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第50話 幸せのカタチ

御簾の外。


廊下にはまだ慌ただしい気配が残っていた。


陰陽師たちは低い声で何かを相談し、女房たちは走り回り、香が次々に焚かれている。


その中で、御簾が静かに上がり、源氏の君が外へ出てきた。


顔色は蒼白、だが目だけは鋭い。


廊下に控えていた紗世が、ぴしっと背筋を伸ばす。


「……源氏の君。」


源氏は周囲を一度見回し、


「和泉殿。」


低く呼んだ。


「はい。」


「少し。」


それだけで、紗世は察する。


二人は人の少ない廊下の端へ移動した。




源氏が真正面から紗世を見る。


「最初から話してくれ。」


「はい。」


紗世は深呼吸し


「本日は、北の方様のご希望で、初夏の飾り髪を結いに参りました。」


「うむ。」


「女房方は最初から外して、二人で室内に。」


「……それは北の方の命か。」


「はい。」


源氏の眉が少し動く。


(完全に恋バナ空間だったな…)と紗世は思うが、言わない。


「それで?」


「普通にお話しておりました。」


「普通に?」


「はい。源氏の君が早く帰ってきてくださるようになった、と喜んでおられて。」


源氏の視線が一瞬だけ逸れる。


「……そうか。」


「それから、少し素直なお気持ちもお話しされて。」


「……どの程度だ。」


「“つまらなくないですか”とか、“可愛らしいと言われて驚いた”とか、その辺です。」


源氏は無言で空を見た。


耳が、ほんの少し赤い。



紗世はつい口を滑らせる。


「あと、“もっと早く帰ってきて”ってさっき仰ってました。」


源氏が固まる。


「……。」


「弱々しく、でもはっきり。」


「……。」


「かなり破壊力ありました。」


「……和泉殿。」


「はい。」


「それは……」


少し間。


「後で詳しく聞く。」


(覚えてるじゃん!!!)


紗世は心の中でツッコんだ。



源氏の表情が、すっと真剣に戻る。


「それで、異変は。」


「はい。」


紗世も顔を引き締める。


「幸せなお話をされている最中でした。」


「……最中。」


「“これからもっと幸せになれる気がする”と仰って、“きっともうすぐ私のお腹にも…”と。」


源氏の呼吸が止まる。


「その直後です。」


紗世ははっきり言った。


「黒い気配が、一気に強まりました。」


「気配……。」


「最初は、ほんの薄く感じた程度です。でもその時は気のせいかと。」


「……。」


「ですがその瞬間、ぶわっと室内が重くなって、北の方様を中心に黒いものが巻きつくように。」


源氏の拳が、ぎゅっと握られる。


「和泉殿は?」


「私は吹き飛ばされて、襖に激突しました。」


「……怪我は。」


「お尻がちょっと痛いくらいです。」


「……そうか。」


真面目な顔で頷く源氏。


(そこはもっと心配していいのでは!?)と紗世は思う。


源氏がぽつりと呟く。


「葵は……幸せそうだったか。」


紗世は即答した。


「はい。」


迷いなく。


「とても。」


源氏は少しだけ目を伏せ


「……そうか。」


とだけ言った。


その声は、先ほどまでの張り詰めたものとは違い、


ほんの少しだけ安堵が混じっていた。





───尼寺・奥の間


薄暗い室内。


灯火が、ひときわ激しく揺れ――ふっと消えた。


沈黙。


やがて、女が小さく息を吐く。


「……弾かれたわね。まあ、良いわ。」


床に、ひらりと紙の人形が落ちる。

そこには墨で


『葵の上』


と書かれていた。


「これは試しだもの。」


女は静かに笑う。


「陰陽師たちの力も、だいたい分かってきたわ。なら――」


傍らの木箱を手に取り、蓋を開ける。


中を覗き込み、口元を歪めた。


「これから、あの者たちの力を上回る呪詛をかければいいだけ。」


箱の中の“本命”を見つめる。


「せいぜい――」


囁くように言った。


「人生の絶頂を楽しんでいればいい……

もうすぐ、貴方は終わりなのだから。」


闇の中で、女の笑みだけが残った。




───左大臣邸・門前


「和泉殿、惟成を護衛に呼んである。気を付けて帰るのだよ。」


穏やかな声で、源氏が言う。


「私は今夜はここに泊まるゆえ。」


「はい。でも御者もおりますし、惟成殿を呼ぶほどでは……」


「何を言う。」


源氏は少しだけ真顔になった。


「先ほどまで、北の方の一番そばに居たのは和泉殿だ。

もし生霊の影響が出るようなことがあれば――」


一拍置く。


「惟成なら、最適に対処できる。」


その時。


「ああ、来たようだ。」


振り返ると、御者の横に惟成が立っていた。


「では、失礼いたします。」


「うむ。」


源氏は静かに頷いた。




───帰りの牛車


乗り込んだ途端、紗世は大きく息を吐いた。


「はあああ〜……つっかれたぁ〜……」


簾の外から、惟成の声。


「陰陽師まで出てくる大事だったとか。和泉殿は大丈夫なのか?」


「うん。わけの分からない力に突き飛ばされて、襖に激突して、お尻痛いけど大丈夫!」


「……その時点で大丈夫ではないだろう。」


絶対に呆れている、と紗世は思った。


「尻が痛い以外に怪我は?」


「うーん……ない、と……思う。」


自分の腕や袖をきょろきょろ確認する。


「そうか。……すまぬが、六条邸へ行く前に我が家へ寄ってよいか。

御息所様にお渡しするものがある。」


「うん、いいよ。」


牛車はほどなくして停まった。


「では行ってくる。すぐ戻る。」


惟成の足音が遠ざかる。


紗世は簾を少し持ち上げ、屋敷を見た。


(ここが惟成殿のお家かぁ……

ってことは惟光殿のお邸でもあるのか。)


ぼんやり眺めていると――


邸の奥から、声。


「和泉――」


「え!?はい!?」


思わず返事をしてしまう。


しかし、誰も出てこない。


御者も首を傾げた。


「今……和泉様、と呼ばれましたかね……?」


そこへ、息を切らせた惟成が戻ってきた。


「待たせた。行こう。」


「え?うん……」


「……どうした?」


「さっきね、惟成殿のお邸の中から“和泉”って呼ばれた気がして。」


「和泉殿を?……ああ。」


惟成はすぐに思い当たった。


「それは和泉殿ではない。当家の女房にも和泉という者がいる。」


「え!そうなの?じゃあ和泉国出身?」


「おそらくな。私が生まれる前から仕えている女房だ。

和泉殿が生まれる前に都へ出てきているだろう。」


「そっかぁ。じゃあ私もその和泉殿も、お互い分からないね。」


「……和泉は、私の世話役でもあった。」


惟成は少し苦笑した。


「だから、和泉殿を呼ぶと……妙な感じになるのだ。」


「えー?私と妙齢の女房を一緒にしてるってこと?」


「そうではない。

……名前が同じでややこしいだけだ。」


その瞬間。


バサッ!!


紗世が勢いよく簾を上げた。


「じゃあさ!」


「なっ――丸見えだ!簾を下ろせ!」


慌てて惟成が簾を叩き下ろす。


「いいじゃない。二人の時だけでいいから、紗世って名前で呼んでよ!」


「はああ??」


「ほら、女人は出身で呼ぶから同じ呼び名いっぱい居るじゃん。」


「呼ばん。」


「えー?いいじゃーん!」


紗世は少し身を乗り出し、声を潜めた。


「……それとも。

名前で呼ぶ意味、分かってるから嫌なの?」


惟成の気配が、ぴたりと止まる。


「……和泉殿。軽々しく申すことではない。」


低い声だった。


「男が女人の名を呼ぶというのは――」


「特別な時、でしょ?」


紗世はさらりと言った。


少しだけ、悪戯っぽく。


「親しいか、想ってるか、責任持つ覚悟があるか。

そういう時しか呼ばないって。」


沈黙。


「……知っていて言うのか。」


「うん。だって親しいじゃん。」


あっさり頷く。


そして、小さく笑った。


「だから呼んでほしいんじゃん。」


惟成が息を呑む気配。


紗世はわざと明るい声に戻した。


「ほらほら、紗世だよ。さ・よ! さん、はいっ!」


「御者。牛車を出せ。」


「ちょっと!逃げた!!」


牛車は静かに動き出し、簾の向こうで、惟成は深くため息をついた。


だが――


そのため息は、先ほどより少しだけ、乱れていた。


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