第47話 新たな噂 不穏な噂
牛車が静かに止まった。
簾が上がり、紗世が降りる。
長い一日だった。
胸の奥に、まだ葵の上の赤い顔と震えた声が残っている。
(……大丈夫だったよね。多分。きっと。)
そう思いながら、御殿へ向かった。
「戻りました。」
部屋の奥、灯のそばに
六条御息所が静かに座っていた。
「おかえりなさい、紗世。」
声は穏やか。
しかし、目は真っ直ぐだった。
「……いかがでした?」
紗世は正座し、背筋を伸ばした。
「はい。
北の方様――は……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……とても、お可愛らしい方でした。」
御息所の眉が、ほんの少し動いた。
「可愛らしい?」
「はい。」
紗世は真顔で続ける。
「大変、理知的で、気品がおありで、そして――」
小さく息を吸い
「ものすごく、素直になれないお方でした。」
沈黙。
そして御息所の口元が、わずかに緩む。
「……そう。」
「源氏の君のお話になると」
「ええ。」
「耳まで真っ赤にして否定なさるのですが」
「ええ。」
「最終的には、好きではないとは言い切れませんでした。」
御息所は目を伏せた。
「……そうですか。」
その声には、安堵が混じっていた。
「飾り髪は?」
「とても気に入ってくださいました。」
「よかった。」
「……それから」
紗世は少し躊躇した。
「私と北の方様の二人きりにしてほしい、と仰って」
御息所の視線が上がる。
「何を話したのです?」
「……恋のお話、少しだけ。」
御息所は何も言わない。
ただ静かに続きを待つ。
「北の方様は」
紗世はゆっくり言った。
「源氏の君に迷惑をかけたくない、と仰っていました。」
「……迷惑?」
「政略結婚の重圧もあるのに、そこへ自分の感情まで乗せたら可哀想だ、と。」
御息所の指が、膝の上でわずかに止まる。
「……優しい方ですね。」
「はい。」
紗世は頷いた。
「とても。」
しばらく、灯の音だけがした。
御息所はゆっくり言う。
「源氏の君は」
ここで初めて名を出す。
「源氏の君は、幸せ者ですね。」
声は穏やかだった。
しかし、その奥にあるものを、紗世は感じた。
羨みでも、怒りでもない。
ただ――
少し遠くを見るような静けさ。
「御息所様。」
「ええ。」
「北の方様は……大丈夫です。」
御息所が視線を向ける。
「少し時間はかかると思いますが」
紗世は真剣な顔で言った。
「きっと、良いご夫婦になります。」
沈黙。
そして御息所は、ふっと微笑んだ。
「……あなたが言うなら、そうなのでしょうね。
……ところで紗世。」
「はい?」
「あなたは今日は、随分疲れている顔をしています。」
「え。」
「何か大変でした?」
紗世は一瞬迷い、小声で言った。
「……ツンデレ対応は、体力を使います。」
「つんでれ……?」
御息所は一拍置いて、ふっと吹き出した。
「そう。」
「はい……。」
「では、しばらくは回復なさい。」
「はい……。」
(でも多分また呼ばれるんだよな……。)
紗世は心の中で遠い目をした。
灯が静かに揺れた。
────
紗世が葵の上の邸を再訪してから数日後。
都には早くも噂が広まっていた。
「源氏の君と北の方が仲睦まじいらしい。」
「政略結婚で愛情は無いと言われていたが、そうでもないらしい。」
その言葉を耳にするたび、紗世の胸は少し温かくなった。
(良かった……本当に。)
だが同時に、
(……御息所様のことを思うと、素直に喜んでばかりもいられないな……。)
空を見上げ、小さく息をつく。
(もともと御息所様が源氏の君と公に結ばれるのは難しかった。
……でも、それでも失恋は失恋、だよね……。)
その時、門の方から聞き慣れた声がした。
紗世がそちらへ向かうと、そこには惟成が立っていた。
「……あれ?惟成殿?どうしたんですか?」
「ああ。和泉殿か。注意喚起で各屋敷を回っているのだ。」
「注意喚起?なんの?」
「以前、若い女人が突然苦しみ出した件があっただろう。」
「ああ!源氏の君が通ってた、夕顔の咲いてる邸の女人が倒れたやつ!」
「そうだ。あれと同じことが、また起こり始めている。」
「ええ!?
でもあれ、生霊とか呪詛の可能性が高いって言ってたじゃない!
どう気をつければいいのよ!?」
「……まあ、異変があれば速やかに陰陽寮や祈祷師へ。
それから夜間の外出は控えることだ。普通に危険だからな。」
「はーい……。」
紗世は腕を組み、ふと思い出したように顔を上げる。
「あ!惟成殿!」
「なんだ。」
「姫君達からの文、ちゃんと返事書いてる?」
ニヤニヤと笑う。
惟成は露骨にうんざりした顔で手を振った。
「返事はしている。だがそれだけだ。
和泉殿が期待するようなことは何も無い。」
「なんだあ〜。つまんないの。何かあったら教えてよね。」
「誰が教えるか。」
惟成はふいと顔を背け、そのまま次の屋敷へ向かっていった。
紗世が御殿へ入ると、
六条御息所の前に、一通の文が置かれていた。
「御息所様……その文は?」
「源氏の君の北の方からです。」
(……これは、まさか。)
紗世の胸が、嫌な予感と諦めで同時に重くなる。
「再び、紗世に来てほしいとのことです。」
(やっぱりね〜……。)
思わず遠い目になる。
「御息所様……。」
御息所は少しだけ間を置き、静かに言った。
「……行ってきなさい。」
その声は穏やかで、けれど、どこか柔らかく寂しかった。
紗世は小さく頭を下げた。
「……はい。」
廊へ出て、ぽつりと息を吐く。
「はぁ……。」
(今度は何が起きるんだろ……。)
そう呟きながら、紗世は支度へ向かった。
都の空は、どこか落ち着かない色をしていた。




