第58話 好意の裏側
別室。
紗世が文の山を前に正座している。
「はい、これ。まず一通目。」
「……本当に読むのか。」
「助言してくれるって言ったでしょ?」
「言っていない!」
紗世は構わず開封し、読み上げていく。
「“和泉殿の御姿、初夏の中の瑞々しい花のごとし──”」
(は?)
「“一目拝したのみで胸は千々に乱れ──”」
(乱れるな!!)
「“どうか一夜でも…”」
「そこまで!読むな!」
惟成が慌てて止める。
「なんで?」
「……いや、その、必要ない部分だ。」
「重要じゃない?」
「重要ではない!」
紗世は首を傾げる。
「この人、情熱的だよね。」
「情熱的というか軽率だ!」
「えー?」
二通目。
「“呪詛を跳ね返すほどの気丈さに惹かれ──”」
(惹かれるな!)
三通目。
「“御息所様の御前で微笑まれた折の横顔が忘れられず──”」
(見てたのか!?)
惟成の眉間に皺が寄る。
「……全部、返事は断れ。」
「え?」
紗世が目を丸くする。
「断るなら、どうやって断ればいいの?どう書けば角が立たない?」
惟成は一瞬、言葉に詰まった。
(角が立たない断り方……だと?)
「……まず、相手の歌を一度は受ける。」
「受ける?」
「“過分なお言葉、恐れ入ります”などと、感謝を示す。」
「ふむふむ。」
紗世は真剣に頷き、文机に向かう。
「その上で、“身の程をわきまえておりますゆえ”とか、“未熟の身ゆえ”と、自分を下げる。」
「自分を下げるの?」
「相手を否定せず、自分を理由にするのだ。」
「へえー……。」
惟成は淡々と続ける。
「そして最後に、“どうか変わらぬ御厚情を”と締める。」
「え、それって期待持たせない?」
「持たせる。」
「え!?」
「完全に断れば、恨みになる。余白を残せば、矛先は鈍る。」
紗世はぽかんと口を開けた。
「……殿方って、めんどくさい。」
「女人もだ。」
「え?」
「……何でもない。」
紗世は少し考え込む。
「でも、それだと相手は“まだいける”って思わない?」
「思うだろうな。」
「じゃあまた文が来るよ?」
「来るだろうな。」
「意味なくない?」
惟成は静かに息を吐いた。
「意味はある。恨みに変わらぬ。」
「そんなに怖いの?」
惟成は、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「……好意が、裏返ると厄介だ。」
紗世はじっと惟成を見つめた。
「経験者?」
「違う!」
即答だった。
「でも詳しいね。」
「……宮中はな、そういうもので満ちている。」
紗世はふっと笑った。
「惟成殿って、意外と優しいね。」
「どこがだ。」
「ちゃんと“相手が傷つかない方法”を考えてる。」
惟成は眉を寄せる。
「違う。傷ついた相手が何をするか分からぬからだ。」
「それ、優しさじゃない?」
「違う。」
「じゃあ何?」
一瞬、沈黙。
惟成は低く言う。
「……面倒を避けたいだけだ。」
紗世はにやっと笑った。
「ふーん?」
「何だその顔は。」
「もし惟成殿が私に文を書くなら?」
「書かん!」
「仮に!」
「仮にも書かん。」
「もし私が他の人と文のやり取りしてたら?」
惟成の眉間がぴくりと動く。
「……好きにすればいい。」
「ほんとに?」
「ほんとだ。」
「じゃあこの“初夏の人”に優しく断り文出すね。」
紗世がさらさらと筆を走らせる。
(……初夏の人……)
惟成の胸の奥が、微妙にざわつく。
「惟成殿?」
「何だ。」
「この一文どう?
“今は志半ばにて、誰かの御心に応える身ではございません”」
惟成は一瞬、言葉を失う。
(誰かの……)
「……それでいい。」
「ほんと?」
「ああ。」
紗世はにっこり笑う。
「ありがとう。惟成殿がいると安心する。」
その無邪気な言葉に、惟成の思考が一瞬止まる。
(安心……だと?)
「……文を書き終えたら、必ず清書しろ。字は丁寧にな。」
「うん!」
紗世は再び筆を走らせる。
惟成はその横顔を見つめ──すぐに視線を逸らした。
御息所邸・縁側。
庭の若葉を眺めながら、御息所がふと問う。
「陰陽頭様は……なぜご結婚なさらないのです?」
陰陽頭は、湯呑みに口をつけたまま止まった。
「おや。唐突ですな。」
「これほど出世もなさり、お人柄も穏やかでいらっしゃるのに。不思議に思っておりました。」
陰陽頭は少し笑った。
「昔は、考えたこともありますよ。」
「まあ。」
「ですがね。この仕事をしていますと、人の“裏”を見過ぎる。」
視線が庭から空へ移る。
「愛しい、好きだ、離れたくない──
その言葉の裏にある、焦り、見栄、打算、執着。
全部、見えてしまう」
「……それでも、情は情でしょう?」
「ええ。ですが私は、その“濁り”まで感じてしまう。」
少し間を置く。
「……それを抱えられるほど、私は強くないのですよ。」
御息所は静かに言う。
「抱えられぬのではなく、抱えたくないのでは?」
陰陽頭が苦笑する。
「さすが御息所様。手厳しい。」
そして、ふと遠くから聞こえる声。
「惟成殿!ちゃんと読んでる!?」
「読んでいる!静かにしろ!」
陰陽頭が目を細める。
「……ああいうのを見ると、少しだけ羨ましくなることもありますがね。」
「では、まだ遅くはないのでは?」
「さて。私を面白がってくれる女人がいれば、考えましょうか。」
その声には、本気とも冗談ともつかぬ色が混じっていた。
庭の外では。
「今日こそは……!」
「動くな、見えん!」
公達たちがまだ塀に張り付いていた。




