母の遺言は、自由に生きなさい、でした。だからわたしは自由に、母を燃やした火元を探します――人がコードに見える十二歳、炎上捜査ギルドでNランクから一位まで
母の最後の言葉は、自由に生きなさい、だった。
病院から持って帰ったのは、その一言だけだ。だからわたしは自由に、母を燃やした火元を探すことにした。十二歳の春だった。
火事ではない。燃えたのは、ネットに上げられた一枚の写真だった。スーパーの通路で、母が片手を高く上げていて、その下でわたしが泣いている。母の手とわたしの顔のところだけを切り抜いたその写真に、子どもを叩く母親、という短い文が添えられて、一晩で何万回も拡散された。最初にそれを投稿した人のことを、火元と呼ぶ。
本当は、母は棚の上の醤油に手を伸ばしていただけだ。わたしが泣いていたのは、お菓子を一つ戻されたからだ。どこにでもある土曜日の、どこにでもある三秒間だった。
この国では、ネットで燃えたものは、画面の中だけでは終わらない。燃えている人の名前の横には延焼指数という数字が付いて、天気予報の降水確率みたいに、誰でも見られるようになっている。八十を超えると、その人の家に知らない人が来る。そういうニュースに、もう誰も驚かない。
母の指数は九十四まで上がった。住所が貼られた次の日の夕方、母は玄関で刺された。刺した男は、母と一度も会ったことがなかった。子どもを助けたかった、と男は警察で言ったらしい。
男は捕まった。写真を最初に投稿した火元は見つからず、炎上のほうの捜査はそこで打ち切られた。
火元を探すのは、警察だけの仕事ではない。炎上が多すぎて手が足りないので、警察はその仕事を民間に配っている。正式には延焼対策協力員制度というけれど、誰もそうは呼ばない。炎上捜査ギルド、略してギルドだ。火元を当てれば点が入る。誤解だと証明して火を消しても、点が入る。火を消すのがうまい人は、火消しと呼ばれる。
一週間後、テレビに火消しの篠崎が出た。ギルドの順位表で、四年間一位に座っている人だ。
「調べた結果、お母様は叩いていませんでした。誤解です。これ以上、ご遺族を傷つけるのはやめましょう」
穏やかな声だった。スタジオの拍手を、わたしは祖母の団地の居間で聞いた。篠崎の点数は、その夜のうちにまた上がった。
わたしには、人がコードに見える。
胸のあたりを、白い文字の列が上から下へ流れていく。担任の先生には、見られているときだけ声が一段高くなる、という一行がある。祖母には、心配ごとがあると台所の同じ場所を三回拭く、という一行がある。画面越しでも見えるけれど、文字だけの投稿からは何も読めない。読めても、書き換えることはできない。
母はプログラマーだった。黒い画面に白い文字が流れていくのを、わたしは小さいころから横で眺めてきた。これをコードと呼ぶのは、そのせいだ。見えないのは二つだけだ。鏡に映した自分と、母。
コードには、たいてい不具合がある。条件が抜けていたり、同じところを回り続けたりする。そこを突くと、人は止まる。
画面の中の篠崎には、不具合が二つあった。燃えているものを見ると、もう少しだけ薪を足したくなる。誰かが間違えていると、黙るかどうかを決める前に、口が訂正を始めてしまう。
ご遺族を傷つけるのはやめましょう、と言っているあいだも、篠崎の胸では、薪を足す一行のほうが光っていた。口では火を消しながら、中では薪をくべている。そんな食い違いを、わたしはほかの誰にも見たことがない。
この人だ、と思った。証拠は一つもなかった。
ギルドの登録に必要なのは、電話番号だけだった。点がたまると、ランクはN、R、SR、SSRと上がっていく。若い人を集めるためにソシャゲの呼び方を借りたのだと、案内のページに書いてあった。年齢を聞く欄は、どこにもなかった。
名前はヌルにした。母のパソコンで覚えた言葉で、何も入っていない、という意味だ。いまのわたしに、ちょうどいいと思った。
最初の案件は、ラーメン屋の異物混入動画だった。投稿した男は、カメラに向かって丼を指さしていた。男が店の名前を口にするたびに、胸の文字の列が一瞬止まって、少し上まで巻き戻った。嘘をつく人は、さっき自分が何と言ったかを確かめに戻る。本当のことを話す人のコードは、上から下へ流れるだけだ。火元は動画の男本人で、自作自演です、と書いて送った。十一分後に、正解の通知が来た。
Rまで三日。SRまで二週間かかった。
ランドセルを置いてから眠くなるまでの四時間が、わたしの持ち時間だった。祖母が夜勤の日は、もう少し延びた。本人の映っていない案件は、最初から取らなかった。わたしに読めるのは、人のほうだけだ。
一度探しはじめたものを、わたしは見つかるまでやめたことがない。なくした消しゴムを、夜中の二時まで探したこともある。母はそのたびにあきれた顔をして、懐中電灯を貸してくれた。
SSRに上がったのは、夏の終わりだった。掲示板では、Nから上がってきた新人の正答率が百パーセントだと騒がれていた。その答えの半分が、算数の宿題の合間に出されていることは、誰も知らない。
SSRになると、閉じた案件の削除ログが読めるようになる。残っているのは、消えた投稿やアカウントがいつ作られ、いつ消されたか。それと、消されるまでに何回開かれたか。それだけだ。わたしは、篠崎が火を消した案件を四年分さかのぼった。
火元の投稿は、どれも四分で消えていた。火元が見つかった案件は、一つもなかった。
四分あれば、切り抜いた写真は広まる。けれど、元の投稿そのものを見る人は、ほとんどいない。母の写真の最初の投稿も、四分で消えていた。
十月、わたしは順位表の十位に入った。上位の十人だけが、未解決の案件を公開配信で検証し直す照合会に出られる。わたしは議題に、母の案件を出した。
照合会の一時間前、スマホが震えた。
開くと、わたしの写真が貼られていた。去年の運動会で、クラスの列に並んでいる写真だ。照合会のヌルの正体は小学生、あの虐待事件の娘、遺族の逆恨みで関係のない人を火元に仕立てようとしている、と書いてあった。
わたしが母の案件の削除ログを開いたことは、閲覧の記録に残る。その記録まで見られるのは、順位表の一位だけだ。
わたしの名前の横に付いた延焼指数は、四十一から始まった。夕飯の皿を洗っているうちに、六十七になった。祖母は施設の夜勤で、朝まで帰ってこない。
八十を超えたところで、外の廊下に足音がした。
インターホンが鳴った。モニターに、スマホを顔の前に掲げた大人が四人映っていた。四人のコードは、どれも短かった。正しいことをしていると思っているとき、声が大きくなる。もっと新しい燃料が来たら、そちらへ向かう。母を刺した男も、たぶん同じ二行しか持っていなかったのだと思う。
扉の向こうで、出てきなさい、話を聞くだけだから、と声がした。誰かが扉を叩いた。三回叩いて止まり、また叩きはじめた。
鍵とチェーンを確かめた。手が震えて、チェーンが二度、扉に当たって鳴った。
照合会は、アバターのまま出る約束になっていた。黙って抜けることもできた。誰も責めないだろう。篠崎も、きっとそれを待っている。
自分のコードは見えない。だから、わたしが次に何をするかは、わたしが決めるしかなかった。
あの日、母は玄関を開けた。宅配便だと思ったのだと、あとで聞いた。わたしは玄関を開けない。開けるのは、もう一つのほうだ。
アバターを切って、カメラをつけた。
画面に、わたしの顔が映った。視聴者数は三万を超えていた。進行役の三好さんが、言葉を飲みこむのが分かった。警察から来ている担当官だ。
「久我小春です。十二歳です。母の案件の火元について話します」
コメント欄が一度止まって、それから滝のように流れた。子どもじゃないか。ごっこ遊びか。親は何をしている。
十位のわたしの枠から一位の篠崎の枠までは、画面の上で指一本ぶんしか離れていなかった。篠崎が、困ったように笑った。
「小春さん。お母さんのことは、本当に気の毒だった。でも君は、誰かに利用されているんじゃないかな。今夜はもう休んだほうがいい」
篠崎の胸で、薪を足す一行が光っていた。
「最初の投稿の文は、この人子どもを叩いてます、の一文だけでした。急いで打ったみたいな、短い文です。火元は、慌てていたんだと思います」
合っているかどうかは、どうでもよかった。間違っていれば、篠崎は黙っていられない。
篠崎のコードが、訂正の一行に入っていくのが見えた。黙るかどうかを決める行は、そのずっと後ろにある。
「違うな。最初の投稿は、毎週ここで子どもを叩いている母親です、だ。慌ててなんかいない」
言い終わってから、篠崎の顔が止まった。コメント欄も、今度は完全に止まった。
毎週、と篠崎は言った。わたしと母は、土曜日になるとあのスーパーへ行っていた。あの通路のどこかから、この人は毎週、わたしたちを見ていたのだ。
「篠崎さん」
三好さんの声が、静かになった。
「削除ログに、本文は残りません。その文は、どこでご覧になりましたか」
「最初の投稿は、四分で消えています」
わたしは続けた。
「消えるまでに開かれたのは、二回だけです。四分のうちに切り抜いた写真をばらまいたアカウントも、二つだけでした。どちらも同じ日に作られて、次の朝に消えています。外に出た文は、子どもを叩く母親、の一つだけです。毎週ここで、という言葉は、どこにも残っていません。あの文を読めたのは、書いた人と、その二つだけです」
篠崎の口は、もう一度開いて、何も言わずに閉じた。黙るかどうかを決める一行が、いまさら動きだしていた。遅かった。
「篠崎さん、接続を切らないでください」
三好さんの声は、もう進行役の声ではなかった。
コメント欄の流れが、向きを変えた。篠崎の名前の横で、延焼指数が三十、六十、九十と跳ねた。
インターホンのモニターの中で、四人がいっせいにスマホを見た。四人のコードの、向かう先を決める一行が、同時に書き換わった。燃料が変われば、群衆はあっさり行き先を変える。母のときも、そうだった。
四人は廊下を戻っていった。最後の一人は、振り返りもしなかった。
警察は、群衆より先に篠崎の家に着いた。それだけは、母のときと違った。
篠崎が捕まったのは、明け方だった。外に出した投稿は四分で消していたのに、端末には四年分の最初の投稿が、一つ残らず保存されていたと聞いた。燃えているものを見ると薪を足したくなる人は、自分のつけた火を捨てられなかったのだ。
四年分の火元が一晩で見つかって、その点はまとめてわたしに入った。朝、順位表の一番上に、ヌルの二文字が載っていた。
一位になっても、胸の中は何も変わらなかった。探すものがなくなったぶん、かえって空っぽになった気がした。ヌルという名前は、思っていたよりずっと、いまのわたしに合っていた。
夜勤から戻った祖母は、玄関でわたしを抱きしめて、それからすごく怒った。怒りながら、台所の同じ場所を三回拭いた。
本当は、母の最後の言葉には、前があった。
「小春は、どうせ探すんでしょう」
病室で、母はそう言って、少し笑った。
「見つけたら、あとは自由に生きなさい」
わたしは前の半分を、病院の廊下に置いてきた。止められていると思いたくなかったからだ。
でも母は、止めていなかった。わたしが探すのをやめないことを、知っていただけだ。わたしには、母のコードが見えなかった。母にも、わたしのコードは見えなかった。それなのに母は、わたしの中の終わらないループに、出口を一行だけ書き足していった。
見つけた。だから、ここから先は自由だ。
ギルドから通知が来ていた。一位の方は、ハンドルネームを変更できます。
ヌルの二文字を消して、少し考えてから、こはる、と打った。
何も入っていなかったところに、やっと一つ、入った気がした。
台所から、卵を割る音がした。自由に生きる一日目は、祖母の隣で、焦げた卵焼きの端をもらうところから始めることにした。




