第46話 葵の上 狂想曲
その時だった。
――コトン。
廊下の向こうで、何かがぶつかる音。
続いて、女房の慌てた声。
「きゃっ……! お、お待ちくださいませ……!」
(ん?)
紗世が顔を上げる。
襖の外が、妙に騒がしい。
「ま、待ってください! 今は――」
「構わぬ。」
落ち着いた、しかし聞き覚えのありすぎる声。
「北の方に急ぎ伝えたいことがあってな。」
(……いやいやいやいや。)
紗世の背中に冷や汗が走る。
(この声……)
襖が、すっと開いた。
そこに立っていたのは――源氏の君。
「……源氏の君!?」
葵の上が立ち上がりかけて固まる。
紗世、心の中で絶叫。
(なんで来るの今!!!!)
「突然すまない。文では足りぬと思ってな。」
源氏は穏やかに微笑みながら中へ入る。
「……和泉殿も来ていたのか。」
(来ていたのか、じゃないんですよ。今めちゃくちゃ大事な場面だったんですよ!)
葵の上、まだ顔が赤い。
視線が泳ぐ。
さっきまでの会話が、部屋に充満している。
源氏、ふと首を傾げる。
「……何やら、顔が赤いが。」
「ち、違います!」
即答。
(早い。)
「暑いのです!」
「暑い?」
源氏、火鉢を見る。
今日は普通に寒い。
「火鉢を焚いておりますし……」
「それはいつものことだが。」
(瓜、論破すな!)
「和泉殿。」
「は、はい。」
「ちょうど良い。先日の礼を改めて言おうと思ってな。」
(やめて。)
「北の方が笑ってくださったのは、和泉殿のおかげだ。」
(やめてえええ。)
葵の上、さらに赤くなる。
「私は本当に嬉しくてな。あの日は帰りの牛車でも――」
「源氏の君!」
葵の上、思わず声を張る。
「はい?」
「そ、その話は……今は……!」
「? なぜだ。」
(空気!!!! 読んで!!!!)
源氏がふと、二人の間を見比べる。
「……何か、話していたのか?」
沈黙。
紗世、視線をそらす。
葵の上、視線をそらす。
(終わった。)
「いや、その……」
葵の上がしどろもどろになる。
「別に……何も……」
源氏、にこやかに言う。
「和泉殿。北の方は、私のことを何か申しておられたか?」
(聞くな。今それ聞くな!)
紗世、口が勝手に動く。
「ええと……その……」
葵の上、無言で紗世を見る。
目が訴えている。
(言ったら殺す)
(でも黙ってても怪しい。どうする私!)
一瞬の逡巡。
そして。
「北の方様は――」
葵の上、ぎゅっと目をつむる。
「源氏の君に……」
源氏、少し身を乗り出す。
「……」
「……早く帰ってきてほしいと。」
しん。
葵の上、固まる。
源氏、瞬き。
「……ほう?」
紗世、止まらない。
(もうこうなったら押し切るしかない。)
「通いが途絶えると、その……面子が……と。」
「面子。」
源氏、真顔でうなずく。
「大事だな。」
葵の上、今度は恥ずかしさで震え始める。
(ごめんなさい北の方様。でも完全な嘘じゃない。)
源氏が、ふっと柔らかく笑った。
「安心せよ、北の方。」
葵の上、びくっとする。
「これからは、なるべく早く帰るようにしよう。」
「……!」
「今日も、本当はもう少し遅くなる予定だったが……」
少し照れたように言う。
「顔を見たくなって、寄った。」
完全沈黙。
(うわああああああ!本人が言ったああああ!!)
葵の上、声が出ない。
紗世、天井を見上げる。
(私はよっしゃ!って感じだけど、北の方様……恥ずかしいだろうなぁ……ごめん!)
源氏が何気なく言う。
「そういえば和泉殿。」
「はい……」
「先ほど、外で女房が申していたが。」
嫌な予感しかしない。
「“北の方が可愛いと話しておられた”と聞いたが……」
時間、停止。
葵の上、真っ白。
紗世、真っ白。
(誰だ聞いてたの。
どこの女房だ。
情報漏洩早すぎる)
源氏の君、きょとん。
「……違うのか?」
葵の上、ついに耐えきれず。
「違いません!!」
言ってから、固まる。
(あ。言っちゃった。)
部屋、完全に静止。
源氏、ゆっくり笑う。
「……そうか。」
優しく言う。
「では、今日からは可愛い北の方の為に、もっと早く帰ろう。」
葵の上、両手で顔を覆う。
紗世、心の中で合掌。
(爆速で帰ってくる未来、確定しましたー。)
――その夜。
左大臣家の北の方の御殿。
灯りは落とされ、女房たちも下がり、静まり返った寝所。
布団の中で。
葵の上は――
ごろり。
右を向いた。
ごろり。
左を向いた。
そして。
ばさっ。
布団を頭までかぶった。
「……無理……。」
小さく、くぐもった声。
(顔を見たくなって、寄った。)
「……っっ!!」
布団の中で、足をばたばたさせる。
(では、今日からはもっと早く帰ろう。)
「やめて……。」
さらに布団を握りしめる。
(違いません!!)
「~~~~~~~っ!!」
自分で言った言葉を思い出し、
布団に顔を埋めて悶絶。
「なぜ……なぜあの場で……。」
パシン、と枕を叩く。
「違いませんなどと……!」
(可愛いと話しておられた。)
「誰よ聞いてた女房は!!」
小声で怒る。
「どこの……どこの耳ざとい者なの……!」
静かになったかと思うと
ぽつり。
「……好き、では……あるけれど……」
自分の言葉に、自分で赤くなる。
「でもあれは……その……」
布団を少しだけ下げて天井を見る。
「政略結婚だし……私の方が年上だし……」
しょんぼり。
「面倒だと思われたくないのに……」
沈黙。
そして。
(北の方が可愛いと)
「…………」
じわじわ。
耳まで赤くなる。
「……可愛い……?」
両手で頬を触る。
「……私が……?」
しばらく真顔。
次の瞬間。
ばたばたばたばた!!
再び布団の中で暴れる。
「和泉のせいよ!!」
小声で抗議。
「あの者が、あんなことを言うから……!」
ふと、動きが止まる。
「……でも……」
小さく呟く。
「本当に……早く帰ると言っていた……。」
思い出す。
昼間の、あの穏やかな声。
あの表情。
「……顔を見たくなって、寄った……。」
しん。
今度は、暴れない。
布団の中で、
そっと胸元を押さえる。
「……そんなこと……」
目を閉じる。
「……言われたら……」
小さく、息を吐く。
「……期待してしまうじゃない……。」
コンコン。
「北の方様、まだお休みでございませんか?」
びくっ。
葵の上、瞬時に布団を整える。
「……何?」
「源氏の君より、文が届いております。」
「……!」
心臓が跳ねる。
「……そこに置いておきなさい。」
「は。」
女房が下がる。
しばらく動かない。
完全に一人になってから、
そろ……っと起き上がる。
文を取る。
開く。
短い一文。
今夜は突然失礼した。
明日も早めに戻るつもりだ。
沈黙。
そして。
「……本当に爆速……。」
ぽつり。
自分で言って、自分で顔を覆う。
「……和泉……」
天井を見上げて
半分恨めしく
半分感謝するように呟く。
「あなた……とんでもないことをしてくれたわね……。」
でも。
文を胸元にそっと押し当てる。
ほんの少しだけ、
口元が緩んだ。
そのまま布団に潜り込み、
今度は静かに目を閉じる。
――ただし、
顔の赤みは、
しばらく消えなかったという。




