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第61話 決意はまだ、未熟

沈黙ののち。


「……分からぬ。」


そう言ったはずの

源氏の君は、しかし目を閉じたまま続けた。


「だが」


紗世、視線を上げる。


「分からぬからといって、何もせぬのが正しいとも思えぬ。」


「……。」


「この都で、後ろ盾のない姫がどうなるか、和泉殿も知っておろう。」


声は低い。


理屈を盾にしているが、その奥に熱がある。


「私は、あの子を不幸にしたくない。」


「不幸に?」


「母上のように。」


その一言で、空気が揺れる。


紗世はわずかに眉を寄せる。


「母上は、不幸でしたか?」


源氏の君は即答できない。


「……守れなかった。」


「誰が?」


「帝が。」


紗世、少し間を置いて。


「そして、あなたは守れると?」


源氏の君は目を開ける。


「守る。」


強い。


理屈ではない。決意。


「母上を守れなかった帝とは違う。」


「……。」


「私は、守る側になる。」


紗世はしばらく黙る。


(ああ。)


これは母の代替ではない。


救済のやり直しだ。


「では」


静かに言う。


「守ると決めたなら、最後まで守ってください。」


「もちろんだ。」


「途中で“懐かしくなくなった”からといって、手放さぬように。」


源氏の君、ぴくりとする。


「私はそのような男か。」


「今は、まだ分かりません。」


視線がぶつかる。


しばしの緊張。


やがて紗世は言う。


「北の方様に、話してください。」


「……」


「それが守るということの第一歩です。」


源氏の君は扇を握りしめる。


未練と決意が混ざる顔。


「……考える。」


まだ、完全には決めきれていない。


けれど、引き返す気もない。


未練は、欲に変わりかけている。



左兵衛尉(惟光)邸──


「帰ったぞ。」


低い声とともに几帳が揺れた。


文机に向かっていた惟成が顔を上げると、

父・惟光が立っている。


「お帰りなさいませ。」


慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。


近づいてきた惟光は、どさりと惟成の向かいに座を崩す。


その顔色を見て、惟成は眉を寄せた。


「……どうかなさいましたか。ひどくお疲れのようですが。」


惟光は小さく息を吐く。


「源氏の君の“発作”が再発した。」


「!?」


惟成が顔を上げる。


「源氏の君は、何かご持病を?」


「いや。お前が思うような病ではない。」


そう言って、文机の上を指さす。


そこには山のような姫君たちの恋文。


「……ああ。」


惟成は察した。


「今回は、どちらの姫君で?」


惟光は一瞬、言い淀む。


「……十ほどの姫だ。」


「十歳!?」


声が裏返った。


「それは……私より下ではありませんか。一体どちらで——」


「北山だ。先日、参った折にな。」


惟光は続ける。


「出自は高い。しかも——母上に似ておられるそうだ。」


惟成は言葉を失った。


「……それでも。」


納得はできない、という顔だ。


「さらに驚くのはな。」


惟光が苦笑する。


「その相談を、御息所様のところの和泉殿にしたのだ。」


「な……なぜ和泉殿に?」


「源氏の君曰く、“和泉殿は常に人と違う角度から物を見る。聞いてみたい”と。」


惟成の脳裏に、牛車から飛び降り、呪詛を自力で弾き、恋文の添削を容赦なく自分に行わせる紗世の姿が浮かぶ。


「……確かに。」


小さく呟く。


「むしろ、もう少し常識を意識していただきたいほどですが。」


惟光は声を立てて笑った。


「ははは。そこが和泉殿の良さでもあるのだろう。」


しかしすぐに、その表情が引き締まる。


「それにしても和泉殿は……本当にお前と同年か?」


「どういう意味です?」


「和泉殿の言葉があまりにも大人びていてな。源氏の君に真正面から問うたのだ。」


惟光はゆっくりと言葉を選ぶ。


「北山の姫を引き取りたいのは“保護”か、それとも“母の面影を持つ姫が欲しい”のか、と。」


惟成の背筋が伸びる。


「……保護か、欲求か。」


「そうだ。」


惟光はうなずく。


「そして保護だと言うなら、途中で手放すな。北の方にも話せ、と。」


惟成は思わず口を押さえた。


「……それは本当に、御息所様のところの和泉殿で? 当家の和泉ではなく?」


「ははは。お前もそう思うか。」


惟光は肩を揺らして笑う。


「ましてや相手は源氏の君だ。」


ひとしきり笑ったあと、ふと真顔になる。


「どうしました?」


惟成が問う。


「いや……考えてみればな。」


惟光はゆっくりと言った。


「和泉殿は、源氏の君の“対象”に上がらぬな、と。」


惟成の胸が、どくりと鳴る。


「和泉殿も裳着を済ませた女人だ。これだけ顔を合わせ、相談まで持ちかける仲だ。——意識が芽生えても、不思議はあるまい。」


視線が自然と落ちる。


(源氏の君が……紗世を?)


思い返す。


二人のやり取り。

あの空気。


(そんな様子は……)


惟光はちらりと惟成を見る。


「これまでは、他の女人の相談ばかりでな。和泉殿“そのもの”を見てはおらぬ。」


一拍。


「だが、もし一度でも、きちんと向き合ったら——」


口元がわずかに緩む。


「……色々と、早いかもしれぬ。」


「は……早い、とは。何が、ですか。」


惟光は曖昧に笑う。


「まあ、色々だ。」


惟成は答えられない。


無意識のうちに筆を握りしめていた。


ぽたり。


墨が一滴、書きかけの文に落ちる。


「ほら、さっさと返事を書け。明日は早いのだろう。」


背を軽く叩かれる。


「……はい。」


だが、文面は一向に浮かばなかった。


頭にあるのは、ただ一人。


紗世の、凛とした横顔だった。


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