第51話 嗤う影
──六条御息所邸
牛車が着くと、惟成は門前で低く言った。
「六条御息所様にお渡ししたいものがある。取り次ぎを頼む。」
紗世は一足先に御息所の部屋へ向かった。
「ただいま戻りました。」
簾を上げた瞬間――
御息所が珍しく身を乗り出した。
「紗世!あなた!大丈夫!?怪我は?苦しいところはないの!?」
「だ、大丈夫ですよ。怪我もありません。」
(御息所様が、こんなに取り乱すなんて……。)
御息所はその場で力が抜けたように項垂れた。
「良かった……本当に、良かったわ……。」
そこへ惟成が現れ、何でもない顔で言った。
「御息所様。和泉殿は見えない力で吹き飛ばされ、襖に激突し、尻を強打したそうですよ。」
(惟成いいいい〜〜〜!!)
御息所は勢いよく紗世を見た。
「大丈夫ではないでしょう!薬師を呼びなさい!」
女房へ命じる。
「いやいやいや!大丈夫ですって!!薬師にお尻を見せろというのですか!?恥ずかしすぎます!!」
慌てる紗世の横で、惟成は静かに座った。
「御息所様、こちらを。」
差し出されたのは、布に包まれた細長い物。
「……これは?」
「邪気祓い用の小刀です。
北の方様も被害に遭われた生霊・呪詛事件への備えとして、陰陽寮で祈祷を込めたもの。各屋敷の主人へ配るよう命じられました。」
(これを取りに行ってたのか……。)
御息所は小刀を見つめた。
「まあ……そんなに大事になっているのね。どう使うの?」
「置いておくだけで良いとのことです。」
――チク。
「?」
紗世は胸の奥に、小さな痛みを感じた。
「そう。ありがとうございます。」
御息所と惟成のやり取りが遠く聞こえる──。
ドクン。
今度は心臓が大きく跳ねる。
「……っ」
(息が……できない……。)
「? 和泉殿……?」
惟成が気付いた。
「紗世?……紗世!!どうしたの!!?」
ドサッ。
紗世は胸を押さえ、前のめりに倒れた。
(む……胸に……何か……)
視線を落とす。
胸元に――
太い杭のようなものが、深く打ち込まれている。
(何これ!!杭……!?抜かなきゃ……!!)
紗世は胸元を掻きむしった。
「何をしている、和泉殿!!やめろ!!」
惟成が腕を掴む。
「胸っ……ヒュッ……杭が刺さ……ヒュッ……抜か……なきゃ……」
息が途切れ、声が震える。
「杭なんて刺さってないわ!紗世!手を離しなさい!!」
御息所の声が揺れる。
「くそっ!誰か!男の使用人を呼べ!力のある者だ!」
やがて数人が駆け込む。
「和泉殿が自分を傷つけぬよう腕を押さえろ。
私は陰陽師を呼んでくる!」
惟成は御息所へ向き直った。
「御息所様、馬を借ります!」
言い終えるより早く、部屋を飛び出した。
廊下を駆ける足音が、遠ざかっていく。
部屋には、荒い呼吸と、衣擦れと、
女房たちの震える声だけが残った。
───とある尼寺
薄暗い堂内。
『和泉』と書かれた人形の胸に、太い杭が深々と打ち込まれている。
その杭を、女は指先でくるくると弄んだ。
「ふふふ……一息になどしてあげないわ。」
囁く声は甘く、冷たい。
「じわじわと時間をかけて……苦しみ続ければいい……。」
傍らの近江が、静かに木箱を差し出した。
「こちらは、まだお使いにならないのですか?」
女はちらりと箱を見たあと、唇を歪める。
「それは最終段階になったら使うわ。」
そっと蓋を撫でる。
「それまでに、色々な方法で苦しめてやる……。」
「まだ何かお考えが?」
「もちろんよ。」
女は笑った。
「私ね、和泉を色々な方法で苦しめたいの。」
杭を、少しだけ押し込む。
コツ、と鈍い音がした。
「今みたいに痛みを与えるだけじゃつまらないわ。
――社会的にも、ね。」
近江の目が細くなる。
「社会的……ですか?」
「そうよ。」
女の声は楽しげだった。
「呪われた女房なんて、誰が屋敷に置きたいの?
あの女がいるだけで、自分も呪われる……そんな噂を流してやるの。」
近江はゆっくり頷く。
「社会からも見捨てられ、体は呪詛に蝕まれていく……。」
「そうよ!」
女の目がぎらりと光る。
「あの女には、それくらい苦しんでもらわなきゃいけないのよ!!」
「左様でございますね──。」
沈黙。
蝋燭の灯が揺れ、壁に映る二人の影が、歪んで、長く伸びた。
その影はまるで、杭に打たれた人形を見下ろして嗤っているようだった。




