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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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お母さん、どこ?

掲載日:2026/10/19

ぽつり。


ぽつり、と。 どこか気の遠くなるほど遠い場所で、冷たい水滴が重い音を立てて硬い床を叩く音が響いていた。


暗闇はあまりにも深く、そして粘り気を含んでいるかのように重たかった。


ひやりとした不快な冷気が肌を刺し、古びた鉄の錆びた匂いと、長年湿気を含んで腐りかけたカビの酸っぱい匂いが、どんよりと鼻腔の奥に滞留している。


広大で、果てしのない沈黙に支配された巨大な地下の空間。


その底の片隅に、ぽつんと小さな黄色い塊がひとつ、体を丸めるようにして倒れていた。 「……う……ぁ……」 かすかで、小さく、いまにも消えてしまいそうな声だった。


声に合わせて、その黄色い布がかすかに身震いするように揺れる。


それは、小さな子供が着るダッフルカッパだった。


サイズがあまりにも合っておらず、ブカブカで、長すぎる裾は子供の足首どころか爪先まですっぽりと覆い隠してしまっている。


鮮やかだったはずの黄色い生地は、あちこちが黒い泥と油汚れで惨めに汚れ、湿り気を含んで重たく湿っていた。


そのカッパの大きなフードの下で、幼い少女——ノノがゆっくりと目を覚ます。


頭を覆う大きなフードの影に隠れて、その素顔をうかがい知ることはできない。


ただ、濡れた髪のすき間から覗く、くりくりとした大きな目が、暗闇の恐ろしさに怯えるようにゆらゆらと揺れていた。


ノノは小さく体を震わせながら、両手を床につけて体を起こそうとした。


けれど、幼い手のひらに触れた床の感触は、ひやりと冷たく、ぬるぬると濡れていた。


床一面に、くるぶしに届くか届かないかほどの浅い濁水が張られているのだ。ノノが手のひらを動かすたびに、ひた、ひた、と小さな水音が暗闇に溶けていく。


「……あぅ……」 声にならない、赤子のような短い喃語がノノの口から漏れた。


ノノは怯えたようにまばたきを繰り返すと、自分の胸元を確かめるように小さな手を動かした。


ブカブカのカッパの胸元には、幼い命のすべてであるかのように強く抱きしめられた二つの宝物があった。 ひとつは、四隅が丸く擦り切れ、表紙が水滴で波打っている小さなスケッチブックと、それを束ねるゴムバンドに挟まれた数本の短くなったクレヨン。


もうひとつは、細い骨が途中でポッキリと折れ、布地が破れてしまって、二度と開くことのなくなった小さな黄色い傘だった。


ノノは震える指先で、傘の硬い柄をぎゅっと握りしめた。


骨が壊れたこの傘は、もう雨を弾く役目を果たしてはくれない。


けれど、己の身を守る術を持たないノノにとって、この傘を床につき、杖のようにして歩くことだけが、暗闇の中で自分を支える唯一のよすがだった。


「ノノ、大丈夫?」 静寂の底から、ひょっこりと柔らかい声が降りてきた。


ノノがカッパのフードを大きく揺らして振り返ると、すぐ目の前にひとりの男の子が屈み込んでいた。


ノノと同じくらいの小さな背丈。


すり減った袖口と、少しサイズの大きいズボンを履いた男の子——トトだ。


トトはノノの顔を覗き込むと、気遣うように眉を下げ、優しく微笑みかけた。


「痛いところはない? 怖がらなくていいよノノ。僕がずっと、隣にいるからね」 「う……あー……」 ノノはコクリと首を縦に振り、ブカブカのカッパの袖口でゴシゴシと目をこすった。


そして、濡れた膝の上に大事そうにスケッチブックを広げると、かじかんだ小さな指で一本の赤いクレヨンを固く握りしめた。


紙の上にクレヨンが走る。


ぎぎ、ぎぎぎ、と鋭い摩擦音が小さく響く。


ノノが描いたのは、紙面いっぱいにぐちゃぐちゃと渦を巻く不揃いな赤い線と、その中心に歪にぽつんと描かれた黄色い大きな円だった。


描き終えると、ノノは両手でスケッチブックを高く掲げ、トトの顔へと差し出した。


「あー! うー!」 切なげに声を張るノノの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。


トトはその支離滅裂にも思えるクレヨンの跡を真剣な目つきで見つめ、それから優しくうなずいた。


「……うん、『あかい服を着たママを探しに行かなくっちゃ』って言ってるんだね。


大丈夫だよノノ。


ママはこの大きな家の上の方で、きっとノノを待っているよ。


僕が案内してあげるから、一緒に行こう」 トトはノノの手をとるような仕草をして、すっと立ち上がった。


ノノもまた、開かない黄色い傘の先端を濡れた床に突き刺し、「ガラガラ、ズズ……」と重い金属音を立てながら、ヨイショと幼い体を立ち上がらせた。


ふたりがたたずんでいる場所は、天井が見えないほど高い、巨大な地下倉庫のような空間だった。 見上げるような壁という壁には、太い鉄製の配管が複雑に絡み合い、まるで浮き出た巨大な血管のように這い回っている。


そこかしこの接合部から、絶え間なく濁った水滴がポタポタと落ち、床の濁水を揺らしていた。


周囲の暗闇に沈んでいる家具のどれもが異常だった。


巨大な木製の椅子、天井まで届きそうなタンス、積み上げられた巨大な木箱——どれをとってもノノの背丈の何倍もあり、まるで大昔に巨人が住んでいた場所に迷い込んでしまったかのような異質さと圧迫感があった。


ノノは傘の先端でぬかるんだ床を確かめながら、トトの後を追って歩き出した。


チェアの脚が濁水を叩く音、ノノのカッパが擦れる音が、果てしない空間に小さく吸い込まれていく。


足元の水はまだ浅く、くるぶしを満たす程度ではあったが、その冷たさはノノの薄いレインブーツの布地を軽々と突き抜け、芯からじわじわと体温を奪っていくようだった。


「ねえ、ノノ。お母さんのこと、どんなふうに思い出す?」


少し前を歩いていたトトが、唐突に足を止めて振り返った。 暗がりの中で、トトの瞳だけが妙にはっきりと、優しい光をたたえてノノを見つめている。


ノノはぴたりと足を止め、ブカブカのフードの下で小首をかしげた。


「あ……ぅ……」 言葉の代わりに、ノノは左手でスケッチブックを強く抱きしめ、右手で持っている折れた傘の柄をぎゅっと握りしめた。


お母さんの顔は、いま思い出そうとしても、霧の向こう側にいるかのようにぼんやりとかすみ、輪郭すらおぼろげになってしまっている。


覚えているのは、いつも自分を包み込んでくれた赤いドレスの温もりと、優しく頭を撫でてくれた手のひらの感触、そして——あの耳から離れない子守唄の調べだけだった。


「そっか。でも、大丈夫だよ。思い出せなくたって、上に進めばすぐに会えるからさ」


トトは何事もなかったようにふっと笑い、再び歩き出す。


ノノは小さくうなずくと、再び冷たい水面を踏みしめてその後を追った。


周囲の空間は、どこを見渡しても同じような光景が無限に続いているように感じられた。


錆びた鉄板の壁、天井から垂れ下がる無数の黒いケーブル、そして不気味に澱んだ水たまり。


時間の感覚が完全に麻痺していくような、底知れぬ静けさと澱んだ空気。


ノノは何度も肩を小さく震わせながら、寒さと心細さに耐えるようにカッパの襟元を寄せた。


どれくらい歩いただろう。


空間の様相が、ほんの少しだけ変わり始めたのは。


それまで規則正しく並んでいた巨大な木箱やタンスの群れが途切れ、代わりに、壁のあちこちに不気味な「ひび割れ」が目立つようになってきた。


ひび割れの隙間からは、澱んだ地下水とは異なる、少し生臭いような、湿り気を帯びた冷たい風が「ヒュウ、ヒュウ」と細い産声を上げるように吹き込んできている。


「……ノノ、風が来てる。この壁の向こうに、別の部屋か通路があるみたいだね」


トトが立ち止まり、ひび割れたコンクリートの壁にそっと手を添えた。 ノノはトトの足元まで歩み寄り、開かない傘の先端で壁のひび割れをコンコンと突いてみた。 コン、コン、と乾いた音が響く。壁の内部は空洞になっているのか、手応えは意外にも脆そうだった。


「ここ、壊せそうかな……?」


トトが振り返り、ノノを見る。


ノノは大きく息を吸い込むと、折れた黄色い傘の頑丈な金属の石突き(先端)を、壁の最も深いひび割れへと力一杯に突き立てた。


ガツン!


鈍い衝撃がノノの小さな手のひらを伝ってビリビリと痺れる。


崩れかけたセメントの破片がパラパラと足元の濁水へと落ち、水面に小さな波紋を広げた。


ノノは歯をくいしばり、もう一度、全体重を乗せるようにして傘の柄を押し込んだ。

ミシミシシ……ピキッ!


乾いた悲鳴を上げて、ひび割れを中心にしたコンクリートの塊が、ボロリと内側へ向かって崩れ落ちた。


崩落した穴の向こう側から、それまでよりも一段と冷たく、淀んだ地下の空気がむっと押し寄せてくる。


「すごいよ、ノノ! 道が開けたね」


トトが褒めるように微笑むと、先にひょいと身をかがめてその穴の中へと身体を滑り込ませた。


ノノも遅れまいと、スケッチブックを胸にしっかり抱え込み、壊れた傘を引きずりながら、崩れた壁の穴へと小さな身体を潜り込ませた——


ひんやりとした古びたコンクリートの断面が、ノノのダッフルカッパの肩口をかすめ、ジャリリと耳障りな摩擦音を立てた。


穴の向こう側は、先ほどまでの広大で吹き抜けのような地下倉庫とは打って変わり、天井が低く押し潰されたような狭小な通路になっていた。


幅は子供が二人並んでやっと通れるほどしかなく、両側の壁は湿った赤茶色のレンガが乱雑に積み上げられてできている。


床には相変わらず濁った水が張っていたが、こちら側の水は淀みが強く、ノノが一歩踏み出すごとに「プク……プクプク……」と、泥の底から不気味な気泡が途切れなく浮き上がっては消えていった。


「……うぅ……」


ノノは鼻をつまみたくなるような、強烈な下水と硫黄が混ざった異臭に耐えかねて、小さな眉をひそめた。


カッパのフードをさらに深く目元まで引き下げる。


頭上すれすれの位置を、無数の太い鉛色の配管が這うように走っており、その継ぎ目からは一定の間隔で「ポタ……、ポタ……」と冷たい水滴がノノの肩やフードの上へ落ちていた。


水滴が落ちるたびに、ファブリックの生地が重みを増し、ノノの華奢な肩にずっしりと冷たい湿気が食い込んでいく。


「狭いところに入っちゃったね、ノノ。でも、この先に行けば、きっともっと上の階へ通じる階段があるはずだよ」


少し前方を歩くトトの声が、狭い煉瓦の壁に反響して少しこもって聞こえた。


トトの姿は相変わらず薄暗がりの中でもハッキリと見えていたが、その足元はなぜか、足首まで浸かっているはずの濁水に一切触れていないかのように軽やかだった。


波紋ひとつ立てず、音もなく滑るように進んでいくトトの背中を、ノノは少しだけ不安な瞳で見つめ返す。


――ガラガラ……ズズ……。


ノノの引く折れた黄色い傘の先端だけが、レンガの床や水底の小石を擦って、現実に引き戻されるような乾いた金属音を立てていた。


ノノは右手で傘の柄を握り締め、左手で胸元に抱えたスケッチブックを固く押さえた。


この狭い通路を進むにつれて、周囲の暗闇がまるで生き物のように、じりじりと狭まってくるような錯覚に囚われる。


両側の煉瓦壁がわずかに内側へ傾いているようにさえ見え、ノノは自分の体が押し潰されてしまうのではないかという恐怖に襲われ、思わず歩みを緩めた。


「どうしたの、ノノ? 怖くなっちゃった?」


トトが立ち止まり、心配そうに振り返って首をかしげた。


その顔には無邪気な優しさが浮かんでいて、ノノはこくりと小さく首を横に振った。そして、怖さを振り払うように、開かない傘の先で濁水の底をトントンと突いてみた。


「あー……うー……」


言葉にならない小さな声を出しながら、ノノは再び一歩、また一歩と足を前へ踏み出す。 通路の壁には、等間隔で古びた電球のブラケットが取り付けられていたが、どの電球もガラスが割れ、あるいは黒く煤けており、内部のフィラメントはとうに切れて冷たい骸と化している。明かり取りは一切なく、頼りなげに差し込むのはどこか遠くの青白い微光だけだった。


進むにつれて、足元の水温が急激に下がっていくのが分かった。


まるで氷の底から湧き出しているかのように冷たい水が、ノノの薄いレインブーツの隙間から染み込み、小さな足首の感覚を麻痺させていく。 ――チャプ、チャプ、チャプ。


ノノの足音が、狭い煉瓦の回廊に寂しく木霊する。


ふと、ノノは歩きながら左側の壁に奇妙なものを見つけた。


薄暗い闇の中に、何かが規則正しく並んでいる。ノノは足を止め、恐るそる顔を近づけた。 それは、壁の煉瓦の隙間に一つひとつ埋め込まれた、無数の古びた「鍵穴」だった。 錆びついた真鍮の鍵穴が、壁一面に何十個、いや何百個も、まるで人間の無数の目がじっとこちらを覗き込んでいるかのように、整然と、しかし気味悪く並んでいたのだ。どの鍵穴の奥も真っ暗で、向こう側の様子を窺うことはできない。

ノノが思わずそのうちの一つの前に立ち止まり、じっと見つめていると――


――カチッ。


突然、目の前の鍵穴の奥から、乾いた微かな音がした。 まるで、見えない誰かが向こう側から鍵を回したかのような、冷たい金属の擦れ合う音。


「っ……!」


ノノはビクリと肩を跳ね上げ、反射的に後ろへ飛び下がった。


バシャリと濁水が大きく跳ね、ノノはバランスを崩して危うく転びそうになる。


だが、反射的に地面へ突き立てた開かない傘の柄が支えとなり、なんとか踏みとどまった。


「ノノ、どうしたの? そんなところで立ち止まって……」


トトの声が少し遠くから聞こえる。


ノノは怯えた目で壁の鍵穴の群れを見上げ、それから自分のポケットに仕舞い込んできたあの重い鉄の鍵のことを思い出した。ポケットの中で、冷たい鉄の塊がコツリと太ももに当たる感覚がある。 壁の無数の鍵穴は、じっとノノの動きを見つめているかのように、冷たく淀んだ光を鈍く反射していた。


「あぅ……あー……」


ノノは恐怖に駆られ、これ以上そこにとどまることを拒むように、小さな足を慌ただしく動かしてトトのいる方へ駆け出した。


チャプチャプチャプと水音を立てながら、煉瓦の回廊のさらに深い暗闇へと身を滑り込ませていく。


冷たい濁水を跳ね上げながら、ノノはトトの小さな背中へとすがりつくように駆け寄った。


――ズズズ……ガラガラ……。


慌てて引きずられた折れた黄色い傘の先端が、石畳の破片に激しく引っかかり、不快な高い摩擦音を通路全体に撒き散らす。ノノは足をもつれさせそうになりながらも、決してスケッチブックと傘を離そうとはしなかった。


「よしよし、大丈夫だよ、ノノ。僕がここにいるからね」


トトは振り返ると、少し困ったような、けれど柔らかな微笑みを浮かべてノノの小さな肩へそっと手を差し伸べた。 その指先はノノのカッパの生地に触れる直前でふわりと浮いているようにも見えたが、恐怖で冷え切ったノノの胸には、不思議な暖かさがじんわりと広がっていくようだった。


「うぅ……あう……」


ノノはダッフルカッパの大きなフードをもう一度深く被り直し、乱れた息を整えながら、そっと後ろを振り返った。


先ほど通過したレンガの壁。


そこにびっしりと並んでいた無数の鍵穴の群れは、いまや暗闇の陰に没し、ただ不気味な黒い点の集まりとなって遠ざかっていた。


――カチ……、カチ……。


気のせいだろうか。耳をすませば、まだどこか遠くで、見えない誰かがいくつもの鍵穴に鍵を差し込み、静かに回し続けているような微かな金属摩擦音が、湿った空気の波に乗って追ってくる気がする。


ノノは首を小さく横に振り、自分に言い聞かせるようにギュッと目を閉じた。


通路の空気はさらに密度を増し、重たく湿っていた。


壁のレンガはところどころが内部からの圧力で押し弾け、崩れた隙間からドロドロとした不気味な黒い苔のようなものが溢れ出している。


その苔からは、潮の引いたあとの泥のような不快な生臭さが立ち上り、ノノの呼吸を苦しくさせた。


「ノノ、足元に大きな段差があるよ。気をつけないと滑っちゃうからね」


トトが少し前方の暗がりを指さす。


そこは、通路の床が大きく陥没し、数段の歪んだ石段となって下へと向かっている場所だった。


石段の表面には、壁から溢れ出た黒い苔と濡れた泥がびっしりとこびりつき、ヌラヌラと鈍い光を放っている。そのすぐ脇には、錆びてボロボロになった鉄パイプの手すりが一本だけ伸びていたが、支柱の根元はとうに腐ち落ち、空中でおそろしく歪んでいた。


ノノは階段の縁に立ち、開かない傘の先で恐るおそる足元を突いた。


ヌルッ。


傘の金属先が苔の上を滑り、底の浅い濁水の中へ沈む。手応えは極めて不安定で、うっかり体重をかければ一瞬で転倒してしまうのが分かった。


「……ん……ふぅ……」


ノノは短い吐息を漏らし、ブカブカのカッパの袖口からかじかんだ小さな指先を少しだけ覗かせた。 左腕でスケッチブックを胸に強く押し当て、右手に持った折れた傘の柄を一段下の石段の端へしっかりと突き立てる。傘の骨組みがキシリと嫌な音を立てたが、ノノはそれを支柱にして、一歩、下へと足を降ろした。


バシャ……。


冷たい泥水が跳ね、カッパの黄色い裾を汚す。 一段下りるごとに、周囲の冷気が一段と増していくようだった。足元の濁水はいつの間にかノノのふくらはぎの半ばにまで達しており、重たく湿ったカッパの生地が足にまとわりついて歩行を邪魔する。


三段目、四段目……。



慎重に石段を下りていくノノの頭上で、突然、何かが「ピシッ」と弾ける甲高い音が響いた。


ノノは身体を硬直させ、首をすくめて天井を見上げた。


頭上を走る古びた鉛色の配管。その表面を覆う黒い塗装が、まるで乾燥したかさぶたのようにパリパリと剥がれ落ちてくる。そして、配管の継ぎ目に刻まれた亀裂から、一滴のドロリとした重い黒い液体が静かに滴り落ちた。


ポタリ。


その液体は、ノノの抱えている黄色い壊れた傘の布地に直撃した。


ジー……。


かすかな、けれど不吉な焦げるような音とともに、黒い液体が落ちた場所の生地がじわじわと黒く変色し、元から破れていた穴をさらにひと回り大きく広げていく。


「あやっ……!」


ノノは悲鳴にならない小さな声を上げ、慌てて傘を引き寄せてその穴を見つめた。 お母さんからもらった、大切な宝物の傘。


もう開くことはないけれど、これ以上壊れてしまうのはノノにとって耐えがたい悲しみだった。


ノノはカッパの袖でその黒い液体を必死に拭おうとしたが、煤けた油のような汚れは広がるばかりで、落ちる気配はない。


「大丈夫だよノノ、焦らないで。その配管の真下を離れれば大丈夫だから」


トトが心配そうに階段の下からノノを見上げている。


ノノは泣きだしそうな大きな目を潤ませながら、コクリと頷き、壊れた傘を大事そうに胸元へと引き寄せた。


そして、これ以上天井からの不気味な雫を受けないよう、少し背を丸めながら残りの石段を駆け下りた。


バシャ、バシャ、バシャ!


水音を立てて階段を下り切った先は、それまでの狭い通路とは少し異なる、丸いドーム状の小さな部屋になっていた。


部屋の壁には、かつてメーターやレバーが設置されていたと思われる腐食した制御盤が壁一面に埋め込まれており、途切れた無数の銅線がまるで干からびた植物の根のように床へ向かって垂れ下がっている。


そして、部屋の中央。


そこには、直経一メートルほどの円形の「鉄の蓋(マンホール)」が、水底にずっしりと沈んでいた。


蓋の表面には複雑な幾何学模様が刻まれており、中央には、ノノの掌ほどの大きさがある古い南京錠が固く取り付けられている。


「……あう……?」


ノノは立ち止まり、その鉄の蓋を水越しにじっと見つめた。


このドーム状の部屋には、他に出口らしき扉や通路は見当たらない。


行き止まりのようにも思えたが、水底に沈むその重厚な鉄の蓋からは、かすかに「ゴゴゴ……」という地下深くの低い振動が、水面を通じてノノの足先へと伝わってきていた。


「ノノ……この蓋の向こうから、風の音が聞こえない?」


トトが水面に膝をつくような体勢で屈み込み、鉄の蓋へと耳をすませる。


ノノもトトに倣うようにして、開かない傘の先端を蓋のフチへと押し当てた。


金属と金属が触れ合う冷たい感触とともに、傘の柄を通じて、遠い遠い場所から響いてくるような、水が渦を巻く重い音と、かすかな風の悲鳴が伝わってくる。


それは、この地下のさらに奥深くへと続く、新たな道が存在することを示していた。


ノノはそっと自分のポケットに手を伸ばした。


カッパの大きなポケットの中で、先ほど手に入れたあの重く錆びついた鉄の鍵が、冷たい手触りでノノの指先を待っていた。


ノノはその鍵を取り出すべきか、それともこの怪しい蓋を開けるべきなのか迷うように、カッパのフードの奥からトトの顔を見上げた。


トトは静かに首を傾げ、ノノの判断を待つように優しく微笑んでいる。


ドーム状の部屋の沈黙の中で、どこか遠くから、再びあの不快な「シャキ……シャキ……」という裁ち鋏の刃同士が擦れ合う音が、かすかな残響となって壁を伝い始めていた――


——シャキ……。


——シャキ……シャキ……。


その冷ややかに研ぎ澄まされた刃の擦れ合う音は、まだはるか遠く、先ほど通り過ぎたレンガの狭い回廊の闇の奥から響いてきているようだった。


だが、音の伝わり方は恐ろしいほど鮮明だった。狭く入り組んだ石造りの空間が音を何倍にも増幅させ、壁を伝い、水面を震わせ、ノノの足首へとじわじわと嫌な振動を送り届けてくる。


「ノノ、長足女だ……! 僕たちの音を聞きつけて、あの狭い通路まで入ってきたんだよ!」


トトの声に焦燥の色が混じる。


ノノは息を呑み、カッパのフードの奥で大きな目を極限まで見開いた。


恐怖で小さな身体がすくみ上がり、膝がガクガクと震え出す。


抱え込んだスケッチブックを握りしめる手には嫌な冷や汗が滲み、短くなったクレヨンの束がカチカチと小さな音を立てて接触した。


「慌てちゃダメだ、ノノ! ポケットの鍵を使って! あの蓋を開けて下へ逃げ込むんだ!」


「……あ……うぅ……っ!」


ノノは引き攣った吐息を漏らしながら、濡れた手でダッフルカッパの大きなポケットへと手を突っ込んだ。


指先が触れたのは、ずっしりと重く、氷のように冷ややかな鉄の鍵だった。


表面を覆う赤錆と泥のざらついた感触が、焦る指先にまとわりつく。


ノノはそれを落とさないよう固く握りしめると、ポケットから引っぱり出した。


泥水の中に沈む円形のマンホール。


その中央に取り付けられた大きな南京錠は、長年の湿気で赤黒く錆びつき、まるで固く結ばれた結び目のように重苦しく鎮座している。


ノノは床の濁水の中にドサリと膝をついた。


膝頭がひやりとした冷水に浸かり、カッパの裾が重たく水中へ広がるのも構わず、両手で鍵を抱えるようにして南京錠の鍵穴へと近づける。



——シャキ……シャキ……シャキ!


裁ち鋏の音が一歩ごとに大きくなっていく。


あの無数の長い脚が、先ほどノノたちが下りてきた滑りやすい石段の苔を「ガガガ……」と爪先で削り取りながら、確実にこのドーム状の小部屋へ向かって下りてきているのだ。


「ん……っ! あーっ!」


ノノは震える手で、鍵の先端を鍵穴へ押し込もうとした。


だが、手元が狂い、鍵の先端が南京錠の冷たい金属面に「カツン、カツン」と虚しく弾かれてしまう。


水底の濁りで鍵穴の位置がよく見えないのだ。


「大丈夫、落ち着いてノノ! 鍵穴は錠前の真下、少し右寄りにあるよ!」


トトが水面に顔を近づけ、必死に指で示す。


ノノは一度深く息を吐き出すと、小さな左手で南京錠の本体をぐっと固定し、右手で握った鍵の突起を鍵穴の隙間へと慎重に滑り込ませた。


ジャリ……。


鈍い感触とともに、鍵が半ばまで入る。 しかし、内部に詰まった砂と錆のせいで、そこから先へ進まない。

「う、うーっ……!」


ノノは両手に全体重をかけ、鍵の頭を力任せに押し込んだ。 幼い身体から絞り出すような声が漏れる。


手のひらに硬い鉄の角が食い込み、ジリジリとした痛みが走る。


ガチリ。


深い手応えとともに、鍵が奥まで嵌まり込んだ。 ノノは間髪を容れず、小さな腕全体を雑巾を絞るようにして横へと捻り回した。


ギギギ……ギチリ!


長年固着していた金属の歯車が、悲鳴のような乾いた音を立てて回転する。


次の瞬間、ずっしりと重い南京錠のツルが「カチオン!」と音を立てて弾け飛んだ。


「外れた! ノノ、鍵を引き抜いてフタを持ち上げるんだ!」


ノノは弾かれた南京錠を泥水の中から拾い上げ、脇へ放り投げると、円形の鉄の蓋にある取っ手の手すり部分へと小さな指を引っかけた。


だが、何十キロもあるであろう分厚い鉄板の蓋は、幼いノノの腕力ではミリ単位すら持ち上がらない。


「んっ……! ふぅ……っ! んーっ!」


ノノの顔が真っ赤に染まる。カッパのフードが脱げかけ、額にはびっしょりと冷や汗が浮かんでいた。


必死に引っ張るが、蓋は固く閉ざされたままだ。


その時——


——シャキィン!


凄まじい金属の切断音が、ドーム状の小部屋の入口全体に炸裂した。


ノノたちが下りてきた石段の暗がりから、ついに『裁ち鋏の長足女』がその歪んだ全身を現したのだ。


天井の低いドーム空間に合わさるよう、無数の節立った足先を不気味に折り曲げ、顔のない頭部——巨大な錆びた裁ち鋏の刃を「シャキン! シャキン!」と狂ったように噛み合わせながら、水面を這うように滑り込んでくる。


長足女の鋭利な足先が床の濁水を激しく跳ね上げ、ドロドロとした黒い水滴がノノの黄色いカッパへ雨のように降り注いだ。


「あやーっ!!!!」


ノノは絶叫に近い声を上げると、脇に転がしていた『開かない黄色い傘』の柄を咄嗟に拾い上げた。


そして、壊れて折れ曲がった傘の金属の先端を、マンホールの蓋と床のわずかな隙間へと力任せに突き刺した!


ガチッ!


傘の金属先が隙間に噛み合う。


ノノはその傘の柄に小さな身体ごと飛び乗り、テコの原理で下へと強烈に体重をかけた!


ギギギギギ……ボコッ!


重い鉄の蓋が、長年の泥を押し破ってついに数センチだけ持ち上がった。


隙間から、地下奥深くの猛烈な湿気と冷たい風が「ヒューッ!」と音を立てて吹き出し、ノノのカッパの裾を激しく捲り上げる。



「ノノ! 傘をそのまま押し込んで! 隙間を広げるんだ!」


長足女の巨大な裁ち鋏が、ノノの頭上すれすれの空気を切り裂く。


刃が風を切る「ヒュッ!」という不快な重低音がノノの鼓膜を揺らし、カッパのフードの布地が数ミリだけ切り裂かれてハラハラと舞い散った。


ノノは死に物狂いで傘の柄を押し下げ続けた。


ズズズ……ガコン!


ついに鉄の蓋が完全に横へ滑り落ち、水底に真っ暗な円形の縦穴がぽっかりと口を開けた。


縦穴の奥からは、轟々と響く激しい水の流れる音と、どこか遠い場所からの微かな風の唸りが吹き上がってくる。


「ノノ、飛び込んで! 下は水だよ!」


トトが叫ぶと同時に、長足女の無数の脚が一斉にノノの背中へと向かって突き立てられた。


ノノは開かない傘とスケッチブックを胸の前に強く抱きかかえると、目をぎゅっと固く閉じ、黒い縦穴の暗闇の中へとその小さな身体を躍らせた——


激しい浮遊感が、ノノの小さな身体を容赦なく包み込んだ。


――ヒュウッ!


縦穴の狭い闇を切り裂いて、冷たい風がブカブカのダッフルカッパを狂ったように羽ばたかせる。


ノノはカッパのフードが風で剥ぎ取られそうになるのを、かじかんだ指先で必死にしがみつきながら、胸元に抱えた二つの宝物――小さなスケッチブックと折れた黄色い傘を、折れそうなほど強く抱きしめた。


頭上遥か高所で、長足女の裁ち鋏が空を切る「シャキィン!」という虚しい金属音が、縦穴の管内に高く木霊する。


だが、その恐ろしい刃も、重力に引かれて落下していくノノの幼い身体にはもう届かない。


暗黒の落下の時間は、ほんの数秒のことだった。


バシャアアンっ!!!!


激しい衝撃とともに、ノノの全身が冷酷なまでに冷たい水の中へと叩きつけられた。


水飛沫が爆発するように舞い上がり、濁った冷水がノノの耳、鼻、そして口の中へと容赦なく飛び込んでくる。


「っ……!? ぶはっ……! う……あぐっ……!」


ノノは激しく咽びながら、必死で小さな手足をバタつかせた。


水気を吸って何十倍もの重さになったダッフルカッパが、まるで鉛の重りのようにノノの身体を水中へと引きずり込もうとする。


ノノの小さなレインブーツの中にまで一瞬で冷水が満ち、脚が冷たさで麻痺しそうになっていた。


「ノノ! 手を伸ばして! こっちだよ!」


混濁する水面の上から、トトの叫び声が聞こえた。


ノノは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を水面へと突き出し、水を吐き出しながら必死に腕を振った。


折れた黄色い傘の先端が、奇跡的にノノの手から離れず、ぎゅっと握りしめられている。ノノはその傘を必死に水底へと突き立てようとしたが、手応えがない。


ここは地下のさらに深くに位置する、巨大な『底なしの地下水路』の真っ只中だった。


激しい水流が、ノノの小さな身体を横合いから押し流していく。


ドロドロとした黒い水は、強い渦を巻きながら、どこか遠い暗闇の奥へと向かって急速に流れていた。


「あーっ! あーっ!」


ノノは流されながら、水面に浮かぶ小さな木の瓦礫へと必死でしがみついた。


それは、どこかの天井から崩れ落ちてきたと思われる、古びた厚い木板の欠片だった。


ノノは胸元に抱えたスケッチブックが水に濡れないよう、必死で木板の上に持ち上げながら、濁流に身をまかせた。


水路の両側には、黒くぬらぬらと濡れた石積みの壁がそびえ立っていた。


壁のあちこちには、昔の巨大な水門の枠組みや、錆びて途切れた鉄の鎖が不気味な影を落としている。


水面を照らす明かりは一切なく、ただ水路の天井のところどころに空いた亀裂から、青白い不気味な燐光のような光が、ゆらゆらと水面を揺らすだけだった。


「ノノ、大丈夫!? 怪我はない!?」


トトが、水路の壁際に沿って伸びる細い石の縁(フチ)の上を、ノノの流される速度に合わせて並走していた。


トトの足元は、相変わらず水飛沫ひとつ跳ね上げていない。


けれど、その顔はノノを心配するあまり、今にも泣き出しそうに固く歪んでいた。


「うぅ……あぅ……っ……」


ノノは木板にしがみついたまま、寒さと恐怖で歯をガチガチと鳴らした。


カッパを通して染み込んできた氷のような水が、幼い皮膚をじりじりと刺す。指先はとうに感覚を失い、スケッチブックの固い表紙を掴む力さえ弱まりつつあった。


この巨大な水路は、どこへ続いているのだろう。 水流は勢いを増し、暗い曲がり角を何度も何度も曲がっていく。


そのたびに、水面から突き出た鋭い岩や錆びた鉄パイプがノノのすぐ脇をかすめ、カッパの生地を「ズズズ……」と嫌な音を立てて擦っていった。


その時だった。


流されるノノの視線の先――水路の遥か奥から。


ゴオオオオオオオ……。


重く、低い、大地そのものが鳴動するような不気味な重低音が響いてきた。


ノノはカッパのフードの下で大きな目を凝らし、暗闇の先を見つめた。


そこには、水路の幅全体を塞ぐようにして横たわる、巨大な『鉄製の水門』が立ちはだかっていた。


水門の下部は数センチだけ開いており、そこから大量の濁水が凄まじい水圧とともに「ドドドドド!」と音を立てて噴き出している。


このまま流されれば、ノノの小さな身体はあの巨大な鉄の水門のすき間へと吸い込まれ、一瞬で圧殺されてしまうか、深海のような絶望的な水底へと引きずり込まれてしまうだろう。


「ノノ! 水門の手前で壁に捕まるんだ! あそこに錆びた鎖が垂れ下がってる!」


トトが水門の手前を激しく指さす。


ノノは迫り来る死の恐怖に、かじかんだ腕に最後の力を込めた。


しがみついていた木板を押し蹴り、濁流の中を必死で泳ぐようにして壁際へと身体を寄せようとする。


バシャバシャバシャ!


冷たい水がノノの顔を何度も覆い隠す。


ノノは左手でスケッチブックを首元へ抱え込み、右手で持った『折れた黄色い傘』の曲がった柄を、壁から垂れ下がる壁のチェーンに向かって全力で突き出した!


ガチリッ!


壊れた傘のカーブした持ち手が、ずっしりと太い錆びた鉄鎖の輪っかへ奇跡的に引っかかった。


ガコンッ!


猛烈な水圧がノノの小さな身体を襲う。 傘の柄を通じて、腕が引きちぎられそうなほどの凄まじい衝撃がノノの肩に走った。


「んーっ!!!!」


ノノは声にならない悲鳴を上げながら、両手で壊れた傘の柄を死に物狂いで握りしめた。


傘の金属骨がミシミシと不快な悲鳴を上げ、いまにも途中で折れてしまいそうだ。けれど、ノノは絶対に手を離さなかった。


濁流の中で振り回されながら、ノノの足先が壁の小さな石の窪みに触れた。


ノノは冷たさで固まった脚を必死に動かし、爪先をその窪みへとねじ込む。


ズズ……ギギギ。


なんとか身体が固定され、水流に呑み込まれるのだけは免れた。


ノノは鎖にしがみついたまま、壁にへばりついて荒い呼吸を繰り返した。


「はぁ……っ! はぁ……っ! うぅ……あぐっ……」


カッパからボタボタと汚水が滴り落ち、水面へと波紋を描く。


すぐ目と鼻の先では、巨大な水門のすき間へ濁流が怒涛の勢いで吸い込まれており、その轟音が耳を破らんばかりに響いていた。


「助かった……! よかった、ノノ……!」


トトが壁の縁の上から屈み込み、ノノに向かって必死に手を伸ばしている。


だが、安堵したのも束の間だった。


ノノがしがみついている壁のすぐ上――古びた水門の操作盤が設置されている暗がりから。


ズリ……ズリ……。


濡れた重い布が石畳を擦る、あの吐き気のするような不快な音が、一つ、二つ……いや、幾つも重なり合って近づいてきていた。


ノノが恐る恐る頭上を見上げると、水門の巨大な歯車の影から、全身に湿った灰色の布を纏った『水底の給仕』たちが、ヌルリと不気味な上半身を乗り出してノノを見下ろしていた。


一匹や二匹ではない。


5匹、6匹……無数の顔もない灰色の頭部が、ノノを囲むようにして水門の上から濡れた長い手を伸ばしてくる。


その指先はかぎ爪のように曲がり、水面にぶら下がっているノノのカッパの黄色いフードへと、じわじわと迫りつつあった――


——ズリ……ズリ……。


頭上の暗がりから降りてくる濡れた布の擦れ音は、水門が立てる怒濤の濁流音をさえ圧して、ノノの鼓膜を粘りつくように苛んだ。


水門の歯車枠から、灰色の影が滑り落ちるように身を乗り出してくる。


全身を重たく縛りあげている灰色の布からは、ドロドロとした黒い濁水が「ポタ……ポタ……」と垂れ落ち、ノノのカッパのフードや肩口へ容赦なく命中した。


そのたびに、カビとドブの混じり合った耐えがたい生臭さが鼻腔を突き刺す。


「ノノ! 上がって! そこから離れるんだ!」


トトの悲痛な叫び声が、暗い水路の壁に虚しく反響した。


ノノは涙目になりながら、鎖に引っかけた壊れた傘の柄をさらに強く握りしめた。


だが、かじかみきった小さな両手には、もう自分の体重を引き上げるだけの力は残っていない。


濡れて鉛のように重くなったダッフルカッパの裾が、下からの猛烈な引き潮に引っ張られ、幼い身体を容赦なく水中へ引きずり戻そうとしていた。


——ヌルリ。


怪物のうちの一匹が、関節の存在しない長い腕を鞭のようにしならせ、水面すれすれまで伸ばしてきた。


かぎ爪のように歪んだ湿った指先が、ノノの黄色いカッパの襟元を「サクッ」とかすめる。


「ひやっ……! あーっ!」


ノノは首をすくめ、短く悲痛な声を上げた。 冷たくぬめりけのある不快な感触が、薄いカッパの生地越しに皮膚へ伝わり、全身の毛穴が一斉に粟立つ。


怪物の指先が、ノノの胸元に大事そうに抱えられているスケッチブックの四隅へと引っかけられた。


ビリッ! 湿って波打っていた表紙の端が小さく破れ、紙くずが濁流の中へと呑み込まれていく。


「あう……! あーっ! うーっ!」


ノノの目が、怒りと恐怖で大きく見開かれた。


言葉にならない悲鳴を上げながら、ノノは足元の石段の窪みに必死で爪先を食い込ませ、一瞬だけ身体を浮かせた。


そして、左腕でスケッチブックを首元へと固く押し抱き直すと、右手に持った折れた黄色い傘の先端を、頭上から迫る怪物の顔(布の塊)へ向かって夢中で突き突き突き上げた!


ガツン! ガツッ!


傘の頑丈な金属の先端が、怪物の濡れた布の隙間へと深く突き刺さる。 雑巾を強く絞るような「ギチチ……」という気味の悪い手応えが手のひらに伝わり、怪物は不快そうに長い腕を泳がせ、一瞬だけ体勢を崩した。


「今だよノノ! 水門の脇にある小さな梯子(はしご)へ横飛びするんだ!」


トトが指さしたのは、ノノがしがみついている鎖からわずかに右手へ離れた壁面だった。


そこには、壁に直接打ち込まれた錆びだらけの鉄製のステップ(タラップ)が、垂直に上へと向かって伸びていた。


距離は、ノノの小さな体で言えば、思い切って手を伸ばして飛び移らなければ届かない位置だった。


下を見下ろせば、轟音を立てて渦を巻く絶望的な濁流。


もし手を滑らせれば、一瞬で鉄の水門の隙間へと呑み込まれ、二度と浮かび上がってくることはできない。


ノノは唇を強く噛み締めた。


カッパのフードの中で、涙に濡れた大きな瞳が覚悟を決めたようにぎゅっと狭まる。


「ん……っ! あぁーっ!!!!」


ノノは鎖にかけていた傘の柄を力任せに引き抜くと、石段の窪みを強く蹴り、冷たい空間へと身を躍らせた!


バシャアン!


ノノの黄色い身体が空中を舞う。


伸ばした小さな右指が、錆でザラザラになった鉄のステップのフチへと、奇跡的にひっかかった!


ガツン!


強烈な衝撃がノノの幼い肘と肩を襲い、身体が壁に叩きつけられる。


カッパの膝の部分が湿った石壁に激しく擦れ、鋭い痛みが走ったが、ノノは歯を食いしばって絶叫を呑み込んだ。


両手で固く鉄のステップを掴み取る。


手に持っていた折れた黄色い傘も、腕と胸の間に挟み込むようにして奇跡的に落とさずに持ち堪えていた。


「すごいよノノ! 登って! 早く!」


トトの声に促され、ノノは小さな足を下のステップへと引っ掛け、一段、また一段と必死で這い登り始めた。


下からは、追いつけなかった水底の給仕たちが、無数の濡れた灰色の腕を空に向かって突き出し、ペタペタと虚しく壁を叩く音が響いている。


一段、二段、三段……。


ノノは呼吸を激しく乱しながら、足元の濁流から距離をとっていった。


カッパからボタボタと滴る水滴が、下の怪物たちの顔の上へと落ちていく。


梯子を登り切った先は、巨大な水門の上部に備え付けられた、狭いキャットウォーク(作業用通路)だった。


床は網目状の鉄板(グレーチング)になっており、下を流れる黒い濁流が網目の隙間から不気味に透けて見えている。


ノノはキャットウォークの上へ這い上がると、そのままがっくりと両膝をつき、胸を激しく上下させた。


「はぁ……はぁ……っ! うぅ……あぅ……」


かじかんだ指先がガタガタと震え、カッパのフードから垂れ落ちる冷や汗が目に入って痛む。


ノノはカッパの袖で雑に顔を擦ると、胸の中に抱えていたスケッチブックを真っ先に確かめた。


表紙の四隅がわずかに破れ、水滴で濡れていたが、中のページは奇跡的に無事だった。


ノノはホッと小さく胸を撫でおろす。


「よく頑張ったね、ノノ。怪我はない?」


トトがキャットウォークの奥から駆け寄り、ノノの前にかがみ込んだ。 トトの笑顔を見ると、ノノの目から溜まっていた涙がぽろぽろと溢れ出し、ノノはカッパの袖で何度も目を押さえた。


「泣かないで、ノノ。ほら、前を見てごらん。ここから先は、もう水の中を歩かなくてもよさそうだよ」

トトの言葉に、ノノは濡れた目を上げて前方の暗闇を見つめた。


水門のキャットウォークの先には、重厚な石造りのアーチが開いていた。


そこから伸びているのは、水に沈んでいない、乾燥した赤黒い絨毯が敷かれた緩やかな上り坂の廊下だった。


地下の冷たく湿ったカビ臭さに混じって、その廊下の奥からは—— どこか甘く、そして不気味な、古い「お香」のような匂いが静かに漂ってきていた。


ノノは壊れた黄色い傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と引きずりながら、ゆっくりと立ち上がった。


膝の痛みをこらえ、トトの後を追って、ついに水路を脱出し、石造りのアーチへと足を踏み入れていく。


アーチの向こう側へ一歩足を踏み入れた瞬間、ノノの靴底を包んだのは、ずっと全身を苛み続けていた冷たい濁水の感触ではなく、湿気を吸ってしっとりと重たくなった絨毯の柔らかさだった。


「……あぅ……」


ノノは思わず足を止め、おずおずとつま先で床を踏みしめてみた。


沈み込むような、けれど水を弾く毛足の感触。


カッパの裾から滴り落ちる黒い泥水が、赤黒い絨毯の生地にしみ込み、じわじわと暗い斑点を作っていく。

長かった水路の濁流と、冷酷な氷の底のような暗闇。


それらが背後へ遠のき、周囲を覆ったのは、どこか古びた洋館の奥深くに迷い込んだかのような、重苦しくも静謐な空気だった。


「ノノ、水はもうここまでみたいだね。よかった……」


トトが振り返り、ほっと胸を撫で下ろすように微笑んだ。


トトの履いている靴の底は、先ほどまでの激しい水流や泥の恐怖を一切経験していないかのように綺麗で、絨毯の上を踏む音すら立てていない。


ノノはブカブカのカッパのフードを少し持ち上げ、暗がりの中をじっと見渡した。


廊下は緩やかな上り坂になっており、両側の壁には擦り切れた金箔のフレームに収められた大きな肖像画が、等間隔で並んでいた。 だが、描かれている人物たちの顔はどれも狂っていた。


顔の部分だけが鋭い刃物でズタズタに切り裂かれているか、あるいは黒い油絵の具で塗り潰され、原形を留めていない。


切り裂かれたキャンバスの隙間から、壁の冷たい石組みが不気味な口のように覗いている。


そして、空間全体に漂うのは、先ほど感じたあの甘く酸っぱい、腐敗した花とお香が混ざり合ったような匂いだった。


ノノは鼻をすくめ、胸元に抱えたスケッチブックをもう一度きゅっと抱き直し、右手に持った折れた黄色い傘を杖のように床へと突いた。


――ガラガラ……ズズ……。


湿った絨毯の上では、傘の金属部分が立てる音も低く鈍く濁り、廊下の奥へと不気味に吸い込まれていく。


「寒くない、ノノ? カッパ、重たそうだけど大丈夫?」


トトが心配そうに覗き込んでくる。


ノノは小さくコクリと首を横に振った。


本当は、水気を吸ったダッフルカッパは鉛のように重く、幼い肩に限界の重圧をかけていたし、レインブーツの中の足首は冷たさで感覚を失いかけていた。


けれど、立ち止まることの方がずっと怖かった。


一歩、また一歩。


ノノはトトの少し後ろを、壊れた傘の先で前方の絨毯を「トントン」と突きながら進んでいった。


絨毯の下の床板はところどころが腐って歪んでおり、ノノが体重をかけるたびに「ミシ……ミシ……」と低い不協和音を奏でる。


坂を登るにつれて、壁に掛かった肖像画の数が多くなっていった。


切り裂かれた絵画のフレームの陰から、時折「カサリ……」と衣擦れのような音が聞こえる気がして、ノノは背筋を氷でなでられたような悪寒に襲われる。


「あぅ……ぅ……」


ノノはトトのカッパの裾(トトは普通の服を着ているが、その幻影の影)へとすがるように距離を詰めた。


その時だった。


前方を歩いていたトトが、ピタリと足を止めた。


「……ノノ、気をつけて。何か……前にあるよ」


トトの低い声に、ノノも即座に足を硬直させた。


開かない黄色い傘を胸の前で固く構え、フードの奥から薄暗い坂道の先を凝視する。


廊下の緩やかなカーブの先。


赤黒い絨毯が途切れ、一段高くなった踊り場のような場所に、ポツンと一つの『大きな姿見(全身鏡)』が佇んでいた。


鏡のフレームは、複雑に絡み合う百合の花の彫刻で飾られていたが、その金属は黒く錆びつき、枯れた花びらのように無惨に崩れかけている。


そして、鏡の表面は分厚い埃と、内側から滲み出たような黒い滴で濁っており、周囲の暗がりを歪に跳ね返していた。


ノノはゴクリと唾を呑み込んだ。


鏡という存在そのものが、なぜかノノの胸の奥を激しくざわつかせる。


「避けて通る……? でも、道はあそこしかないみたいだ」


トトが振り返り、静かにノノの顔を見つめる。


ノノは呼吸を整え、折れた傘を固く握り直すと、鏡の佇む踊り場に向かって、慎重に一歩を踏み出した。


――ガラガラ、ズズ……。


湿気を吸い込んで重く沈んだ赤黒い絨毯の上で、ノノの引きずる壊れた黄色い傘の先端が、くぐもった重い音を立てる。


一歩進むごとに、廊下の奥に佇む大きな姿見――『全身鏡』の圧迫感が、じわりじわりとノノの小さな身体へ伸しかかってきた。


フレームを飾る彫刻の百合の花々は、金属が腐食して黒く変色し、まるで無数の指が狂ったように蠢いて鏡の縁を掴んでいるかのようだった。


ガラスの表面は分厚い埃と、どこからか滲み出た油のような黒い滴によってまだらに汚れており、歪んだ光の反射が暗闇の中で不気味に揺らめいている。


「ノノ、僕のすぐ後ろについてきて。ゆっくりね」


トトが声を潜め、ノノを守るようにして斜め前方へ踏み出していった。


トトの歩調には迷いがなく、その足音は相変わらず絨毯に一切の音を残さない。


「……ん……っ」


ノノはカッパの大きなフードをかぶり直すと、胸元のスケッチブックを押し抱く手に力を込めた。


かじかんだ指先が、波打つ紙の四隅をギシギシと握り潰す。


レインブーツの中で冷たく麻痺した爪先をなんとか動かし、ノノはトトの影を追いかけて踊り場への石段を一歩ずつ踏みしめて登っていった。



踊り場にたどり着いたノノの目の前に、姿見がそびえ立つ。


ノノの身長の倍以上はある巨大な鏡。


その前を通り過ぎなければ、廊下の先へと続く扉には辿り着けない。


ノノはおずおずと、鏡の表面から視線を逸らしながら、横を通り抜けようとした。


だが——


ぴちゃり。


鏡の表面から、一滴の黒い粘液が床の絨毯へと落ちた。


その小さな音に、ノノは思わず反応し、カッパのフードの奥から鏡の中を覗き込んでしまった。


濁ったガラスの向こう側に映し出されていたのは、薄暗い廊下の風景だった。


ダッフルカッパを着て、壊れた黄色い傘を杖のように突き、スケッチブックを抱きかかえて震えている小さな女の子——ノノ自身の姿。


けれど——何かが決定的に異なっていた。


鏡の中に映るノノの表情。


カッパのフードの陰に隠れているはずのノノの顔が、鏡の中ではハッキリと見えていたのだ。 そこに浮かんでいたのは、恐怖に怯える幼い顔ではなかった。


鏡の中のノノは、両目を真っ黒な黒油で塗り潰されたようなうつろな穴にし、唇を不自然なほど左右に吊り上げて、狂気じみた笑みを浮かべていた。


「あ……ぅ……!?」


ノノは短く息を呑み、血の気が引くのを感じて後ずさった。


さらに、恐ろしい異変はそれだけにとどまらなかった。


ノノのすぐ隣に立っているはずのトトの姿が——鏡のどこにも映っていないのだ。


ノノのすぐ横で心配そうにノノを見つめているトト。


だが、鏡の中の空間には、ただポツンと一人だけで立つノノの姿があるだけだった。


しかも、鏡の中のノノは、空っぽの左手を不思議な形で固め、まるで『存在しない誰かの手』を必死に握りしめているかのような、悲しい格好をしていた。


「ノノ……? どうしたの? 鏡を見ちゃダメだ!」


トトの声がすぐ横から聞こえる。


だが、ノノは恐怖で金縛りに遭ったように動きを止めたまま、鏡の中の自分から目を逸らすことができなかった。


鏡の中の黒い目をしたノノが、ゆっくりと右手を持ち上げた。


その手には、ノノが持っているのと同じ『折れた黄色い傘』が握られている。


だが、鏡の中の少女は、その傘を杖として突くのではなく、鋭い刃物のように突き立て、鏡のこちら側にいるノノの胸元へ向かって、静かに突き出してきたのだ!


ミシ……ミシシシ……!


姿見のガラス表面に、蜘蛛の巣状のひび割れが一気に走り出した。


ひび割れの隙間から、黒い泥水と、酸っぱい腐敗臭が吹き出し、ノノの靴元へ流れてくる。


鏡の中の影が、ガラスを叩き割り、いまにもこちら側の世界へ飛び出してこようとしていた。


「ノノ、走って! そこを離れて!」


トトが叫び、ノノの背中を力いっぱい押すような仕草をした。


「あやーっ!!!!」


ノノは声にならない悲鳴を上げると、壊れた傘の先端で絨毯を強く蹴り、姿見の脇をすり抜けて廊下の奥へとがむしゃらに走り出した!


バシャバシャバシャ!


背後で、パリィン! と巨大なガラスが粉々に砕け散る絶望的な音が響き渡る。


散らばった鏡の破片が跳ね、カッパの黄色い生地に「カツン、カツン」と当たって落ちていく。


ノノは後ろを振り返ることなく、暗い坂道をひたすら駆け登った。


呼吸が苦しく、冷たい空気が肺を焼き、膝が笑って何度も転びそうになる。


けれど、抱きしめたスケッチブックと折れた傘だけは、指がちぎれそうなほど強く握り締め続けていた。


廊下の突き当たりに、重厚な彫刻が施された巨大な木製の二重扉が見えてきた。


扉はわずかに数センチだけ隙間を開けており、その隙間から、先ほどよりも一層強い、甘く不気味な「お香」の匂いが溢れ出している。


ノノは扉に体ごとぶつかっていった!


ドサッ!


小さな身体で扉を押し開き、ノノはその向こう側の部屋へと転がり込んだ。


扉が背後で「バタン!」と重い音を立てて閉まり、静寂が訪れる。


ノノは冷たい床の上に突っ伏したまま、「はぁ……はぁ……っ!」と激しく肩を揺らして息を整えた。


汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭い、恐る恐る周囲を見回す。


そこは、これまでの腐った地下水路や暗い廊下とは一線を画す、広大な『儀式の間』あるいは『礼拝堂』のような場所だった。


天井は高く吹き抜けており、壁には無数の太いろうそくが立てられている。


だが、灯されている火は普通の大橙色ではなく、青白く揺らめく不気味な鬼火のような光だった。


部屋の床一面には、乾燥した大量の「枯れた百合の花」が敷き詰められており、ノノが動くたびに「カサ……カサ……」と虚しい砕け散る音が響く。


そして、部屋の最奥——


数段の石段の上に設置された巨大な祭壇。


その祭壇の上に、ぽつんと置かれていたのは、鮮やかな赤色をした、一着の大人用の『赤いドレス』だった。


ドレスには誰も着用していない。


まるで透明な人間がそこに立っているかのように、ふんわりと空気を含んで優雅に佇んでいる。


ノノの呼吸が止まった。


カッパのフードの奥で、大きな瞳がパッと大きく見開かれる。


「……あ……っ……! ママ……の……?」


ノノの幼い唇から、つたない、掠れた声が漏れ出た。


ずっと探し求めていた、お母さんの赤いドレス。 ノノの胸の中に、記憶の彼方に沈んでいたあたたかな光が、一瞬で溢れ出していく。


ノノは膝の痛みも忘れ、折れた黄色い傘を握り直すと、枯れた百合の花絨毯を踏みしめて、吸い寄せられるように祭壇へと一歩を踏み出した。


だが、その赤いドレスの足元、枯れた花々の隙間から。


ズリ……ズリ……。


黒く濡れた無数の『太い髪の毛の束』が、生き物のようにドロドロと這い出し、祭壇全体を包み込もうと蠢き始めていたのだった。


——ズリ……ズリズリ……。


枯れた百合の絨毯を押し分け、黒い毛髪の津波が蠢く音は、蛇が乾いた落ち葉の海を這い回る音によく似ていた。


だが、その一筋一筋は湿った黒油に浸されたようにねっとりと重たく、生臭い頭皮と酸っぱいカビの臭気を撒き散らしている。


祭壇の上に佇む、誰も着ていないはずの鮮やかな赤いドレス。


その裾から溢れ出した髪の毛の束は、まるで巨大な黒い蜘蛛の巣のように石段を覆い尽くし、一段、また一段と、ノノの立ち尽くす足元へ向かって滑り落ちてきた。


「ノノ! 近づいちゃダメだ! あれはママじゃない!」


トトの金切り声のような叫びが、静寂に包まれた礼拝堂の天井へ高く不気味に跳ね返る。


トトはノノの前へ飛び出すと、大きく手を広げてノノを庇うように立ち塞がった。


その背中は恐怖で小刻みに震えているようにも見えたが、その足元には、黒い髪の毛が一筋たりとも触れていなかった。


髪の毛の海は、まるでそこに誰も存在しないかのように、トトの脚をすり抜けてノノの足元へ一直線に押し寄せてくる。


「あ……あぅ……っ……!」


ノノの瞳に灯っていた歓喜の小さな灯火が、恐ろしいスピードで影に呑み込まれていく。


お母さんのドレス。


ノノがずっと、ずっと抱きしめたかった、あのあたたかな赤。 けれど、そのドレスの胸元には、人間の顔も、抱きしめてくれる手足も存在しない。


ただ、切り裂かれた首元から無限の黒髪が泥水のように噴き出し続けているだけだった。


カサリ、カサカサ。


黒髪の先端が、ノノのレインブーツの爪先に触れた。


濡れた毛髪は、まるで意志を持つ小さな虫たちの群れのように、ノノの足首へと「シュシュシュ……」と滑り上がり、黄色いカッパの裾へ絡みついてくる。


冷たい。


氷よりも冷たく、そしてズシリと重い泥の塊が足に巻きついたかのような圧迫感がノノを襲った。


「あやーっ!」


ノノは声にならない悲鳴を上げ、咄嗟に『折れた黄色い傘』の先端を足元の髪の毛の群れへと突き立てた!


ガツン!


硬い傘の石突が、髪の毛の束を床の石畳に押し潰す。


すると、突き刺された毛髪の束から「ジジュウ……」と嫌な湿気を含んだ音が上がり、黒い粘液が弾けてノノのカッパの裾へ飛び散った。


髪の毛は一瞬だけ怯み、弾かれたようにノノの足首から離れた。


だが、祭壇の階段からは、さらに巨大な黒髪の波が「ザザーッ!」と音を立てて雪崩のように押し寄せてくる。


「ノノ、右だよ! 壁のところに古い鉄の燭台がある! そこから上へ登れるかもしれない!」


トトが叫び、青白い鬼火の灯る壁際を指さした。


そこには、壁に打ち込まれた黒い鋳鉄製の巨大な燭台が、梯子のように上へ向かって幾重にも張り出していた。 ノノは一刻の猶予もないことを悟り、壊れた傘とスケッチブックを同時に左腕で抱え込むと、枯れた百合の絨毯を無我夢中で蹴って駆け出した。

バシャカサッ!


砕け散る乾いた花びらと、追ってくる黒髪の蠢く音が合わさり、不気味な追撃音が響き渡る。


ノノは足をもつれさせながらも、壁際へと到達すると、一番低い位置にある鉄の燭台へ小さな右手を伸ばして飛びついた。


ガチリ!


冷たく不骨な鉄の触感が、ノノの指先を痺れさせる。 ノノは「んっ……ふぅ……!」と必死に呼吸を乱しながら、小さな足を下の飾りの突起へと引っ掛け、必死に幼い身体を持ち上げた。


直後、ノノが直前まで立っていた壁際の床へ、黒髪の津波が「ドバシャアッ!」と激しく打ちつけられた。


間一髪でノノのレインブーツの底をかすめた髪の毛は、壁の石組みを締め上げるようにミシミシと音を立て、ノノの足を掴もうと空に向かって無数の毛先を蠢かせている。


一段、二段、三段……。


ノノは両腕の力だけで必死に燭台の装飾を登っていった。


折れた黄色い傘の先端が壁に当たるたび、「ガラガラ、カツン」と乾いた音が響き、ノノの胸の中のスケッチブックがずり落ちそうになる。


ノノはそのたびに顎でスケッチブックを押さえつけ、涙目になりながら上を目指した。


五段ほど登ったところで、燭台の先端——大きな鉄製の皿のような場所にたどり着いた。


そこには、青白い炎を揺らめかせる巨大なろうそくの燃え残り(ろうの塊)が、ドロドロに溶けた状態で溜まっていた。



ノノはそのろうの塊の脇へ小さな身体を滑り込ませると、壁に背中を押し当てて「はぁ……はぁ……っ」と肩を激しく上下させた。


下を見下ろすと、広大な礼拝堂の床全体が、いまや真っ黒な毛髪の海へと変貌していた。


枯れた百合の花々は完全に黒髪の下に呑み込まれ、その海の中心に、ぽつんとあの『赤いドレス』が、揺ら揺らと不気味に立ち泳ぎするように浮かんでいたのだった。


ドレスの胸元が、ゆっくりとノノのいる高所へと向けられる。


——ノ……ノ……。


風の音とも、濡れた布の擦れ音ともつかない、歪んだ囁き声が、礼拝堂の空間全体に低く重く木霊し始めた、——ノ……ノ……。


その声は、耳から入ってくるものではなかった。

湿った冷気とともに直接ノノの頭蓋の奥へとじわりじわりと染み込んでくるような、どこまでも低く、酷く歪んだ掠れ声だった。


ノノはびくりと肩を跳ね上げ、壁の燭台の小さな鉄皿の上で身体をさらに丸めた。


小さく縮こまったダッフルカッパの生地越しに、背後の冷たい石壁のざらざらとした手触りが、ノノの背骨を凍えさせていく。


ノノは顎で必死にスケッチブックを胸元へ押しつけながら、両手で折れた黄色い傘を死に物狂いで握りしめた。


「ノノ、聞いちゃダメだ! 耳を塞いで!」


トトの声が、すぐ横の壁の出っ張りから響く。 トトは鉄の細い飾りの上に軽々と立ち、ノノを庇うように立ち塞がっていた。


その瞳は恐怖と怒りに揺れていたが、やはりその影は青白い鬼火の光を吸い込むこともなく、ただうっすらと壁に透けているだけだった。


ノノは言われた通りに目をぎゅっと固く閉じ、カッパの大きなフードを両手で耳の上から強く押し当てた。


けれど、声は止まらない。


——ノ……ノ……。ここに……おいで……。


それは、記憶の底にある、あたたかくて大好きだったお母さんの子守唄の音調を真似ようとして、完全に失敗している狂気の残響だった。


まるで壊れたオルゴールが、錆びついた金属片を擦り合わせながら無理やりに音を絞り出しているかのような、悍ましい不協和音。


下を見下ろさずとも分かった。


真っ黒な毛髪の海の中央に浮かぶ『赤いドレス』が、少しずつ、少しずつ、水面を這うようにしてノノのたたずむ燭台の足元へと近づいてきている。


ズリ……ズリ……ズリ……。


濡れた無数の毛髪が、燭台の太い鋳鉄の脚へと絡みついていく。 みし、みしし……。


何十キロもの重さを増した黒髪の群れが一斉に引っぱり上げる力に耐かねて、ノノの身体を支えている巨大な燭台全体が、不気味な軋み声を上げて数ミリだけ斜めに傾いた。


「あぅ……っ! あーっ!」


ノノは平衡感覚を失いかけ、悲鳴を上げながら開かない傘の先を壁の石組みの隙間へ深く突き立てた。


カツン! 金属の先が脆くなったセメントを削り、かろうじて落下の恐怖を踏みとどまらせる。


「ノノ! 燭台が倒れる! 上を見て! 天井の梁(はり)へ飛び移るんだ!」


トトが天井を指さした。


ノノがカッパのフードを持ち上げて見上げると、頭上数メートルの位置に、この礼拝堂を支える太い木製の梁が、巨大な肋骨のように幾本も渡されているのが見えた。


その木梁の表面は、長年の湿気で真っ黒に腐りかけていたが、人が一人這い進むには十分な太さがあった。


だが、ここからそこへ辿り着くには、傾きつつある燭台の最上部まで登りつめ、そこから思い切って上へと飛びつかなければならない。


ズズズ……ガコン!


下から締め上げる黒髪の重量に耐えきれず、燭台の根元の鉄ネジが一本、不吉な音を立てて弾け飛んだ。


燭台全体がグラリと大きく傾き、溶けたろうの塊がドロリとノノのレインブーツの脇を通って黒髪の海へと落ちていく。


「ん……っ! ふぅ……っ!」


ノノは涙で目を濡らしながら、もう猶予がないことを悟った。


かじかんだ幼い両手で、傾く鉄皿のフチを力任せに掴む。


左腕には破れかけたスケッチブックと折れた傘を固く抱え込んだままだ。


ノノは足元の突起を強く蹴ると、崩れ落ちる燭台から身を乗り出し、上空の木梁へと向かって必死に手を伸ばした!


バシャアアアン!


背後で、完全に支えを失った巨大な鉄の燭台が、黒髪の海へと没して凄まじい濁流音を立てる。


ノノの小さな指先が、頭上の木梁のぬめった縁へとひっかかった。


ガチリ!


冷たい木の表面にこびりついた不気味な苔の感触。


ノノの身体が空中へ宙吊りになり、猛烈な重力が幼い肘と肩を激しく引き千切ろうとする。


「んーっ!!!!」


ノノは歯を食いしばり、顔を真っ赤にして足を手繰り寄せた。


ブカブカのカッパの裾が黒髪の海の上で虚しく舞う。


ノノは必死に膝を木梁の上へと引っ掛け、這い上がるようにして木製のアームの上に跨がった。


「はぁ……はぁ……っ! う……ぁぅ……」


ノノは木梁の上に突っ伏したまま、激しく胸を上下させた。


カッパの膝部分が破れ、擦りむけた小さな膝から滲む痛みが、いまさらになってじわじわと襲ってくる。


けれど、ノノは安堵することなく、すぐに胸元のスケッチブックと壊れた傘を確かめた。


傘の金属骨がまた一本、歪に曲がっていた。 けれど、ノノの手から離れることはなかった。


梁の上から下を見下ろすと、そこはもはや一面の絶望的な黒と赤の世界だった。


黒髪の海が激しくうねり、その中心で『赤いドレス』が、顔のない首元をゆっくりと天井のノノへ向かって持ち上げている。


ドレスの袖口から、ぬめりを帯びた白い細い指が一本、また一本と伸び出し、ノノを招くようにくねくねと揺れていた。


——ノ……ノ……。


ママの……ところへ……。


その声と同時に、黒髪の海から無数の長い髪の毛が、まるで生き生きとした蛇の群れのように、木梁の柱を伝って上へと向かって高速で這い登り始めていた。


「ノノ! 休んでる暇はないよ! 梁を伝って、奥の吹き抜けの窓へ逃げるんだ!」


トトが梁の数メートル先で、ノノを導くように手を振る。


ノノはカッパの裾を短く抱え直すと、壊れた傘を前方に突き出しながら、細い木梁の上を四つんバイになって必死に這い進み始めた——


――ミシ、ミシ……ピキ……。


腐食した巨大な木梁(はり)は、ノノの小さな体重がかかるたび、まるで痛みに耐かねた老人の骨のように不吉な悲鳴を上げた。


梁の表面を覆う真っ黒なコケと湿った泥は、ノノの履いている幼いレインブーツの底を容赦なく滑らせようとする。


ノノは膝と肘を梁のザラザラした木肌にこすりつけ、まるで傷ついた小さな小動物のように、四つんばいになって一歩一歩必死に前へ這い進んだ。


ブカブカのカッパの裾が重たく垂れ下がり、梁のフチを無造作に擦っていく。

「ノノ、下を見ちゃダメだ! 前だけを見て!」


梁の数メートル先で、トトの切羽詰まった声が飛ぶ。


けれど、ノノの耳には、トトの声すら遠い水底の泡のようにくぐもってしか聞こえなくなっていた。


下から迫りくる、あの無数の黒髪の蠢く音。


――ザザ……ザザザ……。


湿った黒油に浸された数万本の髪の毛が、梁を支える太い石柱の表面を「ヌルリ、ヌルリ」と這い上がり、ノノの足元へと追いつこうとしていた。


毛先が石の隙間に触れるたびに上がる「ジジュウ……」という嫌な不協和音。


それが迫るにつれて、鼻を突く酸っぱいカビ臭さと腐敗臭が、梁の上のわずかな空気すらも侵食していく。


「あぅ……っ……うぅ……!」


ノノは涙でくもった目を必死に開け、前方の木梁の先を見つめた。


礼拝堂の最奥、吹き抜けになった高い壁の頂点。 そこに、かつては色鮮やかなステンドグラスが飾られていたであろう、大きなアーチ型の窓の枠組みが見えていた。


ガラスはとうに砕け散っており、外から冷たい海風が「ヒュウ、ヒュウ」と産声を上げて吹き込んでいる。


あそこへ行けば、外へ出られるかもしれない。 お母さんのいる、暖かい場所へと抜け出せるかもしれない。


ノノは左腕に破れかけたスケッチブックと折れた黄色い傘を強く抱き直し、かじかんだ右手を前へ伸ばした。

だが——


——ポタリ。


ノノの伸ばした右手の甲に、冷たく、重い一滴の液体が落ちた。


黒い油のような粘液。 ノノがびくりとして頭上を見上げた瞬間、息が止まった。


頭上の暗い天井裏の影から。


梁の上を覆うようにして、あの『赤いドレス』の首元から伸びた無数の黒髪が、蜘蛛の巣のように網目状に広がり、ノノの行き手を完全に塞ぐように垂れ下がっていたのだ。


ドレスの空洞の胸元が、天井の暗闇の中でくの字に折れ曲がり、ノノを上から見下ろしている。


——ノ……ノ……。


どこへ……いくの……?


歪んだ、けれど狂おしいほど甘い囁き。


垂れ下がった黒髪の毛先が、カーテンのようにノノの目の前でゆらゆらと揺れ、ノノのカッパのフードへと触れようと迫る。


「あやーっ!!!!」


ノノは叫ぶと、抱え込んでいた『折れた黄色い傘』を前に突き出し、夢中で目の前の黒髪のカーテンをバシバシと叩き払った!


ガツン! ガガッ!


歪んで折れ曲がった傘の金属骨が、濡れた毛髪の束を激しく打ち払う。


黒い粘液が跳ね、ノノの濡れた頬へ冷たく降りかかった。


髪の毛の隙間が、ほんの数十センチだけ開く。


「今だ、ノノ! 潜り抜けて!」


トトが叫ぶと同時に、ノノは身を縮め、梁の上に胸をぴったりと押し当てるようにして、黒髪の隙間へと滑り込んだ!


ズズズ……。


冷たく不快な毛髪の手触りが、ノノのカッパの背中を、フードを、レインブーツの底を「ヌルヌル」となで回していく。


ノノは恐怖で目をぎゅっと閉じ、歯を食いしばって前へ前へと膝を押し進めた。


すっぽりと黒髪の帯を抜け出た瞬間、冷たい風がノノの顔を激しく叩いた。


破れたステンドグラスの窓枠——! そのすぐ手前まで、ノノはたどり着いていた。


窓枠の向こう側には、どこまでも続く暗い夜空と、この怪異の館の外部と思われる、朽ち果てた巨大な『屋根裏の螺旋階段』が暗闇の中にたたずんでいた。


だが、安心したのも束の間だった。


ミシ……ピキキキキッ!


ノノが這ってきた腐った木梁が、ついに下からの黒髪の重みと、ノノの移動の衝撃に耐えきれなくなり、真ん中から激しく断裂し始めたのだ!


「ノノ! 跳んで! 窓枠へ!」


トトの悲鳴が夜風を切り裂いた。


ノノは後ろを振り返ることなく、折れた黄色い傘の先端で壊れかけた梁の端を強く突くと、残されたすべての力を足に込め、窓枠の石縁に向かって跳躍した——


身体が宙を舞った。


――ヒュゥッ!


壊れたステンドグラスの窓枠から吹き込む冷酷な夜風が、ノノのダッフルカッパの裾を激しく羽ばたかせる。


背後で、今までノノの小さな身体を支えていた巨大な木梁が「バキバキバキッ!」と絶望的な破壊音を立てて折れ曲がり、下方に広がる黒髪の海の底へと落っこちていった。


落下する闇の狭間で、ノノは短く「あ……っ!」と掠れた声を上げながら、短い両手を前方へと目一杯に突き出した。


ガツンッ!


冷たく湿った石の感触が、ノノの小さな指先と肘を強烈に打ちのめす。 ノノの身体は破れた窓枠の石縁へとしがみつき、半身が夜風の吹き荒れる外へと投げ出された。


「ん……っ! んーっ!!!!」


かじかみきった肘を必死に石の縁へ擦りつけ、ノノは顔を真っ赤にして身体を持ち上げた。


カッパの生地が鋭い石の角に擦れ、バリッと不穏な裂け目を生み出す。


けれど、ノノの左腕は、四隅の破れかけたあのスケッチブックと、壊れて歪んだ黄色い傘を、骨が折れそうなほど強く胸元へ抱きしめ続けていた。


ズルズル……ッ。


なんとか窓枠の上へと這い上がり、ノノはその場に膝をついて激しく肩を上下させた。


「はぁ……はぁ……っ! うぅ……あぅ……っ」


カッパのフードから垂れ落ちる冷や汗と泥水が、ノノの涙と混ざり合って視界を濡らす。 呼吸が苦しく、肺が冷たい空気で焼けるように痛んだ。


振り返ると、窓枠の向こう側——広大な礼拝堂の暗闇のなかで、窓を塞ごうと無数の黒髪が「ザザ……ザザザ……」と波打ち、うねりを上げて追ってきているのが見えた。


その髪の海の中心で、あの誰も着ていない『赤いドレス』が、空洞の首元をゆらゆらと揺らし、窓枠のノノへと向けられている。


——ノ……ノ……。


おいで……。


狂気の子守唄が、窓の隙間から夜風に乗って這い出そうとする。


「ノノ! 行こう! ここはまだ危ないよ!」


トトの声が、窓の先にある屋外の螺旋階段の上から手招きするように響いた。


ノノは唇を噛み締め、壊れた傘の先端を濡れた石段へと突き立てた。


ガラガラ……ズズ……。


傘を引きずる鈍い音が、外の湿った夜風の中に寂しく響き渡る。


そこは、館の屋根裏の外部に剥き出しで設置された、古びた鉄製の『外階段』だった。


手すりはあちこちが朽ち果てて削げ落ち、足元の鉄板には無数の穴が開いて、下を見下ろせば果てしない暗黒の底が広がっている。 上空からは、シトシトと冷たい雨が再び降り始め、ノノのカッパの生地を叩き始めていた。


ノノは雨に濡れながら、壊れた傘を杖代わりにして、一段ずつ鉄の階段を踏みしめて登っていった。


カン……カン……。


冷たい金属音が、静まり返った夜の闇に響く。


一歩登るごとに、館の内部のドブ臭さは遠ざかり、代わりに雨と湿ったコンクリートの寂しい匂いがノノを包み込んでいく。


だが、冷たい雨はノノの幼い体温を情け容赦なく奪っていった。


レインブーツの中の水はもう氷のように冷たく、つま先の感覚はとっくに失われている。


二段、三段、四段……。


ノノの膝が寒さと疲労でガクガクと震え、一段の段差を持ち上げるだけでも「んっ……ふぅ……」と荒い吐息が漏れた。


「上手だよノノ。もう少しで、階段のてっぺんだよ」


トトが数段先を歩き、優しく励ましてくれる。


ノノはコクリと小さく頷き、カッパのフードを深く引き下げて、雨粒を避けながらひたむきに足を前へ押し進めた。


そして——螺旋階段の最上部。


そこは、館の屋根の最頂点に位置する、小さな『時計塔の基部』へと続く重厚な鉄のドアの前だった。

ドアの表面には、巨大な真鍮製の鍵穴がひとつ、ぽっかりと不気味な黒い口を開けて佇んでいる。


ノノはドアの前に辿り着くと、壁に背中を預けるようにしてへたり込み、濡れたポケットへと手を伸ばした。


ポケットの中で指先に触れたのは、先ほどからずっとノノの太ももを冷たく圧迫していた、あの重く錆びついた『鉄の鍵』だった。


ノノはその鍵を小さな両手で包み込むようにして取り出した。


「ノノ……その鍵で、最後のドアを開けるんだ。あの向こうに……きっと……」


トトの言葉が、なぜか少しだけ揺れ、かすれて聞こえた。


ノノは首を傾げ、カッパのフードの奥からトトを見上げた。


雨の中で立つトトの姿が、どこか夜風に透けているかのように、ゆらゆらと輪郭を揺らしている。


ノノは胸の中に抱えたスケッチブックを強く握り直すと、震える指先で鉄の鍵をドアの鍵穴へと差し向けた。


ジャリ……。


鍵の先端が、錆びついた鍵穴の奥へとゆっくりと滑り込んでいく——


ジャリ……ジャリ……。


固く結着した錆びと砂粒が、鍵の刻みにギシギシと噛み合う不快な感触が、ノノのかじかんだ指先を通して、手首へ、肘へ、そして冷え切った胸の奥へと重たく伝わってくる。


風の勢いは、螺旋階段の高度が増すにつれてさらに牙を剥いていた。


時計塔の真下に位置する、剥き出しの外階段の踊り場。


吹き荒れる夜風が、ノノの着ているブカブカのダッフルカッパの生地を「バタバタバタ!」と悲鳴のような音で激しく羽ばたかせ、冷たい雨粒がフードの隙間からノノの濡れた首筋へ容赦なく吹き込んでは、体温を容赦なく奪い去っていく。


「……ん……っ……! あーっ……!」


ノノは歯を食いしばり、小さな顔を真っ赤に染めながら、両手で固く握りしめた鉄の鍵に全身の体重をかけた。


手のひらに冷たい鉄の尖った角が鋭く食い込み、ジリジリとした鈍い痛みが走る。


けれど、ここで鍵を回す手を緩めてしまえば、背後の階段の下——あの這い上がってくる黒い髪の海や、裁ち鋏の刃音が、一瞬で追いついてノノたちの足首を掴み取ってしまうだろう。


ギ……ギギギ……チリリ……!


長年動くことのなかった錠前の内部で、錆びついた真鍮の歯車が不吉な悲鳴を上げながら、ゆっくりと、一ミリずつ回転していく。 ノノの幼い両手首が限界まで絞り込まれた、その瞬間——


ガチャンッ!


重厚で硬質な金属音がドアの内部で重く響き、鉄の閂(かんぬき)が枠から脱落した。


同時に、ドアの隙間から、それまでのカビ臭さやドブの生臭さとは異なる、重たく、どこか乾いた『古い紙と、腐ったお香の匂い』が、暗い風とともに一気に噴き出してきた。


「あ……開いたよ、ノノ! すごい!」


すぐ隣で、トトが弾んだ声を上げた。


トトはノノの肩をさするように、小さな手を添えてくれる。


雨に濡れたトトの袖口がノノのカッパの肩口に触れ、その温もりを感じたノノは、安堵のあまり「ふぅ……あぅ……」と短く息を吐き出した。


ノノは手にした鉄の鍵を引き抜くと、それを大事そうにカッパの大きなポケットへと仕舞い込んだ。


そして、胸元に抱えた二つの宝物——四隅の破れかけたスケッチブックと、折れて二度と開くことのない黄色い傘を抱き直すと、両手で重い鉄扉の取っ手を押し込んだ。


ギギギ……ギィ……。


錆びついた重い蝶番が擦れ合う長大な音とともに、扉が内側へ向かって倒れ込むようにゆっくりと開いていく。


ノノはトトと視線を交わすと、引きずり回してきた傘の先端を床へ突いて、「ガラガラ、ズズ……」と重い金属音を立てながら、扉の向こう側の暗闇へと足を踏み入れた。

――バタンッ!


二人が足を踏み入れると同時に、背後の重い鉄扉が風圧で「ドカン!」と激しい音を立てて勝手に吹き閉まった。 外で荒れ狂っていた雨の音と狂暴な風切り音が、一瞬にして遠い世界のものへと遮断される。


あまりの沈黙。


耳がキーンと痛むほどの静もりの中で、ノノは呆然と佇み、カッパのフードを少しだけ持ち上げて周囲を見渡した。


そこは、巨大な時計塔の内部へと続く、薄暗く広大な『中空の図書廊下』だった。


天井は見えないほど高く吹き抜けており、壁という壁には、見上げるような高層の木製本棚が幾重にもそびえ立っている。


本棚には、表紙の擦り切れた分厚い古書や、湿気で丸く波打った羊皮紙の巻物が乱雑に詰め込まれ、それらすべてが長年の分厚い埃をかぶって静かに沈黙していた。


部屋の中央には、上の階層へと続く、不気味に傾いた木製の螺旋スロープ(傾斜路)がゆったりと円を描いて伸びている。


スロープのあちこちからは、途切れた巨大な真鍮製の歯車や、振り子の千切れた太いワイヤーが、蜘蛛の巣のように天井から垂れ下がっていた。


「わぁ……すごい本がいっぱいだね、ノノ。お母さん、この部屋のどこかにいるのかな……?」


トトが慎重な足取りで前へ進み、本棚の隙間を覗き込む。


ノノも小さくコクリと首を縦に振ると、壊れた黄色い傘を杖代わりに「トントン」と床を確かめながら、トトの背中を追ってスロープへと足をかけた。


床に敷かれているのは、水分を含んで重たく腐りかけた、深い紫色の古びた絨毯だった。


ノノが一歩踏み出すごとに、「ミシ……ミシ……」と床板が底から軋む不気味な音が響く。


坂道を少し登ったところで、ノノはふと本棚の隙間に目が留まった。


積み上げられた古い本のすき間に、何かが挟まっている。


ノノは足を止め、開かない傘の先端で、その本棚の隙間をツンツンと突いてみた。


パラ……。


埃を被った数冊の分厚い本が崩れ落ち、その奥から、小さくて黄色い『何か』が顔を出した。


ノノは首をかしげ、カッパのフードの奥から目を凝らした。


そこに落ちていたのは—— ノノが今、大事そうに胸に抱いているものと全く同じ、四隅の丸く擦り切れた『小さなスケッチブック』だった。


ノノの呼吸が、ぴたりと止まる。


「あ……あぅ……?」


ノノの幼い唇から、困惑の入った掠れた声が漏れ出た。


なぜ、こんな場所にスケッチブックがあるのだろう。


自分が持っているのは、今確かに胸の中に抱えているのに。


ノノはおそるおそる手を伸ばし、崩れた本棚の隙間から、その落ちていたスケッチブックを拾い上げた。


表紙はノノの持っているものよりもずっと古く、全体が真っ黒なカビと油汚れで汚れていた。


ノノが震える小さな指先でその表紙をめくると——


一ページ目には、クレヨンで描かれた下手くそな絵があった。


ダッフルカッパを着て、壊れた黄色い傘を引きずる小さな女の子の絵。 そして、その隣に並んで歩く、小さな男の子の絵。


二ページ目、三ページ目……。


そこには、ノノたちが今まで通ってきた地下倉庫、水底の給仕たち、長足女、そして先ほど渡ってきた水門の風景が、何十枚ものページにわたって、つぶさに、そして残酷なほど精密に描き出されていたのだった。


最後のページを開いたノノの手が、ガタガタと激しく震え出す。


そこに描かれていたのは—— いまノノたちが立っている、この本棚の立ち並ぶ螺旋スロープの絵。


そして、スロープの先、さらに上層へと続く暗い階段の途中で、後ろを振り返ってノノを招いている『トト』の絵だった。


絵の中のトトの顔には、口が存在せず、ただ黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されていた。


「ノノ? どうしたの、立ち止まっちゃって。早く行こうよ」


前方の暗がりから、トトの優しい声が聞こえた。


ノノは弾かれたように顔を上げた。


スロープの先で、トトがいつものように心配そうな眉を下げて、こちらを振り返って手招きしている。


その姿は、ノノのよく知る、大好きなトトそのものだった。


「……あ……う……」


ノノは拾い上げた古いスケッチブックをその場にぽろりと落とすと、自分の胸にある本物のスケッチブックをさらに強く抱きしめ直した。


恐怖で心臓が破裂しそうになりながらも、ノノは壊れた黄色い傘を杖のように「ガラガラ、ズズ……」と引きずり、トトの後を追って、さらに高みへと続く暗い螺旋スロープを登り始めた。


本棚の影から、静かに「カサリ……」と、紙がめくられる不気味な音が響き始めていた——


カサリ……。


それは、幾重にも重なる巨大な本棚の影から落ちる、ただの乾いた古紙の擦れ音ではなかった。


指先でなぞられた紙が、じわりと湿気を吸い込んで撓むような、湿っぽく不吉な擦れ音。


ノノはピタリと足を止め、壊れた黄色い傘の柄を両手で固く握りしめた。


かじかんだ指先を通して、傘の金属骨がミシミシと不快に振動しているのが伝わってくる。


「……あ……う……」


ノノは息を殺し、ブカブカのカッパのフードを深く被り直した。 足元に落ちた『もう一冊のスケッチブック』。


カビと油汚れで黒く煤けたその表紙が、いま、誰も触れていないはずなのに、まるでページの内側に蠢く見えない手によって押し開けられるように、カサ……カサリ……とゆっくりめくられていく。


月光の筋が落ちる紫色の濡れた絨毯の上。


めくられたページには、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたトトの顔と、その周りを囲む無数の黒い線——いや、線ではない。


それは、細い羊皮紙の破片が無数に寄り集まり、まるで生き物の足のように蠢く影の描写だった。


「ノノ! こっちに来ちゃダメだ、本棚から離れて!」


前方のスロープの上で、トトが弾かれたように叫んだ。


トトの声はいつになく切迫しており、いつもノノに向けられる穏やかな笑顔は完全に消えていた。


彼はすり減った袖口を握り締め、スロープの手すりから身を乗り出すようにしてノノを見下ろしている。


直後——


ズザザザザッ!


左右の本棚から、何百、何千という古い本が、一斉に棚から押し出されて床の絨毯へと崩れ落ちた!


舞い上がる分厚い埃。長年のカビと、腐ったインクの酸っぱい臭いが空気を一瞬で覆い尽くす。


崩れ落ちた古書の山の中から、文字通り『本』そのものが蠢き始めていた。


崩れた革装丁の表紙がカチカチと狂ったように開閉を繰り返し、黄ばんだページが一枚、また一枚と剥がれ落ちる。


剥がれた紙切れは、湿った絨毯の上で生き物のように折りたたまれ、まるで細長い無数の百足(ムカデ)のような紙の足を生やし始めた。


――ササササササッ!


紙の百足たちが、絨毯を覆い尽くすほどの群れとなり、カサカサと乾いた甲高い音を立ててノノのレインブーツの足元へ押し寄せてくる!


「あやーっ!」


ノノは悲鳴を上げ、咄嗟に『折れた黄色い傘』の先を絨毯へ突き刺した。


ガツン!


傘の先端が紙の群れを踏み荒らし、数枚の黄色いページが「パリッ」と破けて弾け飛ぶ。 だが、破れた紙切れすらも、即座に新たな小さな足を生やし、ノノのカッパの裾へ向かって不気味に這い登ろうとしてきた。


「ノノ、スロープを登って! 歯車の横を通り抜けるんだ!」


トトが叫びながら、スロープを数歩駆け下りてくる。


ノノは左腕で破れかけたスケッチブックを首元に強く押し抱き直すと、右手に持った開かない傘で足元の紙の群れを「バシッ! バシッ!」と夢中で払いながら、傾いたスロープへと駆け出した。


バシャカサッ!


湿った絨毯と紙の群れを踏みつける足音が、吹き抜けた時計塔の内部に不気味に反響する。


スロープの木板は、ノノが体重をかけるたびに「ミシ、ピキッ……」と激しく不穏な悲鳴を上げ、いまにも底が抜けて下の暗闇へと落っこちてしまいそうだった。


スロープの中ほど。 天井から垂れ下がる巨大な真鍮製の歯車が、ノノの頭上すれすれで斜めに傾いて佇んでいる。


錆びついた歯車の隙間から、ドロリとした古い機械油と黒い紙くずが、絶え間なく糸を引いて滴り落ちていた。


ノノがその歯車の脇を通り抜けようとした、その時だった。


ガコン……!


動きを止めていたはずの巨大な歯車が、重く鈍い音を立てて数センチだけ自重で回転した。


歯車の噛み合わせの隙間から、大量の紙の群れが「ザザザーッ!」と滝のように溢れ出し、ノノの頭上から降り注いでくる!


「ノノ、伏せて!」


トトが正面からノノの身体を押し倒すように身を投げ出した。


ドサッ!


ノノは紫色の絨毯の上に倒れ込み、カッパのフードを深く被って小さく丸まった。


頭上を、無数の紙の群れが「シューッ! ザザザ……」と風を切って通り抜けていく。


冷たく乾いた紙の端がノノのカッパの生地を浅く擦り、カッパの黄色い表面に「白い筋」の傷跡を何本も刻み込んでいった。


ノノはフードの中でぎゅっと目を閉じ、抱え込んだスケッチブックと壊れた傘を絶対に離すまいと力いっぱい指に力を込めた。


「……ふぅ……大丈夫だよノノ、立ち上がって!」


トトの荒い息遣いが耳元で聞こえた。


ノノが恐る恐る目を開けると、トトがノノの顔のすぐそばで膝をつき、心配そうに覗き込んでいた。トトのカッパ……いや、トトの着ている服の袖口には、少しだけ紙くずが引っかかり、ハラハラと落ちていく。


ノノは「ん……っ」と短い息を漏らし、開かない傘の先をスロープの木板へ突き立てて、ヨイショと幼い体を立ち上がらせた。


頭上の歯車は再び動きを止め、静まり返っている。


だが、スロープの下方——本棚の立ち並ぶ暗がりからは、崩れた無数の古書から湧き出た紙の群れが、まるで黒い帯のようになってスロープの傾斜を這い登ってきていた。


――サササ……カサカサカサ……。


「ノノ、上へ! 時計塔の文字盤の裏側へ逃げるんだ!」


トトがノノの手を取るような仕草で前を走り出す。


ノノはレインブーツの底で踏ん張り、壊れた傘を「ガラガラ、ズズ……」と引きずりながら、トトの背中を追ってスロープの頂上へとひた走った。


スロープを登り切った先。


そこは、巨大な時計塔の「文字盤」のすぐ裏側に位置する、円形の広い機械室だった。


壁一面に広がるのは、直径数メートルもある巨大な半透明のガラス文字盤。 外の青白い月光がガラスを透過し、ローマ数字の影(I、II、III、IV……)が、濡れた床の上に巨大な不気味な影模様となって投影されている。


そして、部屋の中央。


動きを止めた巨大な振り子(ペンダラム)の真下に、上層の『時計仕掛けの回廊』へと続く、細い鉄製の垂直階段が佇んでいた。


ノノはその階段の足元へ辿り着くと、壁に背中を預けて「はぁ……はぁ……っ!」と荒い呼吸を吐き出した。


カッパから滴り落ちる水滴が、ガラス文字盤の影の上に波紋を描いて広がる。


「ノノ、その階段を登れば……もっと上へ行けるよ」


トトが文字盤の前に立ち、月光の影を背に受けて振り向いた。


ノノはカッパのフードを少し持ち上げ、息を整えながらトトの顔を見つめた。


トトの笑顔はいつも通り優しかったが、ガラス文字盤から差し込む青白い月光の筋がトトの身体を突き抜け、床のローマ数字の影をそのまま透かして映し出していた。


ノノは首を小さくかしげ、手にした折れた黄色い傘をぎゅっと抱き直し、垂直階段の第一歩目へ小さなレインブーツをかけた——


キン……コン……。


どこか気の遠くなるような遥かな高所で、錆びついた巨大な金属同士が重たく擦れ合う不協和音が、一度だけ空気を小さく震わせた。


時計塔の巨軀が静かに吐き出す、冷たく乾いた呼気。


それが垂直階段(タラップ)の細い鉄格子を抜け、ノノのダッフルカッパの裾を不規則に揺らしていく。


「あ……ぅ……」


ノノは小さく息を呑み、第一歩目をかけた足先へと視線を落とした。


縦にまっすぐ伸びる鉄の梯子は、長年の湿気と油で赤黒く爛れ、表面にはウロコのような錆の花がびっしりと咲いている。


幼いレインブーツの底を乗せると、ズズ……と薄い泥の膜が滑り、冷とい鉄の感触が足裏を通してダイレクトに伝わってきた。


左腕には、四隅の擦り切れたスケッチブック。


そして、細い骨がポッキリと折れ、濡れた布地が引きちぎれたままの『開かない黄色い傘』。


ノノはその二つの宝物を胸元へとさらに強く引き寄せると、かじかんだ右手の指先を、一段上の鉄格子へと回した。


ジャリ……。


剥がれかけた錆の粒が、ノノの掌の中で乾いた音を立てて崩れる。


両手で手すりを握り占めることができない以上、ノノは左腕に抱えた傘の曲がった柄をうまく手首に引っかけ、右手の指先と肘の力だけで、小さな身体を引き上げなければならなかった。


「ん……っ……! ふぅ……っ……!」


短い呼気が、カッパのフードの中で白く濁って弾ける。 ノノは歯を食いしばり、膝を大きく持ち上げて二段目、三段目へと足をかけた。


足元を見下ろせば、先ほど通り抜けてきた巨大なガラス文字盤が、まるで底なしの青い沼のように足下に広がっている。


ローマ数字の歪んだ影(VIやVIIの太い漆黒の筋)が、床に溜まった薄水に滲み、まるで暗闇の底から伸びる幾本もの手のように見えた。


――サササ……カサカサ……。


スロープの頂上、部屋の入口の暗がりから、再びあの嫌な音が響き始めていた。


古書から剥がれ落ちた無数の紙の百足(ムカデ)たちが、壁や床を黒く覆い尽くしながら、追撃の帯となって部屋の中へと雪崩れ込んできているのだ。


紙の足が文字盤のガラスを擦る「シャカシャカシャカ……」という甲高い摩擦音が、塔の内部に不気味に響き渡る。


「ノノ! 下を見ちゃダメだ! 手を緩めないで、一気に登るんだ!」


上方の暗がりから、トトの叫び声が降りてきた。 トトはすでに垂直階段の遥か上、上層の『時計仕掛けの回廊』のフチに辿り着き、手すりから身を乗り出すようにしてノノを見下ろしている。


トトの着ている服の裾が、塔の上空を吹き抜ける冷たい風にそよぐ。


だが、ノノの位置から見上げると、トトの佇むすぐ背後、文字盤を透過して差し込む青白い月光の筋の中に、トトの影だけがどこにも落ちていないのが見えた。


鉄格子の格子模様の影は床へハッキリと落ちているのに、トトの小さな身体の影だけが、光をそのまま通り抜けさせてしまっていた。


ノノはブカブカのカッパのフードの隙間から大きな目を瞬かせ、息を詰めた。


「あ……うぅ……っ……」


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。


けれど、ノノはその疑問を言葉にすることも、思考を深めることもできない。


ただ、目の前の冷たい鉄格子へと必死に右手を伸ばし続けた。



四段、五段、六段……。


一段登るごとに、腕の筋肉がじりじりと熱を帯び、かじかんだ指先の感覚が麻痺していく。


腕の中に抱えた『折れた黄色い傘』の金属骨が、ノノが動くたびに「ガラガラ、カツン」と鉄格子に当たり、虚しい音を立てた。


その先端が、壁のセメントを削り、パラパラと乾いた砂粒をノノのカッパの上に降らせる。


直後——


――サササッ!


追いついてきた紙の百足の数匹が、垂直階段の根元へと飛び移り、鉄格子を凄まじい速度で這い登り始めていた!


黄ばんだ紙切れの足が、鉄の錆をシャカシャカと掻き鳴らしながら、ノノの履いているレインブーツのすぐ数センチ下へと迫る。


「あやーっ!」


ノノは悲鳴にならない声を上げ、右腕の肘を強く上に引っ掛けた。


必死の力で両足を一段引き上げる。


バシッ!


ノノの踵が、追いついてきた一番上の紙の百足の頭部を叩き潰した。


紙切れは「パリッ」と乾いた破裂音を立てて弾け、散らばった欠片が足下の暗闇へと舞い落ちていく。


だが、後続の群れは怯むことなく、何十、何百という紙の帯となって鉄格子を黒く染め上げていく。


「ノノ! 右手を出して! 僕の手を掴んで!」


トトが垂直階段の最上部から、目一杯に腕を伸ばしてきた。


その指先は、あたたかな太陽のような光をまとっているように見えた。


ノノは最後の力を振り絞り、膝をぐっと踏み込むと、伸ばされたトトの手に向かって右手を突き出した!

ガシッ!


触れた感触。


それは、凍えきったノノの身体に反して、どこか遠い夢の中のぬくもりのように不確かに、けれど確かにノノの小さな手を引き引き上げてくれた。


ズルッ……ドサッ!


ノノは上層の回廊の鉄板の上へと崩れ込むように倒れ込んだ。


呼吸が乱れ、「はぁ……はぁ……っ! うぅ……あぐっ……」とカッパの胸元を激しく上下させる。


ノノは突っ伏したまま、すぐに胸の中の二つの宝物を確かめた。


スケッチブックの表紙はさらに歪んでいたが、中のページは無事だった。


破れた黄色い傘も、固くノノの腕に抱えられたままだ。


追ってきた紙の百足たちは、この上層の回廊の敷居を跨ぐことができないのか、垂直階段の最上部で「シャカシャカ……」と虚しく紙の足を蠢かせた後、やがて力を失ったようにただの古い不揃いな紙切れへと戻り、ひらひらと暗い吹き抜けの底へと落ちて行った。


「はぁ……はぁ……よかった……助かったね、ノノ」


トトがノノのすぐ脇に膝をつき、安堵の息を吐きながら微笑みかけてくる。


ノノはカッパの袖で顔の汗と涙を雑に拭うと、ゆっくりと体を起こした。


そこは、時計塔の最上層——『時計仕掛けの大回廊』だった。


目の前には、見渡す限りの巨大なギヤ(歯車)の群れが、巨人の体内のように複雑に噛み合いながら聳え立っていた。


直径が何メートルもある青銅製の歯車、真鍮の細い歯車、そして巨大な振り子の軸。


それらすべてが、まるで眠りから覚めつつある怪物のように、微かな振動と「……チッ……チッ……」という不規則な時を刻む不協和音を響かせている。


回廊の床は、細い鉄網(グレーチング)でできており、その網目の向こう側には、どこまでも続く歯車と暗黒の空間が透けて見えていた。


そして、回廊の奥——


無数の巨大な歯車が噛み合う隙間の向こう側に、またしても、あの『かすかな温かい光』と、切なく胸を締め付ける『子守唄の調べ』が、風に乗って流れてきていたのだ。


——ラン……ララ……ラン……。


ノノの耳が、ぴくりと跳ね上がった。


カッパのフードの下で、涙に濡れた大きな瞳がパッと開かれる。


「あ……ぅ……! ママ……!?」


ノノは壊れた黄色い傘を慌てて拾い上げると、杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と床の鉄網を擦りながら、膝の痛みを忘れて小走りで駆け出し始めた。


「あ、ノノ! 待って! 歯車が動いてるから危ないよ!」


トトの焦った声が後ろから追いかけてくる。


だが、ノノの足は止まらない。


歯車と歯車が噛み合う狭い隙間。


その奥から漏れ出る光を目指して、ノノは壊れた傘を前方に突き出しながら、新たな機械の迷宮の奥深くへと踏み込んでいった——


——ギギ……ガチリ……。


巨大な青銅の歯車が噛み合うたび、重厚な金属の軋みと重低音がノノの幼い足底を激しく震わせた。


網目状の鉄板(グレーチング)でできた回廊の床は、油と冷たい湿気で塗れ、ノノの小さなレインブーツを容赦なく滑らせようとする。


下を見下ろせば、何十メートルもの暗黒の底で、大小無数の真鍮製のギヤが巨大な顎のように噛み合い、ゆったりと回転を繰り返しているのが網目の隙間から不気味に透けて見えていた。


「ノノ! 走っちゃダメだ! 足元を見て!」


トトの悲鳴のような制止の声が、巨大な歯車の回転音に掻き消されそうになりながら追ってくる。


けれど、ノノの足は止まらなかった。


不規則に動き続ける歯車の巨躯と巨軀の狭間、その不気味な隙間の奥から溢れ出す、あの柔らかで甘い橙色の灯火。


そして、胸の奥を締め付けるほど懐かしい『お香』の匂いと、微かな子守唄の揺らぎ。


「あ……ぅ……! あーっ!」


ノノは声を絞り出し、破れかけたスケッチブックを左腕でぎゅっと首元に押し抱きながら、右手で持った『折れた黄色い傘』を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と鉄網の床へ突き立てて、夢中で脚を動かした。


回転する歯車の巨大な『刃(歯)」が、ノノのすぐ頭上すれすれを掠めていく。


——ヒュッ!


風を切る鈍い音がカッパのフードを擦り、古びた機械油の重たく酸っぱい臭いがノノの鼻腔を満たした。


油の滴が「ポタリ……」とノノの濡れた頬に落ち、冷たく、不快な粘り気で肌を濡らす。


ノノはカッパの袖でそれを雑に拭うと、前方に立ちはだかる巨大な二つの歯車の『噛み合わせの隙間』へと直進した。


その隙間は、ノノの小さな身体でさえ、体を斜めにしなければ通り抜けられないほど狭かった。


しかも、歯車は一秒ごとに「……チッ……チッ……」と不規則な間隔で回転し、隙間の大きさを無慈悲に変え続けている。


もしタイミングを狂わせれば、鉄の歯と歯の間に幼い身体ごと巻き込まれ、一瞬で押し潰されてしまうだろう。


「ノノ、待って! 僕が合図するから!」


トトが追いつき、ノノのすぐ脇で歯車の動きを必死に凝視した。


トトの顔は蒼白で、眉を八の字に歪めている。けれど、その足元は油で滑る鉄網の上でも一切バランスを崩すことなく、どこまでも不自然に安定していた。


「いい? 次、大きい歯車が『カチッ』と音を立てて一瞬だけ止まる! その瞬間に滑り込むんだ!」


ノノは生唾をゴクリと呑み込んだ。


ダッフルカッパのフードの中で、冷や汗が目に入って沁みる。


ノノは折れた傘の先をしっかりと床の網目に引っ掛け、前傾姿勢をとった。


ギギ……ガチリ……。


大きな青銅歯車が、重い振動とともに回転を止めた。


「今だ、ノノっ!」


「ん……っ! あぁーっ!」


ノノは叫ぶと、破れかけたスケッチブックと折れた傘を胸に強く押し当て、すき間へと体を滑り込ませた!


スズズズッ……!


濡れたカッパの生地が、冷たく巨大な鉄の歯の側面に擦れ、いやな摩擦音を立てる。


ノノのカッパの背中と、胸元のスケッチブックの表紙が、同時にミシミシと圧迫される強烈な恐怖。


直後——


ガチコンッ!


ノノが通り抜けた背後で、巨大な歯車が牙を剥くように噛み合わさった。


強烈な金属の衝撃音が耳元で炸裂し、弾け飛んだ錆の粒がノノのカッパのフードへパラパラと降り注ぐ。


間一髪だった。あと数ミリ遅れていれば、カッパの裾ごと噛み込まれていたはずだった。


「はぁ……はぁ……っ! う……あぅ……っ!」


ノノは隙間を抜け出た先で鉄網の上に膝をつき、激しく肩を上下させた。


かじかんだ指先がガタガタと震え、壊れた黄色い傘を握りしめる握力が尽きかけている。


けれど、ノノは安堵して立ち止まることはしなかった。


視線を上げたノノの目の前に、その『空間』が広がっていたからだ。


歯車の巨躯を潜り抜けた先は、時計塔の最頂部に位置する、ドーム状の『巨大な文字盤の裏部屋』だった。


部屋の中央には、かつてこの館の主が使っていたと思われる、重厚なマホガニー製の巨大な書斎机と、古びた革張りの椅子がポツンと置かれている。


そして、その部屋全体を照らしていたのは、天井から垂れ下がるアンティークなランプの、あたたかな橙色の光だった。


壁には、無数の古書や謎の図面が幾重にも積み上げられ、静かな埃の匂いが立ち込めている。


そして——


その書斎机の前に。


一人の女性が、背中を向けたまま、静かに佇んでいた。


彼女が纏っているのは、鮮やかな赤色をした『大人用のドレス』。


背中まで伸びた美しく長い黒髪が、ランプの温かい光を受けて、優しく、柔らかく揺れている。


そして、彼女の唇から溢れ出していたのは—— ずっと、ずっとノノが探し続けていた、あの大好きなお母さんの『子守唄』だった。


——ラン……ララ……ラ……。


ノノの呼吸が、完全に止まった。


カッパのフードの奥で、涙に濡れた大きな瞳がパッと大きく見開かれる。


冷たい水路の恐怖も、長足女の裁ち鋏の音も、膝の痛む擦り傷も、すべての苦しみが一瞬で消え去り、ノノの胸の中には途方もない切なさと歓喜の波が押し寄せてきた。


「……あ……っ……! ママ……っ!」


ノノの喉から、声にならない、掠れた叫びが漏れ出た。


ノノはお母さんのいる場所へ向かって、吸い寄せられるように、一歩を踏み出した。


ガラガラ……ズズ……。


壊れた黄色い傘を引きずる音が、静かな部屋の空気に不気味に響く。


だが——


ノノのすぐ後ろについてきていたはずのトトが、部屋の入口、歯車の隙間の敷居のすぐ手前で、ピタリと足を止めていた。


トトは前へ進もうとはしなかった。


その大きな瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が溢れ落ちていく。


「ノノ……ダメだよ……。そっちへ行っちゃ……ダメなんだ……」


トトの声は泣きじゃくり、弱々しく震えていた。


ノノは首をかしげ、振り返ってトトを見た。


ランプの橙色の光と、文字盤から差し込む月光の筋の中で立つトト。


そのトトの姿が——なぜか、揺らゆらと薄い煙のように透け始めていた。


トトの着ている服の輪郭が、部屋の壁の書棚の影と溶け合い、ノノの目の前で少しずつ消えかかっている。


「ト……ト……?」

ノノは困惑し、つたない声でトトの名を呼んだ。


けれど、トトは悲しそうに首を横に振るだけだった。


「ごめんね、ノノ……。僕は、ここまでしか一緒にいられないみたいだ……」


トトがノノに向かって、そっと手を伸ばす。


けれど、その手はノノのカッパの生地に触れることなく、ただ空気をすり抜けていくだけだった。


「僕の手を……ずっと握っててくれて、ありがとう。ノノ……」


トトが涙を流しながら微笑むと、その身体は一筋の光の粒となって、夜風の中にすうっと溶けるように消えていってしまった。


ノノは呆然と、トトが立っていた誰もいない空間を見つめた。


そして、ふと自分の右手に目を落とした。


ノノの右手は、固く握りしめられていた。


誰の手でもない——ノノ自身の左手が、ノノの右手首を、痛いほど強く、離すまいと握りしめていたのだ。


「……あ……?」


ノノの幼い唇から、小さな吐息が漏れた。


ずっとトトに引かれてきたと思っていた手。


恐怖に怯えるノノを励まし、導いてくれていたトトの温もり。 それらはすべて、一人ぼっちの絶望の中でノノが生み出した、ノノ自身の『生きようとする心』そのものだったのだろうか。


ノノは自分自身の右手首を、そっと解いた。


静寂が部屋を支配する。


書斎机の前に佇む『赤いドレスの女性』が、子守唄をふっと止め、ゆっくりとノノの方へと振り返り始めていた。


ズリ……ズリ……。


濡れた布が擦れ合う不穏な音とともに、お母さんがこちらを向く。


ノノは恐怖に脚を震わせながらも、胸の中のスケッチブックと折れた黄色い傘を抱き直し、振り向くお母さんの姿を食い入るように見つめた——


——ズリ……ズリ……。


重々しい絹の擦れ音とともに、赤いドレスを纏った人影が、旋回するようにゆっくりとノノの方へ向きを変えていく。


静まり返った文字盤の裏部屋。


天井から下がるランプの橙色の光がゆらゆらと揺れ、ドレスの鮮烈な赤に深く濃い陰影を落としていた。


ノノの心臓が、早鐘のように胸の肋骨を打つ。


カッパのフードの奥で、涙に濡れた大きな瞳がお母さんの「顔」があるはずの場所へ釘付けになった。


振り切ったその頭部——


そこに広がっていたのは、人間の愛らしい目鼻立ちでも、恐ろしい怪物の牙でもなかった。


——ただ、滑らかな『真っ平らな鏡』だった。


卵型の顔の枠の中にすっぽりと嵌め込まれた、巨大な鏡面。


その表面は古びた銀毒のように黒ずみ、鈍い光を返している。


そして、その濁った鏡の奥底には、カッパを着て、壊れた傘を抱え、たった一人で立ち尽くす小さなノノの姿が歪んで映し出されていた。


「……あ……っ……」


ノノの喉から、押し殺したような小さな息が漏れ出る。


鏡の顔をしたママは、言葉を発しなかった。


ただ、背中まで伸びた濡れたような黒髪を滑らかに揺らし、ゆっくりとノノに向かってその白く細い両腕を差し伸べてきた。


その指先は、雪のように白く、けれど冷酷なほどに美しい。


優しく、愛おしい我が子を胸に抱き寄せるかのように、両腕が空を描いてノノを招く。


ふわりと、空気が揺れた。


ママの指先が動くたび、甘く、熟しすぎて腐りかけた百合の花のようなお香の匂いが、ノノの幼い鼻腔を麻痺させるように深く立ち込める。


行かなきゃ。 お母さんの胸の中へ。ずっと探していた、あの温もりの中へ。


ノノの足が、意思に反して一歩前へ踏み出そうとした。


けれど——


ノノの視線は、ママの「鏡の顔」に映る自分自身の足元から離れなかった。


鏡の中のノノ。 そのノノの影のすぐ足元に、破れかけたスケッチブックと、壊れた黄色い傘が落ちている。


そして、鏡の中の空間には、もうトトの姿は影すらない。


ノノは左手で、強く自分の右手首を握りしめていた。


ぎゅっと。血が通わなくなるほど強く。


痛み。


自分自身の指が自分自身の手首を絞めあげる、ジリジリとした確かな皮ふの感触と痛みが、凍りつきかけたノノの意識をかろうじて現実へと繋ぎ止めていた。


トトは、もういない。 ううん、最初からどこにもいなかったんだ。


暗い地下室で泣いていた時も。


冷たい水路で引きずり込まれそうになった時も。 大きなハサミを持った女の人から逃げ回っていた時も。


自分を抱き起こし、前を指さし、「大丈夫だよ」と声をかけてくれていたのは——全部、全部、ノノ自身の心だった。 ノノが、たった一人で自分を助けるために、必死で繋ぎ止めていた幻だったんだ。


ノノの大きな瞳から、溜まっていた大粒の涙が「ぽろり」と零れ落ち、ダッフルカッパの黄色い生地に黒いシミを作った。


ママの鏡の顔が、わずかに傾く。


招く両腕が、さらに数センチ、ノノの小さな身体へと近づいてくる。


鏡の表面に映るママの胸元——そこには何の温もりもない、ただ暗い空洞のような闇が渦巻いていた。


もしあの腕の中に飛び込めば、二度と戻ってくることはできない。


ノノという小さな女の子の存在そのものが、あの鏡の奥の暗闇へと吸い込まれ、二度と朝を迎えることはできなくなるだろう。


「……ん……っ」


ノノは歯を食いしばった。


かじかんだ右手に、残された全ての力を込める。


握りしめているのは、骨が折れ、布が引きちぎられ、二度と開くことのない『折れた黄色い傘』。


ノノはママの伸ばされた白い手首の隙間を目がけ、その壊れた傘の石突(先端)を、夢中で前方へ突き出した!


ガツンっ!!!!


硬い金属の先端が、ママの右手首の関節へと強く打ち当たった。


人間の骨の音ではない。

まるで乾いた陶器や固い木彫りの人形が砕けるような、「ゴツン!」という重く不気味な鈍音が部屋に響き渡る。


ママの招く動作が、ぴたりと止まった。


鏡の顔の表面に、かすかな「ピシッ……」というひび割れの筋が一本、走った。


——ノ……ノ……?


言葉にならない、ガラスを削るような掠れた不快な音が、部屋の空気そのものを振動させてノノの鼓膜を刺す。


ノノは後ろへ弾かれたように後ずさると、胸の中にスケッチブックを強く強く抱き直した。


逃げなきゃ。 ここは、お母さんのいる場所じゃない。


ここは、ノノを呑み込もうとする『影』の場所だ。


ノノはくるりと向きを変えると、壊れた傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と引きずり、いま潜り抜けてきたばかりの巨大な歯車の隙間へ向かって、小さな足を必死に動かし始めた。


後ろで、ママの着ている赤いドレスが「ズズズ……ッ!」と激しく不穏な音を立てて蠢き始める気配がした。


ドーム状の部屋全体を照らしていたランプの橙色の光が、猛烈な勢いで明滅し始め、青白い不気味な影が壁の古書を一斉に黒く塗り潰していく。


ノノは一度も振り返らなかった。


トトが教えてくれた。


ノノは、一人でも走れる。 自分の足で、自分の手で傘を握って、どこまでも進んでいけるんだ。


ノノはカッパのフードを深く被り直すと、回転を続ける歯車の巨大な闇の中へと、再びその小さな身体を躍らせて飛び込んで行った——


――ギギギ……ガガガガッ!


巨大な青銅歯車が吐き出す重酷な咆哮が、ノノの小さな鼓膜を破らんばかりに揺さぶった。


ドーム部屋のランプの明滅が激しさを増し、影が狂ったように壁や天井を跳ね回る。背後からは、あの『鏡の顔のママ』の赤いドレスが湿った絨毯を激しく擦り寄せる「ズリ……ズズズ……ッ!」という悍ましい追撃音が迫っていた。


「んーっ!!!!」


ノノは声を限界まで振り絞り、壊れた黄色い傘を前方に突き出しながら、回転を続ける青銅歯車の「噛み合いの隙間」へと、躊躇うことなくその幼い身体を滑り込ませた!


スザーッ!


濡れたダッフルカッパの黄色い生地が、冷たく巨大な鉄の歯の側面に激しく擦れ、嫌な摩擦熱と「バリバリッ」という鋭い裂け音を生み出す。


すぐ脇を掠めていく鉄の歯先。間一髪でノノのダッフルカッパの裾をかすめ、布地を浅く引き千切っていったが、ノノは恐怖で縮こまることなく、そのまま勢いよく前方へと身を躍らせた。


ドサッ!


回転する巨躯の反対側――グレーチング(網目状の鉄板)でできた回廊の床へ、ノノは膝から激しく突っ込んだ。


ガチコンッ!


直後、背後で巨大な歯車が牙を剥くように噛み合い、強烈な金属の衝撃音が空間を揺らす。


もし一瞬でも足が鈍っていれば、ノノの小さな体足ごと一瞬で押し潰されていたはずだった。


「はぁ……っ! はぁ……っ! う……あぅ……っ!」


ノノは膝の猛烈な痛みに耐えながら、すぐに胸元の宝物を確かめた。


四隅の破れかけたスケッチブックは、ノノの小さな腕の中にしっかりと抱えられている。


そして、右手には、骨が歪み、布地の裂けた『折れた黄色い傘』。


ノノは力強く傘の柄を握り直すと、立ち上がった。


横を見る。 いつもなら、そこにトトがいて、「危なかったね、ノノ!」と笑顔で声をかけてくれていたはずの場所。


そこには今、誰もいない。


ただ、網目の向こう側の暗闇から吹き上がってくる、冷たく湿った風が虚しく吹き抜けているだけだった。


けれど、ノノの瞳から涙はもう溢れていなかった。


ノノは左手で、ぎゅっと自分の右手首を固く抱きしめた。 冷え切った皮ふ越しに伝わってくる、自分自身のドクンドクンという確かな鼓動。 トトは消えてしまったのではない。


ノノが諦めずに前へ進み続ける限り、ノノの心の中に、その手の中にずっと居続けてくれているのだ。


ガラガラ……ズズ……。


ノノは壊れた黄色い傘を杖代わりに床へ突くと、迷うことなく『時計仕掛けの大回廊』を逆方向へ向かって走り出した。


——ノ……ノ……。おいで……。


歯車の隙間の奥から、ガラスを擦り合わせるような狂気の子守唄が追いかけてくる。


だが、その声はもうノノの足取りを狂わせることはできなかった。


ノノは回廊を駆け抜け、先ほど登ってきた『垂直階段(タラップ)』のフチへと辿り着いた。


下を見下ろせば、巨大なガラス文字盤の向こう側に、どこまでも続く漆黒の暗闇と、未だ動きを止めない館の複雑な機構が、怪物の胎内のごとく広がっている。


ここから降りる。


そして、この狂った館のさらに外へ、本当の「朝」がある場所へと、逃げ延びて見せる。


ノノはダッフルカッパのフードをぎゅっと深くかぶり直すと、折れた黄色い傘の曲がった柄を手首にかけ、冷たく錆びついた鉄の格子へと、迷いのない小さな右手を固く伸ばした——


ジャリ……。


錆の浮いた鉄格子のざらついた感触が、ノノの幼い手のひらに冷たく刺さる。


先ほど登ってきた時には、恐怖で指先が震え、今にも下の暗闇へ吸い込まれそうだった垂直階段(タラップ)。


けれど今、ノノの右手は不思議なほどしっかりと、一ミリの迷いもなく鉄格子を掴みしめていた。


左腕には、四隅の丸く擦り切れたスケッチブック。そして、手首にかけた『折れた黄色い傘』のカーブした柄。 ノノは壊れた傘がカチカチと鉄に当たる音を立てるのも気にせず、一段、また一段と、慎重に、けれど確実な足取りで縦穴の階段を降り始めた。


――サササ……カサカサカサ……。


下方の暗がり、巨大なガラス文字盤の表面には、まだあの『古書のページから生まれた紙の百足たち』が、黒い帯となって蠢いているのが見えた。 黄ばんだ紙切れの無数の足が、ガラスを擦って「シャカシャカシャカ……」と甲高い擦れ音を響かせている。


ノノはレインブーツの爪先を一段下の鉄格子へしっかりと引っ掛けると、カッパのフードを押し上げて下を凝視した。


引き返せば、あの紙の群れが足を噛みにくる。


けれど、上へ戻れば、歯車の向こうで『鏡の顔のママ』が待っている。


「……んっ……!」


ノノは小さく息を呑むと、手首にかけていた壊れた傘の柄を右手に持ち替えた。


そして、手すりから体を少し乗り出すようにして、折れた傘の鋭い金属先端(石突)を、直下で蠢く紙の群れへ向かって、思い切り「突き下ろし」た!


ガツンッ! パリパリッ!


傘の先が鉄格子を打つ強烈な音とともに、数枚の紙の百足が破裂するように引きちぎられ、不揃いな黄ばんだ紙くずとなって吹き抜ける風の中へと舞い散っていく。


群れが一瞬、怯んだようにカサカサと動きを狂わせた。


その隙を逃さず、ノノはトントンと素早く足を進め、ガラス文字盤の裏側の床へと飛び降りた。


バシャアン!


床に溜まっていた薄水が跳ね上がり、ノノの黄色いカッパの裾を濡らす。


散らばった紙の百足たちが一斉にノノの足元へ向かって這い寄ってこようとしたが、ノノは足元など見向きもせず、開かない傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……!」と強烈に引きずりながら、螺旋スロープ(傾斜路)へと駆け出した。


――サササササッ!


背後で紙の群れが波のように押し寄せてくる。 だが、ノノの脚はもうもつれなかった。


スロープの途中に転がっていた、あの『もう一冊のカビ生えたスケッチブック』。


トトの顔が黒く塗り潰されていた、あの不吉な冊子の脇を通り抜ける瞬間、ノノは迷うことなく、右手に持った折れた傘の先端でそれを力任せに弾き飛ばした。


バシッ!


古いスケッチブックは不気味な悲鳴のような紙擦れ音を立ててスロープから落ち、暗い吹き抜けの底へと消えていった。


ノノは一瞬たりとも足を緩めず、スロープを駆け下り、中空の図書廊下の出口、あの重厚な鉄のドアへと辿り着いた。


ドアは風圧で閉まっていたが、鍵はかかっていない。 ノノは小さな身体ごと鉄扉へとぶつかっていった!


ドスンッ! ギギギィ……!


錆びついた扉が重い音を立てて外側へ開く。 瞬間に、外の冷たい雨と狂暴な夜風が、再びノノの顔と身体を激しく打ちたたいた。


――ヒュウウウウウッ!


螺旋状の剥き出しの外階段。


雨粒がノノのカッパのフードを「パラパラパラ!」と激しい音で叩き、寒さが容赦なく全身の皮膚を刺す。


けれど、ノノはその冷たさが嬉しかった。


あの酸っぱいお香の匂いや、カビと腐敗の充満する怪異の館から、一歩ずつ確実に外の世界へと戻ってきている証拠だったからだ。


ノノは雨で滑る鉄の階段を、開かない傘の先で「カン、カン」と突いてバランスを取りながら、一歩一歩降りていく。


階段の途中で、ふと立ち止まり、ノノはカッパのフードの奥から見上げってみた。


夜空の中にそびえ立つ、巨大で不気味な時計塔。


その最上階の窓の暗がりの中に、赤いドレスを纏ったひとすじの人影が、静かにたたずんでノノを見下ろしているのが見えた。


その顔の位置にある鏡が、一瞬だけ、雲の切れ間から覗いた青白い月光をギラリと反射させる。


――ノ……ノ……。


風の音に紛れて、最後の掠れた囁きが届く。


けれどノノは、もう二度と振り返らなかった。


左手で自分の右手首を固く抱きしめ、「ここにいるよ」と自分に言い聞かせるように力を込める。


胸の中のスケッチブックを守り、壊れた黄色い傘をしっかりと握り直して。


カン……カン……ガラガラ、ズズ……。


暗い階段を降りていく少女の小さな足音と、開かない傘を引きずる金属音が、雨の降る夜の闇の中へ、どこまでも、どこまでも力強く響き続けていた。


カン……カン……カン……。


剥き出しの鉄階段を叩くノノのレインブーツの足音は、激しさを増す雨音を切り裂くようにして、闇の底へとしぶとく響き渡っていた。


手すりの途切れた外階段を降りるたび、強風がブカブカのカッパの生地を「ババババッ!」と狂ったように煽り立てる。


カッパのフードの隙間から吹き込む冷雨が、ノノの濡れた前髪を顔に貼りつかせ、涙と混ざり合って頬を伝い落ちていく。


レインブーツの中は冷水で満たされ、指先の感覚はもう何一つ残っていなかった。


けれど、ノノの膝は二度と折れなかった。


――ガラガラ……ズズ……。


左腕に胸元へ固く押し抱いたスケッチブック。そして、右手に握りしめた『折れた黄色い傘』。 歪んだ金属骨が「カン、カツン」とステップを打つたびに手のひらに走る鋭い振動。


その確かな痛みが、ノノに「私はここにいる」という真実を教えてくれていた。


一歩、また一歩。


螺旋階段の終点——かつて水門の恐怖から逃れて這い上がってきた、あの重厚な石造りのアーチへと辿り着く。


アーチの向こう側からは、依然として「ドドドドド……!」という絶望的な濁流の轟音が響いていた。


だが、ノノは躊躇わなかった。


アーチの足元。ノノは足をとめると、かじかんだ左手でダッフルカッパの大きなポケットへと手を突っ込んだ。


指先が触れたのは、先ほど時計塔のドアを開けるために使った、あの重く錆びついた『鉄の鍵』だった。


ノノはその鍵を取り出すと、目の前の暗闇——水路へ続く石造りの重い格子扉(鉄柵)の頑丈な鍵穴へと、迷うことなく差し込んだ。


ジャリ……ジャリリ……!


必死に両手に体重をかけて鍵を捻る。 ノノの小さな身体全体から絞り出された力に答えるように、重い鉄閂が「ガチャンッ!」と音を立てて外れ、格子扉が重く開いた。


ノノは水路へ向かうのではなく——その格子扉の反対側、かつて水底の給仕たちがうごめいていた狭い管理用通路の「上り階段」へと足を踏み入れた。


そこは、館の地下深くを通り抜け、外の地表へと続く、見落とされていた古びた搬出口だった。


階段はどこまでも狭く、両側の石壁からはヌルヌルとした苔と冷たい水滴が滴っていた。


ノノは壊れた傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と突き立てながら、暗い石段を一段ずつ踏みしめて登っていった。


もう、トトの声は聞こえない。


振り返っても、黄色いカッパの横に並んで歩く小さな男の子の影はない。


ノノは自分の左手で、ぎゅっと自分の右手首を固く抱きしめた。


(トトは、ここにいる)


声に出すことはできないけれど、幼いノノの心の中で、はっきりとその温もりが脈打っていた。


トトが教えてくれた走り方を、トトが見せてくれた諦めない心を、ノノ自身の身体が今、しっかりと覚えていた。


二段、三段……十段……。


暗い石段の遥か頭上。 湿ったカビ臭さの混じる空気の向こうから、不意に、


ヒュゥ……。


潮の香りを交えた、本物の「外の風」の匂いが漂ってきた。


ノノはハッと顔を上げた。


石段の突き当たりに、崩れかけた木製の地下扉が見えていた。


板の隙間から漏れ出ているのは、青白い月光でも、気味の悪い鬼火の光でもない。


夜明けの訪れを告げる、薄紫色に染まり始めた「朝の光」だった。


ノノはお腹の底から「んっ……!」と小さな気合を入れると、小さな体ごと崩れかけた木扉へと体当たりした。


バリバリッ! ドスン!


腐った木板が悲鳴を上げて砕け散り、ノノの身体が外の世界へと倒れ込んだ。


バシャアン!


ノノのレインブーツが踏みしめたのは、冷たい館の絨毯でも、黒髪の海でもなかった。


雨上がりの濡れた「泥と枯草」の感触だった。


ノノは地面に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。


目の前には、霧の立ち込める広大な古い森が広がっていた。


背後を振り返ると、そこには霧の中に佇む、巨大で狂った異形の館のシルエットが、朝靄の中で黒い怪物のように歪んで沈んでいた。


風が渡る。


濡れた森の木々が「ザザザ……」と優しく葉を擦れ合わせる音。 鳥の静かな羽ばたき。


本物の世界の音が、ノノの冷え切った耳を満たしていく。


ノノは冷たい草の上に突っ伏したまま、しばらくの間「はぁ……はぁ……」と荒い息を整えた。


そして、泥のついたカッパの袖で顔を拭い、膝の痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がった。


胸の中には、四隅の破れたスケッチブック。 そして右手には、骨が折れ、破れたままの『黄色い傘』。


ノノは壊れた傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と濡れた草地の上に引きずりながら、朝の光が差し込む森の小道へと、一歩、また一歩と踏み出して行った。


傘が地面を擦るその静かな音は、もう恐怖に怯える音ではなく、この広大な世界を自らの足で歩み始めた、一人の少女の力強い足音として、朝靄の中にどこまでも響き続けていた。


ざざあーっ……ざざあ……。


朝靄(あさもや)の漂う深い森の静寂を揺らしていたのは、黒い毛髪の津波でも、裁ち鋏(ばさみ)の不気味な刃音でもなかった。


それは、濡れた落葉の海を渡る冷たい風の音と、ノノの小さなレインブーツの爪先が、湿った泥を踏みしめる「シャク、シャク」という静かな足音だけだった。


ノノは立ち止まり、カッパのフードの隙間から、ゆっくりと首を巡らせた。


背後に立ち聳えていたはずの、あの巨大な怪異の館—— 時計塔も、枯れた百合の礼拝堂も、黒い水路の鉄格子も、朝の濃密な白い霧の中に泥のように溶け込み、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、虚無の向こう側へと沈み込んでいた。


静かだった。


耳が痛くなるほどの静けさの中で、ノノは左腕の力を少しだけ緩めた。


カッパの胸元に抱え込まれたスケッチブック。四隅はすっかり丸く破れ、湿気で固く波打っている。


その表紙に、小さな右手の指先でそっと触れた。


クレヨンで描かれた、ぐちゃぐちゃな赤い渦と、大きな黄色い円。


そして、その横に並んで描かれた、小さな男の子の姿。


「……あ……ぅ……」


ノノの幼い唇から、微かな吐息が漏れ出た。


右手に握りしめた『折れた黄色い傘』。


細い金属骨は見る影もなくひの字に曲がり、黄色い布地は裂けて無残に垂れ下がっている。ノノはその傘の先端(石突)を、濡れた草地の上へとゆっくりと突き立てた。

ガラ……ズズ……。


傘を引きずる鈍い音が、朝の森の中に小さく輪を描く。


いつもなら、ここで隣からトトの手が伸びてきていた。


「大丈夫? ノノ」と、少し不安そうに、けれど優しく笑うトトの顔が、そこにあったはずだった。


ノノは右手をそっと離し、自分の左手で、空になったその右手首をぎゅっと抱きしめた。


冷え切った皮膚越しに伝わる、ドクン、ドクンという力強い脈打ち。 トトの手は、もうない。


けれど、あの暗い地下室でノノの手を握りつづけ、立ち上がらせてくれた「温もり」の記憶は、確かにノノの骨の奥、血のめぐりの中に息づいていた。


ノノは前を向いた。


立ち込める白い霧の隙間から、金色に輝く朝日が一筋、濡れた草むらへと斜めに差し込んでくる。


その光の中に、森の奥へと微かに伸びる、古い獣道の轍(わだち)が見えていた。


どこへ続くのかも分からない道。


けれど、ノノはもう恐怖に震えて立ち尽くす少女ではなかった。


ノノはブカブカのカッパのフードをぐっと深く被り直すと、壊れた傘の柄を握り直し、朝の光が照らす小道へと向かって、力強く一歩を踏み出した。


ガラガラ……ズズ……。


開かない黄色い傘を引きずる音が、朝の静寂を静かに擦りながら、森の奥へとどこまでも、どこまでも続いていった。


ガラガラ……ズズ……。


湿った腐葉土の上を、開かない黄色い傘の金属骨が引きずられていく。


先ほどまでの暗く濃密な館の影はすっかり霧の彼方へと消え去り、森の樹々の隙間からは、白金の光粒子を含んだ朝の陽射しが幾筋も斜めに降り注いでいた。


ノノの履いている幼いレインブーツが、濡れた枯葉の層を踏みしめる。


サク、サク。


その足音は、静まり返った森の中にどこまでも小さく、けれど確かに響いていた。


ノノはふと立ち止まると、左腕に固く抱えていたスケッチブックを胸元から少しだけ離し、濡れた指先でそっと表紙を撫でた。


水気を吸って重くなった紙。


破れた四隅。


けれど、そのページの中に閉じ込められたクレヨンの色合いは、朝の光を浴びて、静かにノノの瞳に映り込んでいる。


ノノは右手に残る痛みを確かめるように、ぎゅっと壊れた傘の柄を握り直した。


もう、手首を強く握り返してくれる誰かの気配はない。 隣を歩く影も、自分を呼ぶ声も、風の音の中に溶けて消えてしまった。


けれど、ノノの胸の中には、冷たい水路や暗い階段を一人で駆け抜けてきたあの疾走の感触が、あたたかな火となって残っている。


「……ん……っ」


ノノはブカブカのダッフルカッパのフードをキュッと被り直すと、光の射す小道に向かって、再び足を前へと押し出した。


ガラガラ……ズズ……。


歪んだ黄色い傘の先端が、濡れた泥の上に細くまっすぐな一筋の痕跡を刻んでいく。 少女の足音と、金属の引きずる音は、やがて朝靄の煙る森の深みへと自然に溶け込んでいき、跡にはただ、新しく訪れた静かな朝の光だけが満ちていた。


湿った腐葉土と泥の交じる小道に、折れた黄色い傘の金属骨が刻む細い描線が、朝靄のなかへとどこまでも伸びていく。


森の樹々は、館のなかにあった腐敗とカビの臭いとは異なり、青く冷たい葉の匂いを含んでいた。


けれど、その静けさはどこか不自然なほどに色濃く、風が枝葉を揺らす音以外、鳥の鳴き声も羽音も何一つ聞こえてはこない。


ノノは小さなレインブーツの爪先を湿った土へ踏み込み、一歩ずつ慎重に進んでいく。


サク、サク。


足元で弾ける枯葉の感触。 ダッフルカッパのポケットのなかで、あの錆びついた重い鉄の鍵が、ノノの太ももに「コトン、コトン」と冷たい存在感を主張し続けていた。


ふと、ノノの鼻先をかすめたのは—— 濡れた樹木の匂いの中に混ざり込む、ごく微かな『焦げた紙と、甘いお香の残香』だった。


ノノの足が、ピタリと止まる。


カッパのフードの隙間から大きな瞳をのぞかせ、ノノはおそるおそる前方を見上げた。


立ち込める白い朝靄の向こう側。 森の小道が大きく歪んで曲がるその先に、巨大な『何か』が影となって浮かび上がっていた。


それは、樹木ではなかった。


森の木々の間に深く落ち込んだ巨大な地割れ——その深い谷を渡るようにして架けられた、古びた石造りの『アーチ状の眼鏡橋』だった。


橋の欄干には、あの時計塔と同じ不気味な真鍮の歯車や文字盤の破片が幾重にも埋め込まれ、朝靄の光を受けてギラリと鈍く湿った光を返している。


そして、その橋の袂(たもと)に。


ぽつんと置かれていたのは、一基の古びた『木製のバス停の標識』だった。


標識の表面は文字がすべてかすれ落ち、ただ黒い塗料で、幼い子供が描いたような不格好な「黄色い傘」のマークだけがポツンと描かれている。


ノノは胸の中にスケッチブックを強く抱き直し、壊れた傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と引きずりながら、その標識の足元へと近づいていった。


標識のすぐ下、濡れた草むらの中に、何かが落ちている。


ノノは膝を折り、かじかんだ小さな手でそれを拾い上げた。


それは、湿って丸まった一枚の古い『乗車券』のような切符の切れ端だった。


そこには、まだ乾ききっていない黒いインクで、つたない文字が残されていた。


『終点:お母さんのいる場所まで あと二つ』


ノノの呼吸が、小さく詰まる。


館を抜け出せたと思っていた。


恐怖の夜は終わったのだと。


けれど、この広大な森も、渡る橋も、すべてはまだあの怪異が紡ぎ出す巨大な「道順」の途中に過ぎなかったのだ。


ノノは拾い上げた切符の切れ端を、カッパのポケットの奥へと大事そうに仕舞い込んだ。


そして、右手の中にある『折れた黄色い傘』の柄を、痛いほど強く握り直す。


恐れることはない。 ノノにはもう、自分の足で立ち、自分の腕で傘を握り、どこまでも歩いていく強さがあるのだから。


ノノは橋の石段へ向かって、小さなレインブーツを力強く一歩踏み出した。


ガラガラ……ズズ……。


朝の静寂に響く金属音とともに、少女の新たな探索の足取りが、霧深い橋の向こう側へと続いていく——

コトン……ガラガラ……ズズ……。


古びた眼鏡橋の第一段目。角の削れ落ちた湿った石段に、壊れた黄色い傘の金属骨が触れ、重く鈍い音を響かせる。


石の表面には真っ黒な湿生コケがびっしりとこびりつき、朝露を吸ってヌルヌルと鈍い光を放っていた。


ノノはブカブカのカッパの裾を揺らしながら、幼いレインブーツの底でしっかりと石の感触を確かめ、一歩一歩、慎重に体重を預けていく。


サク、ズリ……。


足裏から伝わるのは、冷たく硬質な石の拒絶感。 橋の両脇を固める欄干には、真鍮製の歯車の破片や、文字の潰れた時計の文字盤が、まるで石の中に埋没した化石のように不揃いに埋め込まれていた。


朝靄の微かな光がそれらに反射し、ノノの足元へチカチカと不気味な黄銅色の光斑を落としている。


「……あ……う……」


ノノは小さく息を吐き出すと、カッパのフードを深くかぶり直した。


ダッフルカッパのポケットの中で、あの『錆びた鉄の鍵』と、先ほど拾い上げた『乗車券の切れ端』が、歩みに合わせてカチリと乾いた音を立てて触れ合う。


橋の中央付近まで差し掛かったときだった。


——ヒュゥ……。


谷の底、見えないほど遥か下方の深い闇から、湿り気を含んだ冷たい風が吹き上がってきた。


その風は、ただの夜明けの森の風ではなかった。


風の切れ端に混ざり込んでいたのは、重たく、鼻を突く『腐った水生植物の臭い』と、微かな『濡れた黒髪の匂い』。



ノノの足が、ピタリと止まる。


右手に固く握りしめた壊れた傘の柄に、ぎゅっと指先をめり込ませた。


ひの字に曲がった金属骨が、風にあおられて「ピキ……ピキ……」と小さく震える。


ノノはおそるおそる、欄干の隙間から橋の下の谷底へと目を落とした。


深く立ち込める白い朝靄の隙間。


その底には、森を削り取るようにして流れる、真っ黒な『泥の川』が広がっていた。


川の流れは、まるで重い油のように緩やかで、波紋ひとつ立たない。


だが——その黒い水面を注視していたノノの大きな瞳が、息を呑んで見開かれた。


泥の川の表面に、プカプカと浮かんでいたもの。


それは、無数の『開かない黄色い傘』だった。


破れ、骨が折れ、泥に塗れた黄色い布地が、川面を埋め尽くすように何百、何千と漂っている。


まるで、ノノより前にこの橋を渡ろうとし、そのまま谷底へ落ちて行った「誰かたち」の無数の残骸のように。


そして、それらの傘の隙間を縫うようにして。


黒い油のような水面から、無数の白い手首が、水草のようにゆらゆらと天に向かって伸ばされていたのだ。


細く、幼い、小さな手首たち。


——ササ……ザザザ……。


川底から、水面を渡って響いてくるのは、かすかな、けれど狂おしいほどの『紙のめくれる音』。


ノノの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。


左腕に抱えたスケッチブックの角が、カッパの生地越しにノノの胸骨を強く圧迫する。


行かなきゃ。 引き返してはダメだ。


ノノは左手で、ぎゅっと自分の右手首を掴んだ。 自分の肌の熱。


血の波打つ感触。


トトが教えてくれた「ノノ自身の力」が、いま確かにここにある。


ノノは谷底から目を逸らすと、橋の向こう側——霧の中に煙る対岸の森へと、まっすぐに視線を向けた。


対岸の樹々の隙間に、古びた『石造りの駅舎』のような建物の影が、ポツンと佇んでいるのが見えていた。


崩れかけた赤いレンガの屋根と、寂しげに灯るひとつだけの丸いカサつきランプ。


ノノは壊れた傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と石段へ叩きつけるように突き立てると、欄干に沿って、橋の先へと力強く駆け出した。


ガラガラ……ズズ……!


雨上がりの冷たい風を切り裂いて響く金属音。


谷底からの湿った手が届かぬよう、ノノは二度と下を見ることなく、朝靄の残る新たな迷宮の入口へ向かって、その小さな一歩を刻み続けていく


ガラガラ……ズズ……!


折れた黄色い傘の石突が、眼鏡橋の湿った石畳を激しく擦り削る。


谷底の黒い泥川から這い上がろうとする無数の白い手首の群れが、霧の向こうで「ザアアア……」と重い水音を立てて波立つが、ノノの足取りはもう一瞬たりとも揺るがなかった。


石造りの古い橋を渡りきったノノの目の前に、ぽつんと佇む『赤レンガの駅舎』がその重い影を落としている。


天井からは煤けたオイルランプが一つ、冷たい風に揺られて「ギイ……ギイ……」と乾いた金属音を立てていた。


駅舎の入口には、分厚い古木の引き戸が半開きになっており、その隙間からは、あの懐かしくも胸を締め付ける『古い紙と甘いお香の匂い』が、濃い煙のように漏れ出ている。


「……ん……っ!」


ノノは小さく息を吐き出すと、迷うことなくその引き戸へと歩み寄り、小さな手で重い木板を押し開けた。


ギィィィ……。


扉の向こうに広がっていたのは、外の荒涼とした森とは似ても似つかない、どこか懐かしく、そして途方もなく歪んだ空間だった。


そこは、無数の『改札口(ラッチ)』が幾重にも並ぶ、だだっ広い地下待合室のような場所だった。


天井は高く、その頭上にはガラス張りのドームが広がっているが、外の朝の光ではなく、濁った黄昏時の橙色の光がドームを澱ませている。


改札の向こう側には、どこまでも果てしなく続く、鉄路のない錆びた線路が無数に分岐していた。


そして、その待合室の中央に置かれた古びた木のベンチに一人の『小さな男の子』が、膝を抱えてポツンと座っていた。


擦り切れた袖口。


濡れた髪。 そして、ノノがずっと心の奥で探し求めていた、あの懐かしい背中。


「……ト……ト……?」


ノノの唇から、かすれた声が零れ落ちた。


ベンチに座っていた男の子が、ゆっくりと首を巡らせる。


その顔には、いつもノノに向けられていた穏やかな笑顔があった。


けれど、その瞳の奥には、どこか遠くへ行ってしまうような切ない静けさが湛えられていた。


「ノノ……遅かったね。ずっと待ってたんだよ」


トトが立ち上がり、ノノの方へと一歩近づいてくる。


その足元には、影がない。


ノノは左腕に抱えたスケッチブックを強く胸に押し付け、右手で折れた黄色い傘を杖のように床に突いた。


もう、幻だとか現実だとか、そんなことはどうでもよかった。 トトがそこにいる。


それだけで、ノノの冷え切っていた胸の奥に、確かな熱が灯る。


「……あぅ……! トト……っ!」


ノノは傘を引きずりながら、トトの待つベンチへと駆け寄ろうとした。


その瞬間——


ガチャンッ! ガチャンッ!


待合室を取り囲む無数の改札口の扉が、一斉に、凄まじい音を立てて跳ね上がった。


改札の向こうの無数の線路の暗がりから、ぞろぞろと、あの『水底の給仕たち』や、顔のない群れが、一斉にこちらへ向かって歩み出し始めていたのだ。


「ノノ、早く! あの列車に乗らなきゃ、また捕まっちゃうよ!」


トトが焦ったように叫び、目の前に滑り込んできた『古びた蒸気列車』の開いた扉を指さした。


石炭の焦げる匂いと、濃い蒸気がホームを包み込む。


列車の車窓からは、いつか見た時計塔や、鏡の顔のママの影が、ちらちらと不気味に揺らめいて見えている。


トトはノノの手を取ろうと、手を差し出した。


ノノはその小さな手を見つめ、そして、自分の右手に握りしめた『折れた黄色い傘』に目を落とした。


トトの手を取って、あの列車に乗れば、すべてが終わるのだろうか? それとも、またあの果てしない迷宮の奥へと連れ戻されてしまうのだろうか?


ノノは小さな胸で大きく息を吸い込むと、差し出されたトトの手ではなく、自分の左手でぎゅっと『自分の右手首』をさらに強く掴み直した。


「……んっ……!」


ノノは首を横に振った。


トトの顔に、驚いたような、けれどどこかホッとしたような、複雑な笑みが浮かぶ。


「そっか……ノノは、もう一人でも歩けるもんね」


シュシュシュ……と、蒸気列車の車輪が重く動き始める。


トトの姿が、立ち込める白い蒸気の中に、すうっと溶けるように薄れていく。


「またね、ノノ」


その声を聞き届けると、ノノはトトの乗る列車を背にして、真っ直ぐに改札の反対側――線路の合間を抜けて、さらなる闇の奥へと続く『新しいトンネルの入口』へと向き直った。


背後で列車が発車の汽笛を鳴らし、闇の中へと走り去っていく。


静まり返った赤レンガの駅舎の中。


ノノは壊れた黄色い傘を杖代わりに「ガラガラ、ズズ……」と床に響かせながら、誰もいない線路の枕木の上へと、小さなレインブーツをしっかりと踏み出した。


終わらない旅の続きへ。 少女の足音は、新しいトンネルの闇の奥へと、どこまでも力強く響いていった。


ゴト……ン……ゴト……ン……。


背後を走っていた古い蒸気列車の汽笛と車輪の音が、鉛色のトンネルの奥へと吸い込まれるように、遠く、遠くへと消えていく。


後に残されたのは、不気味なほどに静まり返った、果てしない単線の線路。


頭上を覆うコンクリートの天井からは、冷たい地下水が「ポツリ……ポツリ……」と一定のリズムで錆びた枕木を叩き、澱んだ空気がノノのダッフルカッパのフードを重たく湿らせていく。


ノノは立ち止まらず、ただ前だけを見据えて足を動かした。


サク、カツン。 レインブーツの踵が、等間隔に並ぶ木製の枕木を捉える音と、右手で引きずる『折れた黄色い傘』が砂利をかき鳴らす「ガラガラ、ズズ……」という乾いた摩擦音だけが、この閉ざされた空間の唯一の現実だった。


左腕の胸元には、四隅の破れかけたスケッチブック。 その表紙に触れる指先には、もう迷いも震えもない。


トンネルの壁面には、錆びついた電線がクモの巣のように這い回り、等間隔に吊るされた裸電球が、チカチカと不気味な黄色い光を明滅させている。


その電球の光が一つ過ぎるごとに、ノノの小さな影が前へ、そして後ろへと長く伸び縮みした。


――ガサリ……。


不意に、前方の暗がりから、かすかな物音が響いた。


ノノはピタリと足を止める。 右手で握りしめた折れた傘の先端を前方へと向け、身構えた。


チカッと裸電球が最後の力を振り絞るように明るく点滅した瞬間、トンネルの線路の真ん中に、ぽつんと置かれた「小さなもの」がノノの目に飛び込んできた。


それは、一足の『小さな赤い子供靴』だった。


片方だけの、泥に汚れた革靴。


その靴のつま先は、さらに深く暗いトンネルの奥——これからノノが向かおうとする方向を、正確に指し示している。


ノノはその赤い靴の脇へと歩み寄り、じっと見下ろした。


恐怖はなかった。


それはかつて、この果てしない迷宮のどこかで迷子になり、歩くことを諦めてしまった「誰か」の残骸かもしれない。


あるいは、ノノ自身がいつか通ってきたかもしれない、過去の幻影の断片かもしれない。


ノノはしゃがみ込み、その小さな赤い靴の横に、自分の黄色いレインブーツをそっと並べてみた。


靴のサイズは、ノノの足とよく似ていた。


「……ん……っ」


ノノは小さく息をつくと、立ち上がり、もう一度壊れた傘を杖代わりに突いた。


赤い靴を置き去りにし、ノノはさらに奥へと歩き出す。


ガラガラ……ズズ……。


トンネルの傾斜が、わずかに上り坂へと変わっていく。


頭上のコンクリートの天井が少しずつ低くなり、その隙間から、これまでとは異なる「湿った土と、野の花の香りが混ざり合った風」が、どこかすーっと吹き抜けてきた。


人工的な機械油の臭いでも、古びた紙の匂いでもない。 ほんの少しだけ、生きた世界の気配がする風。


ノノの歩幅が、わずかに早まる。


左手で自分の右手首をそっと確かめる。 トトがいなくても、誰の手を借りなくても、ノノの体温はちゃんとこの世界に存在している。


カチッ……チカッ……。


トンネルの天井に並ぶ裸電球が、ついに最後の一個までプツリと音を立てて消え去った。


周囲が一瞬にして、完全な暗闇に包まれる。


けれど、ノノは足を止めなかった。


闇の向こう。


トンネルの出口を縁取るように、丸く切り取られた夜空の向こうから、白み始めた『本当の朝の光』が、静かに、けれど圧倒的な明るさでノノの瞳を優しく包み込んだ。


ノノは壊れた黄色い傘を強く握り締め、光に向かって、最後のトンネルの出口へと踏み出していった——

眩い光に目が眩み、ノノが一歩を踏み出したその瞬間。


ガチャンッ……! ギギギィィッ……!


乾いた金属の噛み合う凄まじい音が、頭上の天井から足元の大地までを一斉に震わせた。


朝の光だと思ったものは太陽のそれではなく、巨大な無数の「水銀燈」が突如として一斉に点灯したときの、生々しいまでに冷たい人工の白熱光だった。


「……あ……?」


ノノの幼い足が、これ以上前に進まなくなる。


目の前に広がっていたのは、緑の草原でも、青空でもなかった。 そこは、天井も床も壁もすべてが錆びついた真鍮とコンクリートで出来た、逃げ場のない『巨大な円形の監房(ガラスドーム)』だった。


四方の壁には、無数の重厚な鉄格子が嵌め込まれており、その隙間からは、あの『鏡の顔のママ』や、顔のない群れ、そして水底の給仕たちが、血走った視線や鏡面の顔で、一斉にこちらをじっと覗き込んでいる。


ガサリ、と足元が音を立てた。


ノノが慌てて視線を下ろすと、そこには冷たい鉄板の床が広がっていた。


そして、その床の至るところから、無数の「錆びた鎖」と「黒い髪の束」が這い出し、ノノの黄色いレインブーツの足首を、まるで生き物のようにねっとりと絡め取っていた。


「あっ……! ううっ……!」


ノノは息を呑み、右手に握りしめた『折れた黄色い傘』の先端を床に突き立てて踏み出そうとした。


だが、冷たい鎖は容赦なくノノの細い両足首を締め上げ、そのままドームの中央へと引きずり戻していく。


ザリッ……ザリッ……と、鉄板を引っ掻く鈍い音。



左腕に抱えていたスケッチブックが手から零れ落ち、パッとページが開いた。


そこに描かれていたのは、ぐちゃぐちゃの赤い渦の中に取り残された、小さな自分の姿だった。


スケッチブックは冷たい水溜まりの中にポチャンと落ち、インクが黒く滲んで消えていく。


「いや……っ……!」


声にならない叫びを飲み込みながら、ノノは必死に右手で自分の左手首を掴もうとした。


けれど、その腕すらも、背後から伸びてきた冷たく白い無数の手首にガッチリと掴まれ、背中側へと固くねじ上げられてしまう。


カチャリ。


ドームの中央に置かれた、古びた鉄の椅子。


ノノの小さな身体は、その椅子へと乱暴に押し掛けられ、幾重もの重い鎖でガチガチと縛り上げられた。


動けない。 指一本、前を向くことすら許されない。


ドームの天井の中央で、狂ったように巨大な時計の歯車が「ガチャン、ガチャン」と重い音を立てて逆回転を始める。


外へ続くはずだった出口のトンネルは、いつの間にか厚い鉄板の壁で完全に塞がれ、最初からそんな場所など存在しなかったかのように、冷たい壁の一部へと戻っていた。


静寂が戻ってくる。


周囲の鉄格子の向こうから、あの湿ったお香の匂いと、ガラスを擦るような掠れた囁き声が、どこまでも重く響き渡ってきた。


——ノ……ノ……。もう、どこにも行かないよね……? ——ここで、ずっと一緒だよ……。


逃げ場はない。 朝など来るはずもなかった。


ノノはダッフルカッパのフードの奥で、大きく見開いた瞳を微かに震わせた。


手元にはもう、折れた黄色い傘もない。トトの名前を呼ぶ声も、喉の奥で冷たく凍りついている。


ただ、自分の身体を縛る鎖の冷たさと、終わらない時間の歯車が刻む音だけが、永遠の監獄の中で、残酷なほど規則正しく響き続けていた——


――チク、タック。


錆びついた巨大な歯車が、一秒、また一秒と、狂ったような正確さで永遠の時間を刻み続ける。


冷たい鉄の椅子に縛り付けられたノノの身体は、幾重もの重い鎖に縫い留められ、指先ひとつ動かすことすら許されていなかった。


ダッフルカッパの黄色い生地は薄汚れ、足元には、かつて自分が歩んできた道の名残であるかのように、色褪せた水たまりが澱んでいる。


四方を囲む無数の鉄格子。 その暗がりから、湿ったお香の残り香が、澱んだ空気を伝ってじっとりと這い寄ってくる。


——ノ……ノ……。


幾重にも重なる、掠れた、しかし逃れようのない囁き声。 それは耳元で直接響くのではなく、ノノ自身の頭蓋の骨の髄を直接震わせるようにして、絶え間なく反響し続けていた。


視界の端。


鉄格子の隙間から、あの『鏡の顔のママ』が、すうっと滑るように歩み寄ってくるのが見えた。


顔の枠に嵌め込まれた巨大な鏡面には、鎖に縛られ、身動きひとつできないノノの絶望した顔が、歪んだ銀色に映し出されている。


ママは言葉を発しない。


ただ、その白く冷たい両手をゆっくりと鉄格子の隙間から差し入れ、縛られたノノの頬へと、そっとその指先を這わせようとする。


触れるか触れないかの距離。


そこから発せられるのは、温もりではなく、底知れない冬の日のような凍てつく死臭だった。


ノノは息を呑み、わずかに身を引こうとしたが、背中の鉄板と鎖がそれを許さない。


(……もう、動けない)


心の中で、かすかな声が零れ落ちた。


かつて地下室でトトの手を握りしめ、冷たい水路を駆け抜け、折れた黄色い傘を武器にして切り開いてきたあのすべての足掻きは、この途方もなく広大な監獄のシステムに組み込まれた、ほんの一瞬の「歯車の遊び」にすぎなかったのだろうか。


外の世界なんて最初からなかった。


朝の光も、鳥のさえずりも、すべてはこの館が用意した残酷な幻覚であり、この深い底へより確実に閉じ込めるための罠にすぎなかったのだ。


トトの名前を呼ぼうとしても、喉の奥はもう乾ききり、声すらない。


自分の右手首を掴もうとした左腕は、背後で固くねじ上げられたまま、冷たい痺れに覆われて感覚を失っていた。



ママの鏡の顔が、さらに近づく。


鏡面の奥に映るノノの瞳から、最後の一粒の涙が「ぽろり」と零れ落ち、鉄板の床へと落ちて消えた。


ギギギィィ……ン……。


頭上で、巨大な水銀燈が不気味な白熱光を一層強く放ち、ドームの中央を容赦なく照らし出す。


逃げ場のない監房の中で、ノノの小さな影は、完全にこの館の構造物の一部へと溶け込んでいった。


終わらない時間の監獄。


永遠の闇と、機械仕掛けの歯音に囲まれて、少女の意識はゆっくりと、けれど確実に取り込まれていく——


――チク、タック。ガチャン……。


狂ったような正確さで時を刻み続ける巨大な歯車の音が、錆びついたドームの空間を重く満たしていく。


冷たい鉄の椅子に幾重もの鎖で縛り付けられたノノは、もう身動きひとつできなかった。


ダッフルカッパの黄色いフードは深く下がり、その下にあるのは、音のない静寂と、冷え切った暗闇だけだった。


鉄格子の向こう側。


無数の「鏡の顔」や「水底の給仕たち」が、一言の物音も立てず、ただじっとこちらを見つめている。


その真ん中で、『鏡の顔のママ』がゆっくりと冷たい手を伸ばし、身動きのできないノノの小さな頬へと、その指先をそっと触れさせた。


凍てつくような冷たさが、皮ふを伝って脳の奥まで染み込んでいく。


――お帰り、ノノ。


――もう、どこにも行かないね。


どこからともなく響く無数の声が、ノノの意識の輪郭を優しく、そして冷酷に溶かしていく。


(……あぁ……)


心の中で、小さな声が消えた。


トトも、壊れた黄色い傘の感触も、自分で握りしめた右手首の温もりも、すべては時計仕掛けの砂のように、サラサラと音を立てて暗闇の底へと零れ落ちていく。


どこかで間違えた?いや、逃げ道など、最初からなかった。 ここは終わらない監獄であり、この館の最も深い底。


水銀燈の白熱光が、ガチャンと音を立てて最後にひと際強く明滅し――そのまま、プツリと消え去った。


完全な暗闇と、永遠の静寂の中。


ノノの小さな身体は鉄の椅子と完全に同化し、この狂った世界の新しい「歯車」の一つとして、静かに、永久に動き続けるのであった――






『お母さん、どこ?』


――完――


初の長編ご覧いただきありがとうございました。

最後までお読みいただけた方が何人いらっしゃるかわからないですが楽しんで頂けたのなら幸いです!


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