏やかな顔になって、僕があることを告げるとまるで太陽のように、その顔には明かりが灯った。
「僕は涙さんの一番の人になりたい。僕は涙さんの人生の伴侶でいたい。僕は自分の意思でそう思っています。……涙さん。僕と結婚してくれませんか。プロポーズの指輪は無いんですけど……」
僕も少々気恥ずかしく感じながらプロポーズの言葉を言う。
彼女は顔を赤らめて涙をその大きな目に溜めると、勢いよく僕の体に抱きついた。
「よう大人。お加減いかが……て」
「あ」
「げ」
「え」
ガラリと病室の扉を開けたのは田中と七尾ちゃん。
「ああ……」
「あ、二人ともごめんね。えっと、これお見舞いのフルーツバスケット、ここ置いとくから。じゃあね、お楽しみ」
「待ってくれ二人とも! 違うこれは──待て!」
僕が必死に誤解を解こうと呼び止めるもそれは叶わなかった。まるで嵐のように消えていった二人が残したのはフルーツバスケット。
「さっきの二人は?」
「ええと、僕と涙さんの逢瀬を手助けしてくれた友人ですよ」
「じゃあ、あの二人も呼ばなきゃね」
「え?」
じゃ、じゃあ、とわなわなする僕に涙さんは笑顔で答えてくれた。
「私と結婚してください。これからよろしくお願いします」
結婚式には色々な人を呼んだ。僕の家族、涙さんの両親、田中とその家族、七尾ちゃんとその家族、立花教授、小中高大で僕の友人だった奴ら、会社の仲間、そして、鳳銀行と橋都銀行の関係者たち──しめて数百人を呼んでの盛大な式典になった。
僕の両親は最初は反対していたけれど、涙さんの姿を見るなり一瞬で賛成へと立場を変えた。田中や七尾ちゃん、立花教授はもちろん大賛成。友人や仲間には悔しがる人間もいたけれど、みんな喜んでくれていた。銀行の人たちは納得がいかない様子だったけど、涙さんの度重なるわがままにはお手上げだったのか、概ね賛成のようだ。涙さんの両親は──きっと喜んで賛成してくれただろうと思う。
そして、僕たち二人は今、幸せすぎる結婚生活を送っている。僕が懸念していた涙さんの心臓病もどうやら本当に完治したらしく、発作が起きることはもうないようだ。念のため三ヶ月に一度は精密検査をする必要があるらしいが、僕たちの結婚生活になんら支障はない。
「大人君」
「なに?」
「いま、幸せ?」
「涙さんが。それとも僕が」
「『人生を俯瞰しながら生きているあなたなら、きっと私のこともお見通し』」
「そうですね」
だから、僕は涙さんに自信をもって答えた。
「僕も涙さんも、いま、とっても幸せですよ」
終