第60話 重ねる面影
────六条御息所邸、別室
「……源氏の君。御息所様のお部屋ではなく、この別室で私にお話とは、なんでございましょう?」
紗世はきっちりと正座し、無表情で言った。
(御息所様抜きってことは、十中八九、女絡みでしょ。)
向かいに座る源氏の君は、珍しく歯切れが悪い。
「う……うむ。ええと……和泉殿。もしもの話だ。」
「はい。」
「もしも、身寄りのない子供を見かけたら、どうする?」
「……は?」
あまりに唐突で、紗世は素で聞き返した。
「身寄りのない子供って……何歳くらいですか? 幼児? まさか赤子?」
「いや、十歳くらいだ。」
「十歳。」
紗世は首を傾げる。
「私とほぼ歳が変わらない気がするので、“どうする”と言われても……。」
「では質問を変える。」
源氏の君は身を乗り出した。
「もし、私がその子を引き取る、と言ったらどう思う?」
「どう思うって……。」
紗世は瞬きを二回。
「特になにも。良いことじゃないですか?」
「良いことと思うか!?」
ぐい、とさらに身を乗り出す。
(この瓜、なんでこんなに必死なの。)
紗世はようやく違和感を覚えた。
(十歳くらい。幼な子。引き取る……?)
――あ。
(若紫──のちの紫の上か!)
一気に繋がった。
(なにそれ。あの子の話を、なぜ私に。)
内心で盛大に混乱しながらも、表情は崩さない。
紗世はすっと姿勢を正した。
「ちなみに。その子供は、男児ですか? 女児ですか?」
一拍。
「……女児だ。」
「なるほど。」
ほぼ確定。
「北の方様は、何と?」
「こんなこと、北の方に相談できるわけなかろう!」
即答だった。
紗世、ゆっくりと瞬きをする。
「なぜです?」
「なぜとは……」
「身寄りのない子を引き取る。保護が目的なのでしょう?」
「う、うむ。」
「保護であるなら、伴侶である北の方様にも了承を得なければ。」
間。
「もう一度お聞きします。」
紗世は淡々と続けた。
「保護、が目的ですよね?」
「そうだ。」
即答だが、声がわずかに固い。
「では、なぜ北の方様に相談できないのです?」
固まる源氏の君。
「…………。」
「なぜ、固まっているのです?」
「固まっておらぬ。」
「ではもう一度。」
容赦がない。
「保護、が目的ですよね?」
「……うむ。」
「ほんとに?」
「ほんとだ。」
「万が一」
紗世は少し身を乗り出す。
「保護が第一の目的でなければ、私の意見は全て裏目になります。」
沈黙。
「北の方様、ぶちぎれ案件になりますよ。それでも?」
源氏の君、言葉を失う。
別室の空気が、やや重くなる。
紗世はじっと見つめた。
逃がさない目。
源氏の君は、扇を握る手に力を込める。
「……私は」
その先が、続かない。
一度、視線を逸らす。
「その子を憐れと思った。」
「はい。」
「祖母も老いている。後ろ盾がなくなれば、行く末は心もとない。」
「はい。」
理屈は整っている。
だが、続かない。
紗世は黙っている。
沈黙が、源氏の君の背を押す。
「……それに」
「それに?」
小さく息を吸う。
「亡き母に、似ている。」
言った瞬間、自分で驚いたように目を伏せた。
別室が、しん、と静まる。
紗世は瞬きを一つ。
(ああ、そこか。)
「顔立ちが、ですか?」
「……ああ。」
「雰囲気?」
「それも。」
「声?」
「……まだ、よく知らぬ。」
紗世、そこで少し首を傾げる。
「では、何が似ていると?」
源氏の君は答えに詰まる。
「……そこにいると、懐かしいのだ。」
ぽつり、と落ちた本音。
「胸の奥が、ほどけるような。」
紗世の目が、わずかに柔らぐ。
だが次の言葉は、やはり淡々としていた。
「それは」
間。
「その子が“誰かに似ている”からですか。」
源氏の君は顔を上げる。
「それとも、源氏の君が“似ていてほしい”のですか。」
ぴたり、と動きが止まる。
紗世は続ける。
「十歳の子供は、まだ誰の形にもなります。」
静かに、しかしはっきりと。
「母上の面影を重ねることもできるし、理想の姫に育てることもできる。」
源氏の君の喉が、わずかに鳴る。
「でもそれは、その子の形ではなくなります。」
沈黙。
「源氏の君。」
紗世は真正面から見た。
「その子が母上に似ていなくても、懐かしくなくても、思い通りに育たなくても。」
一拍。
「それでも、保護できますか?」
源氏の君は答えない。
答えられない。
扇の端が、わずかに震える。
やがて、低く。
「……分からぬ。」
紗世は小さく息を吐いた。
(正直ではある。)
「では」
すっと姿勢を戻す。
「分からないまま、引き取らない方がよろしいかと。」
「……冷たいな。」
「冷たいのではなく」
目を細める。
「その子が十歳だからです。」
源氏の君は、ゆっくりと目を閉じた。
“懐かしい”という感情が、じわりと疼く。
だが今、それが何なのかを、初めて疑わされた。
別室の外で、風が鳴る。
母ではない。
懐古でもない。
それでも――欲しい。
その感情を、まだ名前にできずにいた。




