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第48話 初夏、黒い兆し

───とある尼寺。


御堂に一人、質素な衣を纏った女が座っていた。

女の目の前には書きかけの写経。だが筆は止まり、口元だけが忙しなく歪んでいる。


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない……」


グシャリ。


書きかけの写経を握り潰した。


「なぜ、私がこのようなみすぼらしい姿で写経などしなくてはいけないの!?」


御堂の外に目をやる。

外は明るく、初夏の眩い緑が輝いていた。


(噂では政略結婚で愛などないと言われていた源氏の君が北の方と仲睦まじいとか……

常陸宮の不細工姫にも式部卿が通い、公認の仲とか……

私の集まりで無礼を働いた武官が、都中の姫君から文を貰っているとか……。)


写経を握り潰している手が震える。


(源氏の君と北の方の仲を取り持ったのは、あの和泉とか……。)


女の歯がきしんだ。


(女房風情が!!


六条御息所の後ろ盾が無ければ、取るに足らないあの女!!


憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!


すべてが!!


男の情を貰う女も!

女から慕われる男も!!

世間から評価を受ける者も!!


みんなみんなみんな……!!)


その時、年老いた尼が入ってきた。


「どうですか?写経でお心は鎮まりましたか?ありがたいお経を写すことで仏様の御心を……まあ!」


握り潰された紙に目を留める。


「民部卿の姫君。まずはお心をお鎮めなさい。余計な事を考えず、ただお経を読み、写し、書くこ…」


「うるさいわね!私に指図するんじゃないわよ!どうせ、しばらくしたらここを出るんだから!!あんた達は私が出ていくまで、私の面倒を見てればいいのよ!!」


姫は荒々しく御堂を出た。


廊下を歩いていると、向かいから女房の近江が来る。尼寺まで付き従ってきた侍女だ。


近江は黙って、小さな木箱を差し出した。


姫は箱を開ける。


中には――


『和泉』


と書かれた紙。

そして、数本の髪の毛。


姫の唇が、ゆっくり歪む。


「そうよ……あんたさえ居なければ……。」


しばし沈黙。


やがて低く、囁いた。


「……まずは――試してみましょうか。」




───都、左大臣家。


葵の上と紗世は、向かい合って座っていた。


「…あの、北の方様。本日はどのようなご用件でしょうか…?」


「飾り髪を頼むわ。初夏の花を使った、初夏らしい感じで。できるかしら?」


「かしこまりました…。」


紗世が「失礼いたします」と御簾の内へ入ろうとすると


「私と和泉の二人にして。他の者は下がってちょうだい。」


葵の上が人払いをした。


(これは……恋バナか?)


紗世は葵の上の後ろへ回り、櫛で静かに髪を梳く。


もう既に、葵の上の耳は真っ赤だった。


「北の方様、源氏の君と何かございました……?」


恐る恐る聞く。


ぐるん!!!


(ぎゃあ!

ホント、この人エクソシストの映画ばりに180度振り返るから心臓に悪い…!)


「あ、ああああ、あれから、げ、げげげ源氏の君が、ホントに早く帰ってきて…」


「よろしかったですね!」


「そ、それで!わわわ私が上手くお話できなくても、ニコニコしてくれてて…」


「お優しいですよね、源氏の君。」


「私、う、上手くお話できなくて、つまらなくないですか?って聞いたのよ。」


「なんと仰ったのですか?」


「一生懸命お話しようとする姿が、大変……かっ…かっ……!」


「か?」


「可愛らしいので!!って!!つまらなくないですよって……!!」


そこまで言うと、葵の上は真っ赤になって両手で顔を覆った。


(何この人、かんわいい〜〜。)


紗世はほのぼのした。


「北の方様、飾り髪をいたしますので、前を向いてください。」


紗世はにこにこしながら、再び髪に触れる。


「あの、和泉。」


「何でしょう?」


「……ありがとう…。」


「え?」


「和泉が居なかったら、今回の事は起こらなかった事だもの。源氏の君が和泉を連れて帰ってきたのも、和泉が私の気持ちに気付いてくれたのも…源氏の君に対して、少し素直になれたのも…

だから今日は、お礼を言いたかったのよ。ありがとう、和泉。」


「私は何もしておりませんよ。


私を連れてきたのは源氏の君ですし、源氏の君に対する素直な気持ちを口にしたのは北の方様です。そしてその気持ちを正面から受け止めたのも源氏の君です。」


葵の上は、クスリと笑った。


「私、なんだか……源氏の君と一緒になって、初めて幸せな気持ちになった気がするわ。」


ゆらり……


(あれ?)


葵の上の背後の御簾が、風もないのに――わずかに揺れた。


(……気のせい?)


「これからもっと、幸せになれますよ。」


「そうね!これからもっと、幸せになれる気がする。だって、このまま行けば、きっともうすぐ私のお腹にも…」


――スッ。


一瞬、空気が冷えた。


次の瞬間。


ブワッ───!!!


バンッ!!!


真っ黒いモヤが葵の上を包み込む。


同時に、紗世は胸を突かれたような衝撃を受け、


「っ――!!」


体が宙に浮き、襖へ叩きつけられた。


「北の方様!!!」


葵の上の姿が、黒い靄の向こうで揺れる。


「だっ…誰か!誰か来てください!!!」


バタバタバタ!


外に控えていた女房達が駆け込んできた。


「きゃあああ!何よこれ!!北の方様!!ご無事ですか!?北の方様!!!」


紗世は、以前注意喚起していた惟成の言葉を思い出した。


(これ……例の、生霊とか呪詛のやつ!?)


「早く陰陽師、祈祷師を呼んでください!!あと、源氏の君にも連絡を!!早く!!」


部屋の中で、黒い気配だけが不気味に渦を巻いていた。


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