第7話 そして六条御息所邸へ
出立前夜の和泉国・藤原家は、戦場だった。
「紗世!その箱は何!?」
「それは飾り布!捨てないで!」
「いや、その量は持って行き過ぎです!」
女房と母の声が、交互に飛ぶ。
部屋の中央には、
布。
布。
布。
そして簪。
簪。
簪。
(……これ、引っ越しじゃなくて開業準備では?)
「都ではね、荷は最低限よ。」
母がきっぱり言う。
「向こうは格式第一。
派手すぎるのは嫌われるわ。」
「分かってる、分かってるって!」
紗世は布を一枚持ち上げる。
「これは控えめ用。」
「これはもっと控えめ用。」
「これは……万が一用。」
「万が一が多すぎます!」
女房が悲鳴を上げた。
「紗世様、この簪箱、もう閉まりません!」
「閉めるんじゃない、詰めるの。」
(パズル感覚。)
そこへ父が顔を出す。
「……お前、女房として行くんだよな?」
「はい。」
「……飾り髪職人としてではなく?」
「はい。」
床に転がるU字簪の試作品。
「……。」
父は何も言わなかった。
「父上。」
紗世は真顔で言った。
「これはあくまで、“嗜み”です。」
「嗜みの量ではない。」
夜が更けるにつれ、準備はさらに混沌を極める。
「その布は!」
「色が地味すぎる!」
「いや都では地味が正義!」
「この花飾りは?」
「椿は持って行って!」
「藤は?」
「藤も!」
「全部じゃない!」
真砂が小さく手を挙げる。
「……紗世様。」
「なに?」
「里帰りしたらまた、髪、結ってくれますよね?」
(……あ。)
紗世は一瞬、言葉に詰まる。
「……さすがに、今までみたいには無理だもんね。」
「……。」
「でも。」
紗世は真砂の頭をぽん、と叩いた。
「また結おう。帰ってきたら。」
真砂はにこっと笑った。
「はい。」
母がその様子を見て、少しだけ目を伏せる。
「……無理はしないでね。」
「うん。」
「都は、噂も早いし、目も厳しい。」
「分かってる。」
父が最後に言った。
「お前は、行って、学んで、戻ってこい。」
「はい。」
そうして迎えた、出立の朝。
牛車の前。
荷は――
「多すぎでは?」
「最低限です。」
「絶対違う。」
紗世は振り返り、屋敷を見た。
(ここで流行って、ここで守られて……)
一瞬だけ、胸が詰まる。
そして、にっと笑う。
「行ってきます。」
牛車が動き出す。
中で紗世は、小さく呟いた。
「……生きて帰ろ。」
和泉国の屋敷では、誰も知らなかった。
この“最低限の荷”が、
やがて都をざわつかせることを。
牛車に揺られに揺られ、身体が完全に板になった状態で六条御息所邸に到着した紗世は、
(もう一生分、揺れた気がする……。)
という感想を胸にしまい込み、
案内された女房の大部屋で静かに正座していた。
周囲から、ひそひそ声。
「……あの人?」
「和泉国から来たって。」
「噂の飾り髪の……?」
「……髪、普通じゃない?」
(うん、今日は普通です。初日で盛るほど命知らずじゃないです。)
そう、今日はあえて何もしていない。
我が家ではない。
ここは格式と規律の塊、六条御息所邸。
(初日は“無難”が最強。)
……のはずだった。
「和泉の君。」
古参女房に呼ばれ、気づけば御簾の前。
御簾の向こうに姿は見えない。
だが――声。
「長旅、ご苦労様でした。」
(あ、これ……絶対美人の声。)
「今日より、そなたはこの屋敷の女房。
知性と品格を忘れず、励みなさい。」
「かしこまりました。和泉守が娘、誠心誠意お仕えいたします。」
ここまでは完璧。
……しかし。
「……ところで。」
来た。
来てしまった。
「そなたは、“飾り髪”なるものを結うと聞きましたが。」
(初日から本題!?)
「今、結うことはできますか?」
(できますけど!!!初日から!?)
紗世は一瞬だけ天を仰ぎ、即座に現実へ戻る。
「道具を取って参れば。」
「そう。」
御簾の向こうの声は淡々としている。
「では、この二人の髪を結ってみなさい。」
隣に座らされたのは、
・十代半ば、緊張で固まっている若い女房
・三十代半ば、悟った顔の落ち着いた女房
(年齢差えぐいな!?テスト厳しすぎない!?)
まずは若い女房。
(この子は、華やか担当。)
左右の髪を取り、編み込み開始。
「えっと、ちょっと引っ張られますか……?引っ張られて痛いとかは、ないですか?」
「大丈夫。逃げません。」
「?」
やや太めに編んだ三つ編みを後ろで合わせ、
椿飾りの簪で固定。
「……え?」
女房がきょとんとする。
「……引っ張られてないのに、留まってます。屈んでも横の髪が落ちてきません。」
「留まるように留めてます。」
(ドヤ。)
周囲の女房たちがざわつく。
「後ろだけなのに……。」
「左右の三つ編みが模様みたいで可愛い……。」
次に三十代半ばの女房。
(この方は、盛ると事故る。)
髪を整え、低い位置でまとめ、
U字簪を一本。
布は最小限。
「……あら。」
鏡を見た女房が、ぽつり。
「……何も足してないのに、きちんとしてる。」
「足すと疲れて見えますので。」
(人生も同じです。)
沈黙。
そして、御簾の向こう。
「……なるほど。」
声が落ちた瞬間、室内の空気が変わる。
「同じ“飾り髪”でも、結い分けるのですね。」
(ですよねー!!)
「和泉の君。」
呼ばれて背筋が伸びる。
「流行を見せびらかす者かと思いましたが……違うようですね。」
(よし、減点は免れた。)
「しばらくは、普通の女房として勤めなさい。」
(普通……!?普通じゃないバージョンあるの?でも、とりあえずは生き残った……!)
「必要があれば、また呼びます。」
「かしこまりました。」
下がった瞬間、紗世は心の中でガッツポーズ。
(緊張したー!初日でクビは免れたー!!)
その夜。
女房の一人が小声で言った。
「……和泉の君。」
「はい?」
「明日、私の髪も……。」
(あ、これ増えるやつだ。)
紗世は悟った。
六条御息所邸での生活は、
静かに、しかし確実に忙しくなる。
そしてきっと――
(光る君が来る時は……呼ばれるかもな。)




