第57話 小さな執着心
六条御息所邸に、一騎の馬が止まった。
降り立ったのは、陰陽頭。
急ぎの様子で通された陰陽頭に、御息所は青ざめた面持ちで問いかけた。
「本日は早馬でいらしたとか──何か火急の用件がおありですか?」
すると陰陽頭は、ひらひらと手を振り、
「え? ああ、いや。別に急ぎでは無いですよ。ただ、私は牛車より馬で移動する方が好きなだけです。」
「まあ……。」
「牛車はどうにもゆっくり過ぎて。しかも御者も連れねばなりませんし。それなら馬で、私一人がぱっと来た方が早いでしょう?」
「なるほど……。」
「でもまあ、御息所様のようにお美しい方と景色を眺めながらなら、牛車も悪くないですね。」
「まあ、ふふ……。」
穏やかに笑う御息所。
(……なんだか、この二人、会話が自然だな。)
紗世はその様子を見ながら思った。
(御息所様って、いつも上級貴族としての気配を崩さない方なのに……。)
そこへ陰陽頭が紗世へ向き直る。
「さて、和泉殿。あれから体に違和感や変化は?」
「はい。今のところ、特に何もありません。」
「うん。見たところ、呪詛の念がまとわりついている様子も無いね。」
「良かったです……。」
紗世は胸を撫で下ろした。
「まあ、小さな執着心みたいなのはいくつか付いてるけど。」
「え!?」
「ははは。大方、都の噂のせいで“会ってみたい”と思ってる者達の念だろう。文、沢山来てるだろう?」
「わかるんですか!?」
「予想はついてたよ。和泉殿はねぇ……他の人とちょっと違うんだよね。」
「……と、言いますと?」
「面白い。」
「お……面白い……。」
「普通の女人なら、呪詛と聞いた時点で失神ものだ。それが……“あんたなんかに負けるわけがない!”って弾き飛ばすんだから。」
陰陽頭は思い出したように吹き出した。
「あはははは! 三十年近く陰陽師やってるけど初めてだったよ!」
「……褒められている気がしません……。」
「結果的にモテてるからいいじゃないか。今回の噂で興味を持った男達、多いと思うよ。」
「喜んで良いのか分からないのですが……。」
「陰陽寮でも、和泉殿に文を書こうとしてる者、何人かいるよ。紹介しようか?」
「結構です!」
即答。
御息所が扇の陰でくすっと笑う。
「そういえば紗世。殿方達からの文のお返事は書けたの?」
「……っうっ……まだ……です。ああいう文を頂いたのは初めてで、どう返せば良いのか……。」
困惑する紗世に、陰陽頭がさらっと言った。
「“私を呪詛から守れる殿方だと証明したら通うことを許します”って返事したら?」
「そんな事言えるわけないでしょう!」
「っふ……うふふ。」
御息所はついに吹き出した。
──御息所邸・門外
(……なんだ、あれは?)
邸へやって来た惟成は、垣根や塀のあたりに人影が鈴なりになっているのに気づいた。
「見えたか?」
「いや……この角度だと庭木に重なって見えん。」
(……ただの公達の覗き見か。)
通り過ぎようとした、その時。
「どれが和泉だ?」
(……は?)
「御息所様の傍にいる事が多いらしいぞ。」
「では奥の部屋か。見えるか?」
「奥……あ、あそこだ。御息所様は御簾の内だな。」
「御簾の横に杜若の重ねの女房がいるぞ。あれか?」
「そうかもな。十二歳くらいと聞くが。」
「多分あれだ。あれが和泉だ!」
(……こいつら、紗世を見に来たのか。)
惟成の眉がぴくりと動いた。
そのまま足早に邸へ入り、御息所の部屋へ通される。
室内。
惟成は一礼すると、何も言わず、静かに紗世の隣へ座った。
ちょうど、外からの視線を遮る位置に。
紗世が小さく目を瞬く。
「……あの?」
「外が騒がしいからな。」
それだけ。
(……? 外?)
陰陽頭は、ふと庭先の垣根へ目をやった。
数人の人影が、こそこそと動いている。
(……ははぁ。なるほどねぇ。)
にやり、と口元を緩め、惟成を見る。
「陰陽頭様……何ですか?」
惟成は硬い表情のまま問う。
「んん〜? いやぁ、若いなぁって。」
「若い? 話が見えないのですが?」
紗世が素直に首を傾げる。
「いや、こちらの話。」
陰陽頭は肩をすくめ、さらりと言った。
「おや? 惟成殿にも小さな執着心がいくつか付いているようだね。」
「……小さな執着心? 何です、それは?」
「姫君達への文は丁寧に返した方が良いよ〜。あとが怖いから。」
「えっ……なっ……!」
惟成が明らかに狼狽える。
その様子を見て、紗世がぱっと顔を輝かせた。
「そうだ! 惟成殿! 私の文の返信、手伝ってよ!」
「はあ!? なんで私が!?」
「どういう返しなら角が立たないか、殿方目線で助言してよ!」
「いや、そんなの私も分からん!」
「いいから! 文を見るだけでも! 本当に困ってるの!」
紗世は惟成の袖を掴む。
「御息所様、文のお返事を書いて参りますので、少し席を外します!」
そのまま惟成を引きずるようにして、部屋を出ていった。
ぱたぱたと遠ざかる足音。
静寂。
陰陽頭は廊下に顔を出し、二人の後ろ姿を見送りながら呟いた。
「……本当に、和泉殿は面白い子ですねぇ。
……というか、自分宛の恋文を惟成殿に見せるとは……。」
小さく肩を竦める。
「……惟成殿、ちょっと可哀想になってきた。」
「ふふ。」
御息所が柔らかく笑う。
「飽きなくてよろしいですね、御息所様。」
「本当に。
……でも、あの子には私も救われたのですよ。」
陰陽頭の目がわずかに細くなる。
「救われた?」
「ええ……。
一時、我ながら醜い感情を抱いてしまったことがありました。」
室内の空気が、少しだけ変わる。
「生霊や呪詛で女人が倒れ始めた時──
“もしや私の感情が生霊になったのでは”と、思い詰めたのです。」
陰陽頭の表情が真面目になる。
「その時、紗世が申しました。
“それは醜い感情でも何でもない、普通の当たり前の感情です”と。
そして──
“御息所様は生霊を飛ばす覚悟も執念も圧倒的に足りません”と。」
「……っふはっ!」
思わず陰陽頭が吹き出す。
「なんとも失礼で、なんとも清々しい言い方ですな。」
「ええ。でも、その言葉で救われたのです。」
御息所の声は、穏やかだった。
「確かに、御息所様はお優し過ぎる。
生霊を飛ばすには、もっと濁った情が要ります。」
陰陽頭はゆっくりと言う。
「この仕事をしておりますとね、人の感情がいかに重いか、身に染みます。
特に女人は、顔にも言葉にも出さぬことを美徳とする。
その分、内に溜め込む。」
「溜め込んだ感情は……?」
御息所が問う。
陰陽頭は、少し間を置き──
「……非常に、気持ちが悪い。」
飄々とした調子のまま、しかし目は笑っていなかった。
「私も今や四十代。
こう見えて出世が早くてね。姫君達からの文も大量に届きました。惟成殿以上に。」
「まあ。」
「けれど、恋歌は美しくとも、文から漂うのは肩書き目当ての見栄ばかり。
返事を出さなければ、次は恨み言が連なった文が山のように届く。」
ふ、と小さく息を吐く。
「それで嫌気がさしましてね。
他人と情を交わすことを、避けるようになりました。」
静かに言うその姿は、いつもの軽さの奥に、ほんのわずかな翳りを滲ませていた。
御息所はしばらく黙し、やがて微笑む。
「……それでも、陰陽頭様は人の感情を否定なさらないのですね。」
「否定など出来ませんよ。
感情があるからこそ、人は人です。」
初夏の風が、庭の枝を揺らす。
邸の奥では、紗世の慌てた声と、惟成の低い抗議が微かに響いていた。
その騒がしさを、二人は静かに聞いていた。




