第55話 呪詛のあとに
───六条御息所邸
几帳の向こうで、紗世は静かな寝息を立てて眠っていた。
几帳のこちら側には陰陽頭と惟成。
御簾の奥には、六条御息所が座している。
「陰陽頭様、惟成殿。
此度は誠にありがとうございました。深く御礼申し上げます。」
御息所は深く頭を下げた。
「いやいや。これが我らの務めにございます。
どうか、そのように頭を下げられませぬよう。」
陰陽頭が穏やかに答え、惟成も静かに頷く。
「ただ──今回の件について、少々お話がございます。」
陰陽頭の声が、わずかに真面目な調子へ変わった。
「……おそらく、和泉殿への呪詛は、まだ続いております。」
「!!
それでは……これで終わりではないのですか?」
御息所の扇を持つ手が、かすかに震えた。
「今回の呪詛。
近頃、都で相次いでいた生霊の件と同一の系統と思われます。
ですが──」
陰陽頭は、几帳の方へちらりと目をやる。
「和泉殿の件だけ、質が違いました。
これまでのものは、まるで術を試すかのような気配。
しかし今回は──明らかに、和泉殿ただ一人を苦しめるための強い悪意がある。」
静かな沈黙が落ちた。
「その悪意の強さゆえ、今回は呪詛を弾くことはできましたが……
相手へ返すまでには至りませんでした。」
御息所は、黙したまま聞いている。
「……これは私の推測ですが。」
陰陽頭は低く続けた。
「相手は、更に強い呪詛を用意しているでしょう。」
「これ以上に……!」
惟成が思わず声を荒げる。
「そこで、御息所様。
今後、この邸へ私が折々に伺うことをお許しいただきたい。」
「ええ、それはもちろんでございます!」
御息所は即座に頷いた。
「御息所様のような高貴なお方が、あのようにお心を乱される様を見るのは……
私としても心苦しゅうございます。
事が起こる前に、備えを整えられればと。」
「……あ……」
御息所は、ふいに扇を深く顔の前へ寄せた。
「此度は……見苦しい姿をお見せしました……。」
「何をおっしゃいますか。」
陰陽頭は柔らかく微笑む。
「大切な方を守ろうと必死であられたお姿。
あれほど高貴で、美しいものはございません。」
「……え……」
御息所の頬が、ほのかに紅を帯びた。
「お、恐れ入ります……。」
「では、夜も更けました。私はこれで。」
陰陽頭が立ち上がる。
「私も、失礼いたします。」
惟成も頭を下げ、二人は静かに部屋を辞した。
───六条御息所邸・廊下
長い廊下を並んで歩いていると――
ガシッ。
陰陽頭が突然、惟成の肩を組んだ。
「……!
な、何を……」
困惑する惟成に、陰陽頭はニヤリと笑う。
「で?
君、和泉殿とはどんな関係なんだい。恋仲?」
「は!?」
「だってさっき、“紗世”って呼んでたろ。」
「い、いや!別に恋仲などでは……!」
「でも名前呼びだよね?
いつから?いつから付き合ってんの?」
「つ、付き合うとかではなく!
名前はその……成り行きというか……!」
「うん?成り行きで付き合う人?
君、意外と女泣かせ?」
「違います!!」
惟成が真っ赤になって否定する。
陰陽頭は肩を離し、ひょいと前へ出た。
「いいな〜〜。
私もそんな甘酸っぱい青春、送りたかったな〜。」
「あ、甘酸っぱ……違いますから!!」
「和泉殿、都中の女人に羨ましがられるんじゃない?
あんな武官に守られてるってさ〜。」
「~~~~~~!!」
言い返せず、惟成は口を開閉させる。
だが、ふと表情が曇った。
「……いや。
むしろ、明日以降の和泉殿の噂は……」
視線を落とす。
その顔を、陰陽頭が横から覗き込んだ。
「ああ。
“呪詛された女房”って不名誉な噂が立つかも、って思ってる?」
「都の噂とは……常に、そのようなものです。」
「まあ普通はね。」
陰陽頭は肩をすくめた。
「でも今回は違うと思うよ。
むしろ、好意的な噂になるんじゃないかな〜。」
「……え?
呪詛を受けたのに?」
「うん。普通なら嫌がられる。
でもさ――」
少しだけ真面目な目になる。
「和泉殿、面白かったし。」
「………………は?」
「和泉殿だから、今回は違う噂が流れるよ。
賭けてもいい。」
惟成は、まだ不安そうに呟く。
「……本当に……和泉殿は、傷付かずに済むでしょうか……」
陰陽頭が目を見開いた。
「っか〜〜!!」
パン、と惟成の背を叩く。
「それもう恋人じゃん!
“傷付いてほしくない”ってさ!」
「だから違います!!」
惟成は耳まで真っ赤になった。
夜の廊下に、陰陽頭の笑い声が軽く響いた。




