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第6話 翌朝、姫は平静を装う(心中は戦場)

その夜、紗世はほとんど眠れなかった。


(六条御息所……六条御息所……六条御息所……。)


 目を閉じるたびに


 生霊・嫉妬・御簾の向こう・恨み言


 と、ろくでもない単語が脳内を行進する。


しかし翌朝。


紗世はきっちり起き、顔色ひとつ変えず、髪も昨日と同じように整えて朝餉の席についた。


 ――紗世姫は、平静である。

 少なくとも外から見れば。


父・和泉守藤原兼成は、いつも通り粥を口に運びながら、娘をちらりと見た。


「昨夜は、よく眠れたか。」


「はい。とても。」


 即答。

 なお、実際は一刻も眠れていない。


(今だ……今しかない……!

 自然に聞くんだ……!)


紗世は箸を置き、ほんの少し首を傾げた。


「父上。昨日、お話に出た……都のお方のことなのですが。」


声は落ち着いている。

完璧に“何気ない娘”。


「六条の御息所様のお屋敷、でしたよね。」


「うむ。そう聞いている。」


 父は特に疑いもせず頷く。


(まずは基本情報を聞き出さないと……!)


「六条御息所様とは、どのようなお方なのでしょうか。」


(頼む!“お優しい”とか“穏やか”とか“最近は静かにお過ごし”とか、そういう情報、来い。)


父は少し顎に手をやった。


「高貴で、教養高く、美貌でも知られておるな。」


(うんうん、それは知ってる。)


「元は皇族で、都でも一目置かれる存在だ。」


(身分高すぎ問題。)


「和歌の才もあり、女房たちの教育にも厳しいと聞く。」


(教育熱心、ね……。)


「その……。」


紗世は少し考える素振りをしてから、あくまで学問的好奇心ですという顔で続けた。


「御息所様は、最近、どなたかと……お親しくされているとか、そういったお話は…。」


父は「ああ」と軽く笑った。


「噂というほどでもないがな。

先日紗世にも話しただろう。美しいものに目が行くという光る君、あの方が六条御息所邸に出入りしていると最近話題になっておる。」


紗世の心臓が一拍、強く打つ。


「光る君が?六条御息所さまとはお年が近いのですか?」


(頼む父上、年齢を、年齢を言ってくれ。)


「いや若い。まだ元服して間もない頃だそうだ。」


(よし!!!!!まだ!!まだ!!

 まだ少年寄り!!!!)


 紗世は内心で拳を握りしめた。


「では……。」


 声は、あくまで柔らかく。


「御息所様とは、まだ……深いご関係では?」


「そこまでではあるまい。」


 父はあっさり言った。


「御息所様も年嵩だ。話し相手として楽しまれている、という程度だろう。」


(勝った!!!!

 今のところ、世界線はまだ無事!!!!)


 紗世は、にこりと微笑んだ。


「そうなのですね。

 それなら……安心いたしました」


「何を安心する?」


「いえ。

高貴なお方同士のことですから、色々と……大変かと。」


 父は「はは」と笑った。


「お前は余計な心配をするな。

 まだ都でも、噂になり始めたばかりだ」


 ――噂になり始めたばかり。


 その言葉に、紗世は背筋を正した。


(つまり……

 今が分岐点。)


 父が席を立った後、紗世はそっと息を吐いた。


(よし。

 六条御息所は、まだ“穏やか”。

 光源氏は、まだ“少年”。)


 ――ならば。


(ここから先、恋にしなければいい。)


 紗世は静かに決意した。


この世界を、恋愛絵巻ではなく、ホラー絵巻にしないために。






六条院の奥は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。


六条御息所が女房を新たに募ったのは、特別な理由があったわけではない。


年替わりを前に、年若い者と妙齢の者、数名を入れ替える――


それだけの、どこにでもある話だった。


候補は数人。


家柄に不足はない者。

手習いが達者な者。

気立てが穏やかな者。


その中に、ひとつだけ少し変わった触れ込みがあった。


――「飾り髪を結うと評判の姫」。



「……和泉国、ですか。」


穏やかな声だった。


対して、控えていた女房は一歩進み、慎重に言葉を選ぶ。


「はい。近頃、和泉国で評判の姫がおりまして。

女房や使用人の髪を美しく結い、飾るとか。」


六条御息所は、ほんのわずかに眉を動かした。


「髪を……飾る?」


「はい。編み込みを用い、簪を工夫し、布を添えるなど……。

都でも、噂になり始めております。」


六条御息所は、文から視線を上げた。


「……髪は、垂らしてこそ美しいもの。

昔より、それは変わらぬ理でありましょう。」


きっぱりとした言葉だった。


女房は一瞬ためらい、それでも続ける。


「仰る通りでございます。

 ただ……」


「ただ?」


「“光る君”は、まだお若うございますゆえ。」


その名が出た瞬間、室内の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。


六条御息所は何も言わない。

女房は、さらに言葉を重ねた。


「近頃は、新しいもの、珍しいものにも目を留められるご様子。

装束の色合わせ、香の調合、女房の立ち居振る舞い……流行に敏いお方、とも申せましょう。」


六条御息所の指が、几帳の縁を軽く押さえる。


「……流行、ですか。」


「はい。

和泉国の姫の飾り髪は、ただ奇をてらったものではなく、品を失わず、しかも目を引くと聞いております。」


一拍。


「もし、一度ご覧になれば。

 話の種にもなりましょうし……。」


女房は、そこで一瞬言葉を切り、

ほんの少しだけ、声を落とした。


「“光る君”のお話相手としても。」


六条御息所は、しばらく黙していた。


――話し相手。


その言葉は、胸の奥に、静かに沈んでいく。


(若い方。まだ、世の華やかさを面白がる年頃……。)


六条御息所は、自分がそれを咎める資格を持たぬことを、よく知っていた。


(私が古いのだ、と言われれば。それもまた、否めぬ。)


だが。


(だからといって、流れに目を閉じるのは――。)


六条御息所は、ゆっくりと息を吐いた。


「……一度、会ってみるのも、悪くはありませんね。」


女房の顔が、ぱっと明るくなる。


「では……!」


「ただし。」


六条御息所は、はっきりと釘を刺した。


「流行に溺れた者は、不要です。

 品と節度を忘れぬ姫であること。」


「心得ております。」


「和泉国の父君へ、丁重に話を通しなさい。」


そう言って、六条御息所は再び文に視線を戻した。


しかし、その目は、もう文字を追ってはいなかった。


(髪を飾る姫……。若い方の目に、どう映るのか。)


その答えを、自分でも確かめたくなっていることを、六条御息所は、まだ認めてはいなかった。


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