第45話 再訪!葵の上邸
数日後。
紗世は一人、牛車に揺られていた。
六条御息所の邸を出てから、ずっと胸が落ち着かない。
(源氏の君なしで……北の方様と二人……)
相手は
葵の上。
都でも屈指の名門・左大臣家の姫であり、そして源氏の君の北の方。
(怒ってたらどうしよう……
昨日の訪問が失礼だったとか……。)
考え始めると止まらない。
やがて牛車が止まった。
「和泉殿、到着にございます。」
深呼吸を一つ。
「……参ります。」
案内された部屋は、前回と同じ。
静かで、整いすぎていて、少し冷たい。
御簾の向こうに、葵の上が座っていた。
「……和泉でございます。本日はお招きいただき、恐れ入ります。」
「……よく来てくれました。」
声は相変わらず静かで、感情が読めない。
(怒って……ない?)
沈黙。
……長い。
(やばい、もう沈黙)
紗世が口を開こうとした、その時。
「……あの。」
葵の上の方から声が来た。
紗世が思わず顔を上げる。
「はい。」
「……先日の飾り髪。」
「はい。」
「……あれを。」
少しだけ間。
「……もう一度、お願いしたくて。」
(ほんとにそれだけ!?)
紗世の肩の力が、少し抜ける。
「……あの時。」
葵の上が続けた。
「鏡を見たら……」
珍しく、言葉を探している。
「……少し、違って見えて。」
紗世は黙って待つ。
「……悪く、ありませんでした。」
(最大級の褒め言葉だこれ)
「恐れながら申し上げます。」
紗世は柔らかく言った。
「本日は、どのような結びを?」
「……あなたに任せます。」
(任せる来た!)
これは信頼の証でもあり、責任重大でもある。
紗世は静かに近づき
「では、失礼いたします。」
そっと髪に触れた。
静かな部屋。
衣擦れの音だけ。
葵の上の髪は、絹のように滑らかだった。
(この人……本当に綺麗なんだよな……)
整えながら、紗世はふと気づく。
鏡越しに、葵の上がこちらを見ている。
目が合う。
葵の上が、ほんの少しだけ口を開いた。
「先日……」
「はい。」
「源氏の君は……何か言っていましたか?」
「源氏の君、ですか?」
「だから、その……私の髪を見て……何か感想は……」
紗世は一瞬で察し、にこっと笑う。
「あの時も仰っていましたが、とても似合っていたと。」
「そう。」
「それから、北の方様が少し笑ったのが見られて、嬉しかった、と。」
「……嬉しかった?」
「はい。北の方様の笑顔が見られて嬉しかったそうです。これからは、なるべく早く帰るようにしたい、と。」
「そうですか。」
声は相変わらず淡々としている。
しかし。
――耳が、ほんのり赤い。
(あ、これは……)
紗世はそっと身を寄せ、女房たちに聞こえないよう小声で言った。
「北の方様は、源氏の君のことが、とてもお好きなのですね。」
ぐるん!!!
ものすごい勢いで葵の上が振り返った。
「な……なぜ……なぜ、そう思うの!?」
「え……だって……今、耳まで真っ赤に……」
ズザッ!!!
葵の上、両耳を覆って後退。
「北の方様? いかがなさいました?」
女房が怪訝そうに声をかける。
「何でもないわ。それより、和泉以外は皆、下がってちょうだい。」
「え、しかし……他家の者と二人きりにするわけには」
「いいから! 下がってちょうだい!」
さささっと衣擦れの音。
静寂。
「あ、あの……北の方様……?」
――ガシッ!!!
(ぅわあ!!!)
葵の上が紗世の肩を掴む。近い。顔が近い。
「べっ……別に! 耳が赤くなったのは、源氏の君が好きってわけじゃないから!」
(この距離で否定するの、逆に怪しすぎる。)
「私たちは政略結婚なんだから!」
「はい。」
「あ、愛なんて無いんだから! ただ私は北の方として、源氏の君には通ってもらわないと……その、左大臣家の面子が……」
「面子……」
「そうよ! 面子!! 好きとかじゃなくて! 通いが途絶えたら面子が潰れるのよ!」
「……では、源氏の君のことは、お好きでは無いのですか?」
「そうね……好きってわけじゃないけど……」
「政略結婚だから、少しも、微塵も、これっぽっちも?」
「そ、そこまでは言ってないでしょう!?」
(食いついた。)
紗世、わざとしょんぼりする。
「嫌いでもないけど、好きでもない……何の感情も無いってことですか……。」
「いや! 無いわけじゃ……」
「無いわけじゃ?」
「その……」
沈黙。
(これは……ツンデレ属性、キター!!!)
紗世の内心、拍手喝采。
「先ほど耳が赤くなられたのは、暑かったからですか?」
「そ、そうね、暑いわ。」
「今日は春なのに寒の戻りで、火鉢も焚いておりますが。」
「……暑いの!」
「なるほど。」
紗世、真顔でうなずく。
「では暑さ対策に、飾り髪の続きをいたしますので、あちらを向いてください。」
葵の上は素直に前を向く。
……が。
ちら。
また、ちら。
「あの……北の方様。頻繁に後ろを見られますと、頭が動いて結えません。」
「……ごめんなさい。」
しゅん。
(かわいいな、この人。)
すっ、すっと髪を結う音。
やがて葵の上が小さく言う。
「源氏の君は……あなたから見て、どんな方に映っているかしら。」
「お優しい方だと思います。それに、意外と気さくで話しやすいですし。」
「話しやすいの?」
「ええ。」
「……そう。」
少し間。
「北の方様は、話しづらいのですか?」
「話しづらいというか……何を話したらいいのか……」
(あー、会話ネタ不足タイプ。)
「それに、私とは政略結婚だし、私の方が四つ年上だし、源氏の君は私に対して愛は……無いでしょうし……」
声が小さくなる。
「源氏の君、北の方様への愛はあると思いますよ?」
「え!!!?」
ぐるん!!(本日二回目)
「どうしてそう思うの!!?」
「何とも思っていないなら、私をわざわざ連れてきて、飾り髪を結わせたりしませんよ。」
真剣な沈黙。
「それに、北の方様が笑ったのが嬉しいって言ってたんです。喜んでほしいって思ってたからでしょう?」
「私に……喜んでほしい……?」
「何とも思ってない人に、喜んでほしいなんて思います?」
葵の上、固まる。
紗世、追撃。
「でも北の方様は何とも思っていないのですね。源氏の君、がっかりするでしょうね。」
「違うわ!」
即答。
「何とも思ってないわけじゃないの!」
「嫌いなのですか?」
「嫌うわけないでしょう!」
「じゃあ好きなんじゃないですか。」
「……っ」
図星。
「源氏の君には、言わないで。」
「好きなことを?」
「面倒な北の方だと思われたくないの。」
「好きって、面倒ですか?」
「政略結婚の重圧があるのよ。そこに嫉妬心まで背負わせたら、可哀想でしょう……。」
(うわーーーー健気!!)
紗世、ぐっと拳を握る。
「今の言葉、そのまま源氏の君に言ってください。」
「だから重圧が……」
「大丈夫です。」
きっぱり。
「私の予想では、“何ていじらしいんだ”って言って、好感度、爆上がりです。」
「え。」
「むしろ可愛すぎて、毎日、爆速で帰ってきます。」
「え……」
「“今日も北の方が可愛い”って言いながら牛車から飛び降りてきます。」
「飛び……降り……?」
「門の前で転びます。」
「転ぶの!?」
「でも立ち上がって走ってきます。」
「走るの!?」
「そして“ただいま”って言います。」
「言うの!?」
「言います。」
葵の上、完全に想像してしまい、顔が一気に真っ赤になる。
「わ、わ、私が……可愛い……?」
「はい。」
紗世、にっこり。
「現時点で、私が思っているくらいですから。」
葵の上の顔が、耳まで真っ赤に染まった。




