「婚約破棄された公爵令嬢ですが、無表情な氷の魔術師に『香草オイル』を塗ったら、何故か極上スープのように溺愛されています」
「エレナ・ローゼンバーグ! お前との婚約を破棄する!」
学園の大食堂に、婚約者であるヴィルフリート王太子の声が響き渡りました。
周りの生徒たちの冷ややかな視線が、一斉に私へと突き刺さります。
床にこぼれたトマトスープの赤い染みが、ドレスの裾をじわじわと汚していきました。
(……最悪。でも、これでやっとあの不味い宮廷料理を食べなくて済むのね)
「お前が聖女であるミリアに嫉妬し、彼女のスープに毒を盛ったことは分かっているのだ!」
ヴィルフリート殿下は、隣で怯える男爵令嬢の肩を抱き寄せ、勝ち誇った顔をしています。
私はゆっくりと立ち上がり、冷めかけたスープを一瞥しました。
この瞬間に、私の頭の中に前世の記憶が鮮烈に蘇っていたのです。
(……このスープ、毒じゃなくてただの『アク抜き不足の野生セロリ』が入っているだけなのに。相変わらずバカな舌ね)
ここは前世でプレイしていた、料理が壊滅的に発展していない世界の乙女ゲーム。
そして私は、王太子に嫌われて最後は修道院で飢え死ぬ悪役令嬢エレナ。
「殿下、私は無実です。ですが、そこまでおっしゃるなら喜んでこの国を去りましょう」
(……早くここを出て、前世で大好きだった美味しいスープを作って食べたいわ!)
「ふん、見苦しい言い訳はやめろ! 今すぐ北の最果て、凍てつく地の修道院へ連行しろ!」
ヴィルフリート殿下の命令で、私は着の身着のまま馬車に押し込められました。
北へ向かう馬車の中はガタガタと激しく揺れ、隙間風が容赦なく体温を奪っていきます。
私はドレスの隠しポケットに、学園の厨房からこっそり持ち出した「あるもの」が入っているのを確認しました。
(……ふふ、これさえあれば、どんなに凍える場所でも生きていけるわ)
それは、私が独自に開発した、ハーブとニンニクの旨味を凝縮した「特製香草オイル」の瓶。
この世界の人間は、肉や野菜をただ水で煮るだけの、泥臭いスープしか知りません。
馬車が北の領地に入った頃、外は激しい吹雪に変わり、ついに車輪が雪に沈んで動かなくなってしまいました。
(……あら、ここで飢え死ぬシナリオが発動しちゃうのかしら?)
「おい、乗客は無事か!」
突然、馬車の扉が荒々しく開け放たれました。
そこに立っていたのは、漆黒の毛皮を纏い、吹雪さえも凍りつかせるような冷たい瞳をした美男子。
彼こそが、この北の地を治める「氷の魔術師」と呼ばれるローガン公爵でした。
(……ゲームの隠しキャラ! 設定通り、ものすごく冷たそうで格好いい人!)
「お前が王都から追放された令嬢か。我が館へ来い。だが、我が領地では働かざる者は食うべからずだ」
ローガン様の声は、氷の割れる音のように冷徹でした。
私は彼に連れられ、石造りの頑丈な公爵城へと案内されました。
案内された厨房は広く立派でしたが、置いてある食材は乾燥した肉と、萎びた根菜だけ。
(……よし、私の腕の見せ所ね。凍えた体に最高の一皿を作ってあげるわ!)
「私は料理番として働きます。ローガン様、今夜の夕食は私に任せていただけますか?」
「……好きにしろ。王都のひ弱な令嬢に、この極寒の地で何ができるか見せてもらう」
ローガン様はフンと鼻を鳴らし、食堂の席に腰掛けました。
私はすぐに腕まくりをし、大釜に雪を溶かした水を入れて火にかけます。
硬い乾燥肉を細かく刻み、萎びた根菜は一度表面を強火で炙って甘みを引き出しました。
(……ここで隠し味の特製香草オイルをたらして、と。一気に香りが化けるわよ!)
大釜から、じゅわっと弾けるような香ばしいニンニクと、爽やかなバジルの香りが立ち上ります。
スープが黄金色に透き通り、肉の旨味がスープ全体に溶け出していきました。
私はそれをスープ皿に注ぎ、冷え切ったローガン様の前へと差し出しました。
(……さあ、王都の料理しか知らないあなたに、本当のスープを教えてあげる!)
「これは……何だ。妙な匂いがするな。本当に食べられるのだろうな?」
「お口に合うか分かりませんが、冷めないうちにどうぞ」
ローガン様は疑わしそうな目でスプーンを取り、スープを一口啜りました。
その瞬間、彼の切れ長の目が大きく見開かれ、スプーンを持つ手がピタリと止まります。
(……ふふ、驚いたかしら? 旨味の爆弾に脳が震えているでしょ!)
「……信じられない。肉の臭みが完全に消えて、体の芯から熱が湧き上がってくるようだ」
「気に入っていただけて良かったです。北の食材は、少し工夫するだけで化けるんですよ」
ローガン様は無言のまま、ものすごい勢いでスープを平らげていきました。
お代わりを求めて差し出された皿を受け取る時、彼の指先が私の手に触れます。
その手は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、ぽかぽかと熱を帯びていました。
(……可愛い。さっきまで氷の魔術師だったのに、今はただのお腹を空かせた大型犬みたい)
それから一ヶ月、私は毎日ローガン様にスープを作り続けました。
彼は相変わらず無表情でしたが、私のスープを飲む時だけは、耳の裏を少し赤くするのです。
ある日、厨房で新しいハーブの仕込みをしていた私の後ろから、大きな影が重なりました。
(……キャ、びっくりした! ローガン様、いつの間に後ろに?)
「エレナ、明日は王都から使者が来る。ヴィルフリート王太子が、お前を連れ戻すと言い出しているらしい」
ローガン様は私の肩を後ろからそっと抱きすくめ、耳元で低く囁きました。
その声には、隠しきれない焦燥感と、激しい独占欲が滲んでいます。
(……えっ、あのバカ王太子が今さら何の用? 私はここが最高に幸せなのに!)
「私は王都に戻るつもりはありません。ここでローガン様にスープを作っていたいのです」
「……行かせない。お前をあの無能どもに返してなるものか。お前は私の、専属の料理人……いや、妻になるべきだ」
ローガン様の氷のような瞳が、熱い情熱を孕んで私を見つめています。
気づけば私は、彼の逞しい腕の中にすっぽりと閉じ込められていました。
(……まさかの求婚!? 破滅フラグを回避したら、超絶イケメン公爵に溺愛されるルートに入っちゃった!)
翌日、王都からの使者と共に、なぜかヴィルフリート殿下本人が公爵城に乗り込んできました。
殿下の顔はげっそりと窶れ、かつての傲慢な輝きはどこにもありません。
「エレナ! 探したぞ! お前が去ってから、宮廷の料理がすべて泥水のように不味くなったのだ!」
(……それは私が厨房の調味料の比率を正常に直していたのを、元に戻したからよ)
「ミリアが作ったスープなど、味がなくて飲めたものではない! 頼む、戻って私にスープを作ってくれ!」
ヴィルフリート殿下は床に膝をつき、私のドレスの裾に縋り付こうとしました。
しかし、その手は届く前に、ローガン様が放った冷徹な魔力によって凍りつかされます。
(……ざまぁみろ、とはこのことね。私のスープの価値に気づいても、もう遅いわ)
「我が婚約者に無礼を働くな、元婚約者殿。彼女のスープは、私の血であり肉だ。一滴たりとも渡さない」
ローガン様は私を背中に隠し、王太子を冷たい眼差しで見下ろしました。
「エレナ、最後に一つだけ聞かせてくれ」と、ヴィルフリート殿下は悔しそうに私を睨みます。
「お前、あの学園の夜、私のスープにだけ毒を入れなかったのは何故だ!? 私への未練か!?」
(……あ、まだあの勘違い続けてたんだ。よし、ここで本当のことを教えてあげるわ)
「殿下、勘違いしないでください。私はあなたのスープにだけ『美味しいオイル』を入れなかったのです」
私は冷ややかに微笑み、隠し持っていた香草オイルの瓶を突きつけました。
「他の方々のスープには、私が毒消しを兼ねた旨味オイルを入れて、あの不味い宮廷料理を食べられるようにしていました。つまり、あなたが『毒が入っていない』と言ったあのスープこそが、この国で最も手抜きの、素材そのままの『泥水スープ』だったのですよ」
(……要するに、あなたは一番不味いものを美味しいと言って、私を追い出したの。おバカさんね)
「な、何だと……!? では、私が聖女と崇めていたミリアのスープが不味いのは……」
「ええ、彼女がただ料理下手なだけです。私は最初から、誰も毒なんて盛っていません」
ヴィルフリート殿下は絶望に顔を歪め、その場に崩れ落ちました。
真相を知った王都の使者たちは、殿下のあまりの愚かさに呆れ果て、彼を抱え上げて早々に退散していきました。
(……これで本当に、すべての因縁が片付いたわね。スッキリしたわ!)
静かになった食堂で、ローガン様が私の手を優しく取り、その甲に深く口づけを落としました。
彼の瞳には、もう出会った頃の冷たさは微塵もありません。
「素晴らしい『仕込み』だったな、エレナ。さあ、冷えないうちに、私だけの特製スープをいただこうか」
(……もう、そんなに甘い顔で見つめられたら、スープより先に私が溶けちゃいそう!)
外は相変わらず激しい吹雪でしたが、公爵城の食堂だけは、黄金色のスープの湯気と、二人の甘い熱気でどこまでも温かく満たされていました。




