第49話 祈りの声、眠る君
左大臣邸──
バタバタと廊下が騒がしくなる中
「陰陽寮より参りました!」
低く通る声が響いた。
紗世が振り返ると、直衣姿の陰陽師が二人、急ぎ足で御簾の前に進み出た。
年嵩の陰陽師が一礼する。
「北の方様の御容体は。」
「急に黒い靄が……包まれて……意識が……!」
女房が震え声で答える。
陰陽師は御簾の内を一瞥し、表情を引き締めた。
「……穢気ではない。」
懐から細い木札を取り出し、床に置く。
「これは 怨霊性の気配。しかも――」
空気を吸い込み、低く呟く。
「生きた者の念だ。」
女房たちがざわめいた。
「生霊……!?」
「静かに。」
陰陽師は袖から紙片を取り出し、素早く印を結ぶ。
「まずは 結界 を張る。
誰一人、御簾の外へ出るな。外からも入れるな。」
もう一人の若い陰陽師が素早く四隅に塩を撒き、小刀で床を軽く打つ。
カン、カン、カン。
乾いた音が響いた。
「四方封鎖。鬼門、裏鬼門、閉。」
年嵩の陰陽師は低く祝詞を唱え始める。
「――急急如律令。
禍事退散、邪気鎮伏、念断絶。」
空気が、びり、と震えた。
黒い靄が、葵の上の周囲でぐにゃりと揺れる。
「……強い。」
陰陽師の額に汗が滲む。
「相当な執念だ。距離は遠いが、媒介があるな……髪か、名か、あるいは文か……。」
紗世の背筋が冷えた。
(髪……?)
陰陽師が声を張る。
「祈祷を開始する!火を!」
女房が急いで香炉を差し出す。
煙が立ち上り、祝詞の声が一段と強くなる。
「――鎮まれ、鎮まれ、鎮まり給え!」
黒い靄が、じりじりと押し返されていく。
だが完全には消えない。
陰陽師が低く言った。
「……長期戦になる。
この念は、一度きりではない。」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
その時――
廊の奥から、慌ただしい足音。
「北の方は!?」
御簾の外から、切羽詰まった声。
「源氏の君がお戻りです!」
女房が叫ぶ。
次の瞬間、御簾が勢いよく開いた。
「葵!」
顔色を失った源氏が駆け込んできた。
息が上がり、衣も乱れている。
(え、早っ……。)
紗世は思わず心の中で突っ込む。
(爆速帰宅どころか瞬間移動レベルじゃん……。)
源氏は陰陽師の制止も聞かず、葵の上の傍へ膝をついた。
「葵、聞こえるか。」
そっと手を取る。
葵の上の指が、微かに震えた。
「……よかった……まだ意識はある。」
源氏の声が、明らかに安堵で揺れる。
陰陽師が冷静に言う。
「お近づきは結構ですが、結界の内に不用意に入ると念を受けます。」
「構わぬ。」
即答だった。
(うわ、この人こういうとこマジ主人公……。)
紗世が心の中でうなった。
源氏は葵の上の額に手を当て、低く呟く。
「怖かっただろう。」
その声音は、驚くほど優しかった。
女房たちが息を呑む。
紗世は思わず小声でぼそっと言った。
「……北の方様、これ聞いたらあとでまた悶絶するやつだな……。」
「和泉殿。」
陰陽師がちらっと睨む。
「はい黙ります。」
紗世、即座に姿勢を正す。
その時。
黒い靄が、もう一度ぶわっと膨らんだ。
陰陽師が叫ぶ。
「来るぞ!」
源氏が葵の上の手を強く握る。
「下がれぬ。」
低い声。
「この方は、私の妻だ。」
(うわーーーーーー!)
紗世、内心絶叫。
(この台詞、あとで本人の前で反芻してまた葵の上悶絶確定だよ!!!)
祝詞の声が響く。
香の煙が濃くなる。
靄が、ぎしぎしと軋み、
そして――
一瞬、ふっと薄れた。
陰陽師が息を吐く。
「……第一波は退いた。」
部屋中が、どっと息をついた。
源氏はまだ葵の上の手を離さない。
紗世はそれを見て、小さく呟く。
「……これはもう、都の噂どころじゃないな……」
誰にも聞こえない声で
「好感度、天井突破してるわ……。」
と、しみじみ思った。
───
室内に、ようやく静けさが戻り始めた。
香の煙がゆらゆらと漂い、祝詞の声も低く落ち着いていく。
源氏は、まだ葵の上の手を握ったまま離さない。
その時だった。
「……ん……」
かすかな息。
源氏がはっと顔を上げる。
「葵?」
葵の上のまつ毛が、微かに震えた。ゆっくり、ゆっくりと瞼が開く。
焦点の合わない目が、ぼんやりと天井を見て――
やがて、すぐ近くにいる源氏の顔を捉えた。
「……あ……」
かすれた声。
源氏は身を乗り出す。
「無理に話すな。ここにいる。」
葵の上の唇が、ほんの少し動いた。
「……きみ……」
小さすぎて、消えそうな声。
「……源氏の……君……?」
その呼び方に、源氏の表情が一瞬、揺れた。
「そうだ。」
声が、思いのほか優しく低くなる。
「帰ってきた。」
葵の上は、しばらく源氏を見つめていた。
まるで夢かどうか確かめるように。
そして、震える指が、ほんの少しだけ動く。
源氏の袖を、かすかに掴んだ。
「……よかった……。」
吐息のような声。
「……ほんとうに……来て……くれた……。」
源氏の眉が寄る。
「当たり前だ。」
ほとんど囁きの声で返す。
「呼ばれなくとも来る。」
その言葉に、葵の上の目に、うっすら涙が浮かんだ。
「……怖くて……」
声が途切れる。
「……急に……暗くなって……」
源氏はそっと、握る手に力を込めた。
「もう大丈夫だ。」
静かに言う。
「私がいる。」
葵の上の唇が、ほんの少しだけ緩む。
まるで安心した子供のように。
「……よかった……。」
そして、本当に小さな声で、ほとんど息に混じるように呟いた。
「……もっと……早く……帰ってきて……。」
一瞬、紗世が固まった。
(うわーーーーーー!それ今言う!?このタイミングで!?)
源氏も、一瞬だけ目を見開く。
だが次の瞬間、ふっと、かすかに笑った。
「……ああ。」
低く、柔らかく答える。
「努力しよう。」
葵の上は、その声を聞いたところで、ほっとしたように力を抜き、再びゆっくりと瞼を閉じた。
「……葵?」
源氏が呼ぶが、今度は深い眠りに落ちただけだった。
陰陽師が静かに言う。
「ご安心を。気を失ったのではなく、体が守りに入ったのです。
今は眠らせておくのが良い。」
源氏は頷き、それでも手だけは離さない。
紗世は、そっと小声で呟いた。
「……北の方様、後で絶対この会話思い出して、また布団で悶絶するな……。」
女房が小さく「しっ」とたしなめる。
紗世は口を押さえた。
(でもこれは……都中の恋愛小説より甘いわ……。)
香の煙が静かに漂う中、源氏はただ黙って葵の上の手を握り続けていた。




