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第5話 噂は都へ、恐怖は名前とともに

――都。


春の気配が残る午後、御簾の内ではゆるやかな笑い声が流れていた。


「和泉国、だと?」


光源氏は、几帳にもたれながら首をかしげた。


「そう。最近やけに耳にするのだ。」


向かいに座る頭中将が、さも面白そうに扇をぱちりと閉じる。


「和泉国に、妙に評判の姫がいるらしい。」


「妙に?」


「髪が、美しいのだそうだ。」


その言葉に、光源氏はふっと微笑む。


「艶やかで、豊かで、長く――

なるほど、それなら都にもいくらでもいよう。」


「いや、それが違う。」


頭中将は首を振った。


「そうではないらしい。」


「……?」


「髪そのものではなく、結い方が美しいのだと。」


光源氏の眉が、わずかに動いた。


「結い方?」


「編んだり、まとめたり、飾ったり。

どうやら、見たことのない姿になるそうだ。」


「……想像がつかぬな。」


素直な感想だった。


女の髪とは、垂らしてこそ美しいもの。

それを“結い上げて美しい”とは、どういうことだ。


「女房たちの間では、『あの姫の真似をしたい』などという声も出ているらしい。」


「ほう。」


光源氏は、少しだけ興味を滲ませた。


「奇妙なものほど、一度は見てみたくなるな。」


軽い調子で言って、扇を広げる。


「いつか会う機会があれば、だが。」


その言葉を、頭中将は意味ありげに聞き流した。


(――会わないで済むとは、思えぬがな。)




――和泉国。


「紗世!」


父・藤原兼成が、珍しく慌ただしく戻ってきた。


「はい?」


「都から話が来た。」


その一言で、嫌な予感が胸をよぎる。


「高貴なお方のお屋敷で、女房を募っているそうだ。」


「……女房。」


「私の友がな、“和泉国に評判の姫がいる”と進言してくれたらしい。」


(やめてほしい。)


「和泉国の流行が、都の流行になる好機だぞ!」


(やめて。)


父は上機嫌だ。


「教養もある、才もある、歳もちょうど良い。」


(全部、嫌な条件が揃ってる。)


「……父上。」


紗世は、できるだけ穏やかに尋ねた。


「そのお屋敷とは、どなたのお邸なのでしょうか。」


父は、特別なことでもないように答えた。


「六条御息所さまだと聞いている。」


「――――!」


思考が、止まった。


(六条御息所…生霊…嫉妬……


源氏物語・屈指の地雷!!)


「……紗世?」


母が心配そうに覗き込む。


「顔色が悪いわよ。」


「いえ……。」


紗世は、引きつった笑みを浮かべた。


「ちょっと……流行りすぎたかもしれません。」


父は笑う。


「何を言う。才は使ってこそだ。」


(それ、源氏物語では死亡フラグです。)


紗世は心の中でだけ、全力で叫んだ。


(私はただ、髪を結っていただけなんですけど!?)


こうして――


和泉国で生まれた“飾り髪”は、ついに都の中心へと、本人の意思を置き去りにして進み始めたのだった。



夜。


屋敷が静まり返り、灯りも落とされた頃。

紗世は布団の中で、目を閉じたまま動けずにいた。


(……六条御息所。)


頭の中で、その名前だけがやけに鮮明に響く。


(六条御息所って……生霊で有名な人、だよね?)


そこまでは確実に覚えている。

むしろ、それしか覚えていないのが問題だった。


(えーっと……どういう人だっけ。

確か、すごく身分が高くて……元・皇族?光源氏より、だいぶ年上……だったはず。)


記憶の引き出しを必死でひっくり返す。


(プライド高い、美人、教養ある…でも正妻になれない立場で……切ない恋……。で、その結果――。)


「……生霊。」


声に出した瞬間、背中がぞわっとした。


(いや、待って。あれは確か……葵上を……取り殺す……。)


布団の中で、ぎゅっと体を縮める。


(あれ?でも、その時って……光源氏、もう葵上と結婚してたよね?


ってことは今は……まだ?)


頭の中で、時系列がぐちゃぐちゃになる。


(そもそも、光源氏って今、何歳?


そういえば父上が“最近”美しさに目がないお方が話題って言ってた。それって……元服したばっかり?


てことは、12……13……?)


平安時代の知識が、うっすら浮かぶ。


(男子の元服、確か12〜14歳くらい……。じゃあ、光源氏まだ10代前半……?


いや、むしろ10代前半どころか

まだ色々やらかす前……?)


期待が、ほんの少しだけ湧く。


(お願いだから、六条御息所とまだ出会ってない時期であって!出会ってても、まだ穏やかな頃であって!!生霊、飛ばしてない段階であってぇぇぇぇ!!!)


切実だった。


(源氏物語って表向きは恋愛絵巻だけど、中身、六条御息所パートは普通にホラーだからね!?ほんとにあった怖い話!いや、これヒトコワだよ……。)


頭の中に、勝手なイメージが浮かぶ。


御簾の向こう。

香の煙。

静かに微笑む高貴な女性。


――その影が、じっとこちらを見ている。


(やめて。


まだ、見られてない。


まだ、目をつけられてない。


私はただ、髪を結ってただけで……。


恨まれる筋合い、ないよね!?)


布団の中で、紗世は小さく息を吐いた。


(文学部だったけどさ、源氏物語ゼミじゃなかったんだよ……。


あらすじは知ってる。大まかな登場人物も知ってる。でも、細かい時系列、知らないんだって……。)


今ほど、それを悔やんだことはなかった。


(明日……明日、父上に聞こう。都の様子とか。その六条御息所さまが、今どういう立場なのか。)


そう決めても、心は落ち着かない。


(どうか。どうか。

ここがまだ、恋愛パートでありますように。ホラーパート突入前でありますように。)


布団の中で手を合わせ、紗世は半ば本気で祈った。


外では、風が庭の木を揺らす。


その音が、一瞬――

誰かの衣擦れのように聞こえた気がして。


紗世は、ぎゅっと目を閉じた。


(……気のせい。これは、まだ。ほんとに、まだ。)


自分に言い聞かせるように、そう思いながら――。


紗世は、浅い眠りへと落ちていった。

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