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第44話 葵の上からの文

葵の上の御邸を出ると、夕暮れの空気はまだ柔らかかった。


牛車に乗り込んだのは源氏の君と紗世。


牛車がゆっくり動き出す。


しばし沈黙。


そして――


「……和泉殿。」


「はい?」


「今日は本当に助かった。


北の方――葵の上のご様子、悪くなかった。」


「ええ、穏やかでしたね。」


「和泉殿のおかげだ。」


紗世は軽く頭を下げた。


「いえ、私は髪を少し整えただけです。」


「いや、それが良かった。」


源氏は本気で感心した顔をしている。


「髪を結っている間、あれほど静かに落ち着いておられたのは初めて見た。」


「静かな時間、大事ですから。」


「うむ。……それに」


源氏は少し声を落とした。


「“お似合いです”と言われたとき、北の方がほんの少し微笑んだ。」


「ええ。」


「……あれは嬉しかった。」


(本人が一番喜んでる)


紗世は思わず小さく笑った。


「和泉殿。」


「はい。」


「本当にありがとう。」


「……源氏の君。」


「うむ?」


「そんなに何度も礼を言われると」


「うむ。」


「逆に怖いです。」


「怖い?」


「はい。後から“やっぱり駄目だった”とか言われそうで。」


源氏は吹き出した。


「そんなことは言わぬ。」


「では安心しました。」



牛車が揺れる。


源氏は外を眺めながら、珍しく鼻歌まじりの声で言った。


「四日も気が重かったが……今日は行って良かった。」


(めちゃくちゃ上機嫌だ)


「帰宅の挨拶に行くのが嫌で遅く帰ることも少なくなりそうだ。」


「それは何よりです。」


「うむ。……和泉殿。」


「はい。」


「今後も相談に乗ってくれるか。」


「内容によります。」


即答だった。


源氏はまた笑った。



「では次は――」


「次はありません。」


「……早いな。」


「今日は成功寄りの“様子見”ですから。」


「なるほど。」


「次は北の方様が“また髪を整えてほしい”と仰ったらです。」


源氏は満足そうに頷いた。


「その日が来るといい。」


「ええ。」


牛車は静かに夕暮れの道を進んでいった。



夜。


六条御息所の御座所。


灯りは控えめで、香だけが静かに漂っている。


六条御息所の前に、紗世が座した。


「……それで。」


御息所が静かに言う。


「北の方のご様子は?」


「落ち着いておられました。」


「そう。」


短い一言。


紗世は続けた。


「最初は少し緊張されていましたが、髪を整えている間は穏やかで。

最後には、少しだけ笑顔も。」


御息所は扇を閉じた。


「……笑顔。」


その声は感情が薄い。


だが、沈黙が少し長い。



「源氏の君は?」


「とても……上機嫌でした。」


「でしょうね。」


即答だった。


紗世は少しだけ苦笑した。


「何度も礼を言われました。」


「それも想像がつくわ。」


御息所は静かに香炉へ視線を落とす。



「北の方が穏やかであることは」


御息所はゆっくり言った。


「源氏の君にとって良いこと。」


「はい。」


「そして」


少し間。


「……都にとっても、良いこと。」


(御息所様……)


その言葉は理性的で、正しい。


けれど。


扇を持つ指が、ほんのわずかに止まった。



「和泉。」


「はい。」


「今日はよく働きました。」


「ありがとうございます。」


「もう下がってよいわ。」


紗世が退出し、御簾が静かに降りる。


一人になった御息所は、しばらく動かなかった。


やがて小さく息を吐く。


「……北の方。」


その声は誰にも届かない。


香の煙がゆらりと揺れ、夜に溶けた。



翌日の午後。


六条御息所の邸に、紗世宛の文が届いた。


差出は――

葵の上。


頭の中に昨日のやり取りが浮かぶ。


『次は北の方様が“また髪を整えてほしい”と仰ったらです。』


『その日が来るといい。』


(来ちゃったよ!!!!!速攻で!!!!)


紗世は少し戸惑いながら御前へ進み出た。


「御息所様……源氏の君の北の方様から、私宛に文が参りました……。」


六条御息所は静かに顔を上げた。


「……なんと書いてあります?」


紗世は文を広げる。

薄い紙がかすかに音を立てた。


目で一行、二行と追い――


「……近いうちに、もう一度お越しいただきたい、と。

今度は源氏の君は伴わず、お一人で、とございます。」


沈黙が落ちた。


御息所がゆっくり言う。


「昨日はつつが無く終わったのですよね?」


「はい。……少なくとも私は、そう思っております。」


「他には?」


「……特には。

飾り髪を、またお願いしたい――その程度でございます。」


御息所は小さく頷いた。


「飾り髪が気に入られたのかしら。

だから他の結び方も試してみたい、と。」


「だと良いのですが……。」


紗世は少しだけ表情を曇らせた。


「御息所様、いかがいたしましょう。」


「源氏の君の北の方ですし、飾り髪を先に提案したのはこちら側です。」


少し間を置き


「……断るのは難しいでしょう。」


「では……伺ってもよろしいのですか?」


「仕方ありません。お伺いいたします、と返事を。」


「承知しました。」


紗世は深く頭を下げた。



顔を上げると、御息所はどこか神妙な面持ちで黙っている。


「……御息所様?いかがなさいましたか。」


御息所は少しだけ視線を落とし、静かに言った。


「いえ……和泉は、人に必要とされているのね、と思って。」


「え?」


「常陸宮の姫君に、源氏の君。

そして源氏の君の北の方……」


ゆっくりと言葉を重ねる。


「皆、繰り返しあなたに会っているでしょう?

会おうとしている。」


紗世は言葉を失った。御息所は続ける。


「それに他家からも飾り髪を教えてほしいと毎日のように声が届いているでしょう。」


「……はい。」


「優秀な女房は、どの家も欲しがるものです。」


そして、ほんの少しだけ声を落とした。


「……相手は源氏の君の北の方。

もし、和泉が左大臣家に引き抜かれたら……と。」


「有り得ません!!!!」


紗世は、ほとんど被せるように言った。


「私は六条御息所様の元を離れるつもりは、

これっっっっっぽっちもございません!!」


御息所が目を見開く。


紗世は止まらなかった。


「例え帝や中宮様にお声をかけられようと、

私は御息所様から離れません!!!」


しん、と部屋が静まり返る。


御息所は一瞬呆気に取られ、

そしてふっと笑った。


「……ふふ。ありがとう。」


「六条御息所様は……」


紗世は少し言葉を探し、


「今や私にとって、母上のような、姉上のような……すごく安心するお方で……」


言いながら少し赤くなる。


「とにかく!

御息所様に“出て行きなさい”と言われない限り、私はここを離れるつもりはありません!!」


御息所は静かに微笑んだ。


「……母のように、思ってくれているのですね。」


「あ……でも、御息所様には既に可愛らしい姫君がいらっしゃいますし…

こんな騒がしい娘……

御息所様に相応しくないかも……。」


紗世は急にしゅんと肩を落とす。



「――紗世。」



柔らかい声だった。


「え!?」


紗世の目が丸くなる。


(御息所様が……和泉じゃなくて……名前を……?)


御息所は穏やかに笑った。


「娘ならば、名前で呼ばなくてはね。」


紗世の顔がぱっと明るくなる。


「は、はい!紗世は嬉しゅうございます!!」


その声は、少しだけ震えていた。


久しぶりに呼ばれた名前。


胸の奥が、じんわり温かくなる。


同時に――


(このお方を、絶対に生霊になんてさせない。)


原作では、御息所の想いはやがて怨念となり、葵の上を蝕む。


(そうはさせない。このお方のお心は、私が守る。)


紗世は静かに拳を握った。


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