第52話 夜半の陰陽寮
夜の都を、惟成の早馬は一直線に駆け抜けた。
宮中、大内裏の南門に迫ると、彼は速度を落としきる前に声を張り上げる。
「左兵衛府兵衛志、源惟成だ!陰陽寮へ急行する!」
門番たちはその官名に即座に反応した。顔を確かめるや、一人が内へ走り、もう一人が門を開かせる。
「お通し申す!」
門が開いた瞬間、惟成は中へ乗り入れ、すぐ馬から飛び降りた。手綱を近くの舎人へ押し渡す。
「預ける。動かすな。」
短く命じると、すでに足は石敷きの道へ向かっている。武官の装束のまま裾をさばき、迷いなく官司の並ぶ区画へ走った。
夜の宮中は静まり返っている。
だが実務役所の辺りには、まだいくつか灯が残っていた。
陰陽寮の庁に灯りを見つけると、惟成はためらわず戸口へ踏み寄り、拳で強く叩く。
やがて戸が開き、灯を持った官人が顔を出した。
「夜更けに何事――」
「左兵衛府の源惟成だ。急の異変あり。陰陽頭に直ちに取り次いでくれ。」
武官の名乗りに、官人の顔色が変わる。
「承知しました。すぐお知らせします。」
官人は奥へ駆けていく。
やがて建物の奥で一つ、また一つと灯がともり、静まり返った陰陽寮が慌ただしく息を吹き返し始めた。
少しして、取り次ぎの官人が戻る。
「申し訳ありませぬ、源殿。陰陽頭はこれより儀式に入るゆえ、他の者が向かいます。」
「誰でも良い!! とにかく急いでくれ!!」
惟成の声は、もはや武官の威厳を超えて必死だった。
――今も紗世が苦しんでいる。
そう思うだけで、胸が焼ける。
「では、我々が――」
二人の陰陽師が名乗り出ようとした、その時。
「お待ちなさい。」
背後から、落ち着いた声。
振り向くと、そこに背の高い男が立っていた。
三十代後半から四十ほど。武官並みの体格に、飄々とした気配。
薄い顎髭を撫でながら、男は言う。
「源殿の件は、私が行こう。」
「おっ……陰陽頭様!!」
二人の陰陽師が慌てて頭を下げた。
(この方が……陰陽頭……。)
惟成は男を見上げる。
「ですが陰陽頭様、これから儀式が――」
「ああ、儀式ね。」
陰陽頭は肩をすくめた。
「あんなのは私でなくてもできるよ。やっといて。」
「やっ……やっといて、とは……!」
二人は狼狽する。
陰陽頭は小さく笑った。
「多分ねぇ、源殿の用件は君達二人じゃ無理だよ。」
静かな声だった。
だが断定だった。
「手に負えない。
手に負えなくて、どうせ私に回ってくる。
嫌だよ、私。そんな二度手間。」
二人は言葉を失う。
「だから儀式はやっといて。」
軽く手を振る。
「大丈夫だよ、祝詞を神妙な顔して唱えるだけだから。」
呆気に取られている惟成へ、陰陽頭は視線を向けた。
「源殿。」
目が合う。
その瞬間、飄々とした雰囲気の奥に、鋭い観察の光があった。
「私は馬に乗るのが得意でね。付いてこられるかい?」
惟成ははっと背筋を伸ばした。
「当然です。私は武官ですから。」
陰陽頭は満足げに頷く。
「……では、行こうか。」
二人は同時に踵を返し、夜の宮中へ走り出した。
夜の都を、二頭の馬が風を裂いて走る。
闇の中、惟成は前を見据えたまま問いかけた。
「陰陽頭様。先程、他の陰陽師では無理と仰っておりましたが……そんなに強い呪詛や生霊なのですか。
……というか、相手の強さが分かるのですか?」
陰陽頭は軽く息を吐いた。
「分かったよ。」
あっさりと言う。
「君が馬で宮中に飛び込んできた瞬間にね。」
惟成が目を見開く。
「だから私は儀式の場から陰陽寮へ戻ったのだよ。
――これは、放っておくと死人が出る気配だったからね。」
その声音は静かだったが、冗談は一切無かった。
「……そうでしたか。ありがとうございます。」
惟成は深く頷く。
やがて、闇の向こうに屋敷の輪郭が浮かび上がった。
六条御息所邸。
陰陽頭の目が細くなる。
「あの邸か……。」
「はい。」
一瞬の沈黙。
そして陰陽頭が低く呟いた。
「やはり私が来て、正解だ。」
その声に、確信があった。
門をくぐる。
奥から、悲鳴が聞こえた。
「馬を頼む。」
二人は同時に飛び降りる。
手綱を投げるように渡し、そのまま御息所の部屋へ一直線に走った。
⸻
室内。
「………きゃあああ!!!またよ!」
「離してください!杭が!杭が心臓を……!!
血が……血が止まらないの……!!」
紗世は胸を掻きむしりながら暴れている。
「紗世!しっかりして!!」
六条御息所は自ら紗世を抱きしめ、必死に押さえていた。
「杭なんか無い!血も出ていないの!お願い、落ち着いて!!」
「紗世!!」
惟成が堪えきれず駆け寄り、腕を掴んで支える。
「御息所様、紗世はずっとこのように!?」
「いいえ……!
落ち着いたり、暴れたりを何度も繰り返しているの……!」
その時。
陰陽頭は騒ぎには目もくれず、静かに一歩近づいた。
視線はただ一点――紗世の胸元。
しばし無言。
そして、小さく頷いた。
「なるほど……これはこれは。」
わずかに口角が上がる。
「……相手は、相当の性悪だ。」
厄介な呪詛。
だが陰陽頭は、むしろ楽しむように――
ニヤリと笑った。




