第59話 北山の童女
───北山のとある寺。
初夏の日差しが、青々とした木々を照らしていた。
その日、源氏の君は、呪詛を受けた葵の上の加持祈祷のため、北山の寺に滞在していた。
都を離れ、しばしの静養。
「北の方、疲れてはいないか?」
「ええ。源氏の君が、良くしてくださいますから、疲れなどございませんわ。」
並んで庭を歩く二人。
都では常に張り詰めていた空気も、ここでは幾分やわらいでいる。
「都の喧騒とは違い、ここは静かで穏やかな時間が流れていますね。」
源氏は山の稜線を見やった。
すると、幼い子どもたちの声がした。
「あの声は……?」
「子どもたちでしょう。皆で遊んでいるようだ。」
その無邪気な響きに、源氏はかすかに目を細める。
葵の上は垣根の隙間から、そっと中を覗いた。
童女が二人、庭を駆け回っている。
すると──
「あーー!犬君が雀の子を逃がしちゃった!!」
甲高い声が響く。
もう一人の童女が立ち尽くす。
「なんで……なんで逃がしちゃったの?せっかく可愛がっていたのに……。」
声が震え、今にも涙が零れそうだ。
「あらあら……泣きそうですわ。」
「おや。それはいけないね。どの子だい?」
源氏の君も垣根に近づき、そっと覗く。
一瞬。
彼の表情が止まった。
「……ん?」
「どうされました?」
葵の上が振り返る。
源氏の君は目を細めたまま、動かない。
「………似ている………?」
童女は涙をこらえながら、逃げた雀の行方を見つめている。
その横顔。
額の形。
伏せた睫毛。
泣き出す寸前の唇。
(……母上……?)
胸の奥が、強く脈打つ。
それは亡き桐壺更衣の面影。
幼い日の記憶が、鮮やかに蘇る。
「どなたに似ているのか、分かったのですか?」
葵の上が不思議そうに問う。
源氏の君は一瞬で表情を整えた。
「ああ、いや……なかなか思い出せないな。」
わずかに笑う。
「そろそろ疲れたろう。戻ろうか。」
葵の上の背に、そっと手を添える。
その手は、微かに強張っていた。
⸻
その夜。
源氏の君は側近の惟光を呼び寄せた。
「昼間、寺の隣家で泣いていた童女がいたな。」
「は。」
「身元を調べよ。」
「……何か?」
源氏の君は短く言う。
「面影があった。」
それ以上は語らない。
惟光は静かに頭を下げた。
北山の夜は静かだ。
だが、源氏の君の胸中には、かつて失ったものへの渇きが、じわりと灯り始めていた。
それが、偶然なのか。
運命なのか。
それとも――
再び何かを“求めてしまう”心の兆しか。
山の闇が、深く沈んでいく。
───
「北山の童女は、藤壺様の姪に当たられる方で、若紫様とおっしゃるそうです。」
惟光は淡々と報告した。
「若紫様の母君はすでに亡くなっており、現在は北山の邸で祖母君とお暮らしとのこと。」
「……そうか。」
源氏の君は扇を閉じた。
「藤壺様の姪、か。」
(藤壺様は、母上に似ているという理由で入内なさった方だ。
ならば、その姪が母上に似ていても……不思議はない……理屈としては……。)
惟光は続ける。
「それと、祖母君ですが、ここ最近ご体調を崩されることが増えたとか。」
「……ほう。」
源氏の君の目が、すっと細くなる。
(祖母が亡くなれば、後ろ盾は……。)
そこまで考えて、はっとする。
(いやいやいや。)
「私は何を考えているのだ。」
思わず声に出た。
惟光が瞬く。
「は?」
「いや、何でもない。」
扇で口元を隠す。
(落ち着け。私はただ、幼子を案じているだけだ。憐れみだ。高貴なる憐れみ。母上の面影など、関係ない。)
三回ほど心の中で言い訳した。
だが四回目は言えなかった。
「……惟光。」
「は。」
「もし、だ。」
「はい。」
「万が一、祖母君が亡くなられたら、あの童女はどうなる。」
惟光、わずかに目を細める。
「ご親族のどなたかが引き取られるかと。」
「例えば?」
「……例えば、藤壺様の御縁筋など。」
源氏の君の扇が、ぴたりと止まる。
「それは、宮中に上がる可能性もあるということか。」
「可能性としては。」
沈黙。
(宮中…。いや、それは……それは、困る。)
なぜ困るのかは、深く考えないことにした。
「……惟光。」
「はい。」
「六条御息所邸へ先触れを。」
惟光、今度ははっきりと目を上げた。
「……御息所様へ、でございますか。」
「そうだ。」
「若紫様の件で?」
源氏の君、ほんの一瞬だけ詰まる。
「いや……」
「いや?」
「……別件だ。」
「別件。」
「飾り髪の件だ。」
惟光の眉がぴくりと動く。
「北山の童女と飾り髪は、どのような関係が。」
「関係はない!」
やや早口になった。
「ただ、御息所邸には和泉殿がいるだろう。」
「はあ。」
「和泉殿は……妙な視点を持っているからね。」
「妙な。」
「常識に囚われぬというか……情に流されぬというか……。」
惟光、うっすら察する。
「……ご相談を?」
源氏の君、扇を閉じる。
「相談ではない。」
「では」
「意見を、聞くだけだ。」
「つまり相談。」
「惟光。」
「は。」
「余計なことは言うな。」
「かしこまりました。」
だが惟光は、心の中で呟いていた。
(また始まった。“憐れみ”の名を借りた恋の予感。)
後日。
六条御息所邸では
「源氏の君が?」
紗世は目を丸くした。
「飾り髪の案件でしょうか?」
「いえ……特にそのような話は。」
「え?」
紗世、固まる。
「……飾り髪案件でもないのに、なぜ私に?」
女房たちが小声でささやく。
「まさか……。」
「まさかでしょう。」
紗世は両手でこめかみを押さえた。
「嫌な予感しかしない。」
そして小さく呟く。
「今度は何を持ってくるの、あの人……。」
牛車の音が近づいてくる。
源氏の君、到着。
紗世、深呼吸。
「……よし。今日は絶対、変な縁は結ばせない。」
戦う前から、なぜか防戦態勢であった。




