第8話 御簾の内、初めての花
六条御息所邸に仕えて、まだ数日。
紗世は、自分の「飾り髪」の腕を、意図的に抑えていた。
仕事のない時間、せいぜい寝る前に、仲の良くなった女房たちに試しに結ってやる程度である。
この屋敷の美の頂点は、あくまで六条御息所。
主人を差し置いて、女房たちが華やぐなど、あってはならない。
――と、頭では分かっているのだが。
「ねえ紗世、少しだけでいいから。」
「この簪、どう使うの?」
「その布、和泉国では流行ってるの?」
日が落ち、灯がともり、女房の務めがひと段落すると、なぜか自然と人が集まってくる。
簪。
飾り布。
乾かした花を薄絹で包んだもの。
用途の分からぬ形の細工。
彼女たちは鏡を見るより先に、道具を覗き込み、触り、ひそひそと声を潜めては目を輝かせる。
「これ、どうやって留めるの?」
「頭、重くならない?」
「都の流行……ではないわよね?」
「和泉国の、です」
紗世がそう答えると、決まって少しざわめきが起きた。
「地方って、自由なのね。」
「都じゃ、こんな形は怒られるわ。」
そう言いながらも、彼女たちは笑っている。
紗世は、派手に結わず、崩しすぎず、ほんの少しだけ変わった形を選んで結った。
――これ以上は、踏み込まない。
そう、自分に言い聞かせながら。
ある日の昼下がり、六条御息所邸に一通の文が届いた。
差出人を聞いた瞬間、空気がわずかに変わる。
源氏の君。
文は御息所の御前に届けられ、しばし静寂が落ちた。
女房たちは視線を伏せ、誰も言葉を発しない。
やがて、御息所が静かに文を置く。
「……和泉。」
名を呼ばれただけで、紗世の背筋が伸びた。
「はい。」
「こちらへ。」
御簾の内から聞こえる声は、相変わらず落ち着いていて、柔らかい。
だが、その奥に、微かな張りがあった。
「二日後、源氏の君がお見えになる。」
紗世の胸が、どくん、と大きく鳴る。
「若い方ゆえ、珍しいものや、真新しいものを好まれると聞く。」
文面を思い出しているのか、御息所は少し間を置いて続けた。
「その折に、私の飾り髪を結ってもらいたい。
ただ一つではなく、いくつか試したいのだが……どのような形が良いか、あなたの考えを聞きたい。」
一気に、緊張が押し寄せた。
六条御息所の髪を結う。
それだけでも、女房としては大役だ。
――その上。
二日後。
源氏の君が来る。
もしかしたら、御簾の向こう。
もしかしたら、すれ違いざま。
もしかしたら、姿さえ見られないかもしれない。
それでも。
「光源氏」
その名だけで、紗世の中の何かが、はっきりと輪郭を持つ。
ここが――
間違いなく、「源氏物語」の世界なのだと。
「……承りました。」
声が震えないよう、息を整えて答える。
御簾の向こうで、御息所が小さく微笑んだ気配がした。
「また後ほど飾り髪の試し結いの時間を伝えます。頼りにしているわ、和泉。」
その一言が、妙に重く、そして逃げ場のないものとして、紗世の胸に落ちた。
(……守らなきゃ。)
なぜか、そんな思いが浮かぶ。
美しく、気高く、そして危ういこの人を。
そして、これから交わることになる――
源氏の君という、物語そのものから。
二日後まで、猶予はない。
紗世は深く一礼し、御前を下がった。
その足取りは、わずかに早くなっていた。
――寝る前、誰かがまた来るだろう。
今夜は、きっと。
準備を始めなければならない。
翌日、午後。
紗世は、簪や櫛を収めた道具箱と、飾り布や花飾りを詰めた箱を両腕に抱え、六条御息所の部屋へと向かった。
重い。
物理的にも、精神的にも。
(これ落としたら人生終わるやつ。)
そんな不吉な思考を振り払いながら、呼び入れられるのを待つ。
「……和泉、入りなさい。」
御簾の内から、静かな声。
「失礼いたします。」
畳に膝をつき、そっと御簾をくぐる。
胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。
呼吸を整えながら、御息所の背後へと回った。
――顔、見たい。
しかし、いきなり直視など論外である。
女房として、礼儀として、何より命として。
「源氏の君とお会いになるのは、御簾ごしとのことですので……。」
声が震えないよう、言葉を選ぶ。
「後ろを飾り髪にしても、お目に入らぬでしょう。肩の前にいくらか髪を垂らし、それを飾る方がよろしいかと存じますが、いかがでしょうか。」
一瞬の間。
「……まずは、和泉が思うように。」
その言葉に、背中がぴん、と伸びた。
「かしこまりました。」
肩の前に垂らした髪を飾るため、御息所の斜め前へと移動する。
「失礼いたします。」
視線は伏せたまま。
伏せた、まま――だったはずなのに。
一瞬。
六条御息所の顔が、視界に入った。
(……あ。)
平安特有の、白粉をたっぷりと塗った顔。
シミも、シワも、全て覆い隠す厚化粧。
現代感覚の紗世からすれば、正直なところ、
(厚化粧……もったいない……。)
と思ってしまう。
だが。
よく見ると。
(あ、目、二重だ。)
(鼻の形、きれい。)
(口……おちょぼにしてる感あるけど、唇薄すぎない。)
(これ、現代メイクしたら……。)
――美人では?
内心がざわつく。
(絶対、素材いいのに!)
(白粉減らして眉もうちょい自然にしたら――)
危険な思考を、全力で押し戻す。
(だめだめだめ、今は仕事。)
そっと髪に触れ、質を確かめる。
(……手入れ、完璧。)
絹のような髪。
年齢を感じさせない艶。
これを崩さず、しかし変化をつける――
難易度が一気に跳ね上がった。
(……ふぅ。)
紗世は静かに指を動かし始めた。
肩の前に流した髪を三つに分け、細く、丁寧に三つ編みにする。
編み目は詰めすぎず、柔らかく。
そこへ、小さな花をあしらった極小の簪を、散らすように挿す。
まるで、三つ編みに小さな花が咲いているように。そして、三つ編みの終わりには控えめな色と大きさの房飾り。
「……。」
御息所が、わずかに息を呑んだ気配がした。
「想像していたより……控えめで、品がある。」
「御簾ごしですので、動いた時に揺れる程度がよろしいかと。」
「……なるほど。」
しばし沈黙。
(今、評価されてる……。怖い……。)
やがて、御息所が静かに言った。
「源氏の君が、目を留めるかもしれないわね。」
その言葉に、紗世の心臓が嫌な音を立てた。
(やめて。それ褒め言葉だけどプレッシャー。)
だが、口元は完璧に平静。
「恐れ入ります。」
御息所は、ほんの少しだけ笑ったようだった。
「もう一つ、試してみましょう。」
――逃げ道は、もうない。
紗世は内心で深く息を吸い、
次の飾り髪の構想を、必死で組み立て始めた。
明日。
源氏の君が来る。
物語が、確実に動き出していた。




