第43話 出陣!葵の上邸
四日後に北の方――**葵の上**のもとへ行く。
そう決まった翌日。
光源氏は、またしても六条御息所邸に来ていた。
「……というわけで、四日後に伺うことになりました。」
源氏が静かに言う。
しばし沈黙。
「……和泉殿。」
「はい。」
「どうしたらよいと思う。」
(また丸投げ来た。)
紗世は一度目を閉じ、小さく息を吐いた。
その時、横で静かに扇を動かしていた六条御息所が、ふっと薄く笑う。
「本当に、この方は相談の形だけ整えて、結論を人に任せる癖がおありね。」
「御息所まで……。」
「事実でしょう。」
紗世は苦笑し、気を取り直した。
「北の方様は」
「うむ。」
と、光源氏が頷く。
「会話、広がりませんね?」
「広がらぬ。」
「短く返ってくる?」
「返ってくる。」
「沈黙になります?」
「なる。」
「気まずい?」
「……気まずい。」
「ですよね。」
御息所が静かに補足する。
「しかもその沈黙、逃げ場のない重さなのよね。」
「……はい。」
「場にいる全員が、自分の袖の模様でも数え始めるような。」
源氏が目を伏せた。
「……まさにそれだ。」
紗世は腕を組んだ。
(会話でどうにかするのは無理だな。)
「源氏の君。」
「うむ。」
「会話で攻めるの、やめましょう。」
御息所がくすりと笑う。
「それは賢明ね。この方、言葉で押すと余計に空回りするもの。」
「御息所……。」
「事実です。」
紗世は続けた。
「“目に見えるもの”から入ります。」
「目に見えるもの?」
紗世は自分の髪に軽く触れた。
「飾り髪です。」
源氏が少し目を見開き、御息所の視線が興味深げに紗世の髪へ落ちる。
「北の方様は」
「うむ。」
「自分から話題を出すのが苦手です。」
御息所が静かに頷く。
「ええ。無理に話そうとして、余計に固くなる方ね。」
「でも」
紗世は指を立てた。
「目の前に変化があれば、人は反応します。」
「変化……。」
「新しい髪型、髪具、結び方。」
御息所が小さく笑う。
「確かに。女は鏡と髪の話には弱いものよ。」
「“それは何ですか?”って聞かれたら?」
源氏がぽつりと言う。
「確かに……それなら自然に言葉が出る。」
「四日後、私も同行します。」
「頼む。」
「北の方様にお会いしたら」
「うむ。」
「まず私が軽くご挨拶して」
御息所が静かに口を添える。
「礼は簡潔に。長い前置きは、あの方を疲れさせるわ。」
「はい。」
「その場で」
「その場で?」
「北の方様の髪、少し整えさせていただきます。」
源氏が驚く。
「いきなりか?」
「いきなりはしません。」
御息所が楽しそうに扇を口元へ。
「北の方に“いきなり”など出来るはずないでしょう。」
「では?」
「源氏の君が言うんです。」
「何と?」
紗世は真顔で言った。
「『最近、都で飾り髪が流行っているらしい。和泉が少し整えてくれるそうだが、試してみないか』」
御息所が頷く。
「いいわね。それなら押しつけにならない。」
「これなら」
紗世が続ける。
「断っても失礼じゃないし」
「確かに。」
「受けても自然です。髪を触らせてもらえれば」
「うむ。」
「私は北の方様の顔を近くで見られる。」
御息所が静かに目を細める。
「表情も読めるわね。」
「声も自然にかけられる。」
「……。」
「『この辺りを少し結びましょうか』とか」
「……。」
「『お似合いです』とか。」
源氏が小さく笑う。
「和泉殿は、戦の采配のようだな。」
「戦ですから。」
即答だった。
御息所が肩を震わせる。
「まあ。本当に戦と思っているのね。」
「はい。」
「頼もしい軍師ね。」
紗世は少し声を落とした。
「北の方様は」
「うむ。」
「源氏の君にどう接していいか分からないんです。」
御息所が静かに視線を落とす。
「……ええ。」
「でも」
「うむ。」
「髪が整えられていく間」
「……。」
「無理に話さなくていいです。」
御息所が柔らかく言う。
「沈黙が“失敗”にならない時間ね。」
「その“静かな時間”が」
紗世は続ける。
「最初の安心になります。」
源氏は黙ったまま頷いた。
「ただし」
紗世が言う。
「ひとつ条件があります。」
「何だ。」
「源氏の君。」
「うむ。」
「その間」
「うむ。」
「ずっと見つめないでください。」
「……なぜだ。」
「緊張します。」
「……。」
「北の方様も、私も。」
御息所がすぐに追い打ちをかける。
「それは本当にやめた方がいいわね。この方、無意識に熱心に見つめる癖があるもの。」
「御息所まで……。」
源氏は思わず吹き出した。
「では私は何をしていればいい。」
紗世は即答した。
「静かに座っててください。」
御息所も重ねる。
「できれば微笑みも控えめに。」
「……それだけか。」
紗世は真顔で言った。
「それが一番難しいと思います。」
御息所が小さく頷く。
「ええ。それが最難関ね。」
源氏はしばらく黙り、
「……努力しよう。」
と、珍しく弱気に言った。
四日後──
牛車がゆっくりと停まった。
「……着いたか。」
簾の向こうで、源氏の君が小さく息をつく。
その声を聞きながら、紗世は背筋を伸ばした。
(いよいよ本丸……北の方様の御邸。)
御者が告げる。
「左大臣家の御邸にございます。」
牛車の簾が上がり、朝のやわらかな光が差し込んだ。
源氏の君――光る君、光源氏が先に降りる。
続いて紗世も静かに地に足を下ろした。
邸は広く、整い、静まり返っている。
華やかさよりも、凛とした気配が支配していた。
(……静かすぎる。笑い声ひとつ聞こえない。)
まるで空気まで姿勢を正しているようだった。
迎えに出てきた女房が、深く頭を下げる。
「源氏の君、ようこそお越しくださいました。北の方様にはすでにお知らせしております。」
「そうか。」
源氏は穏やかに頷くが、ほんのわずかに視線が泳ぐ。
紗世はそれを見逃さない。
(この人、緊張してる……)
⸻
女房に導かれ、長い廊下を進む。
足音が静かに響く。
源氏は小声で言った。
「……和泉殿。」
「はい。」
「今からでも帰る、という選択肢は……」
「ありません。」
即答だった。
「……そうか。」
「四日待って今日なのですから。」
「うむ……。」
「座っていてください、覚えてますね?」
「……覚えている。」
「見つめない。」
「……努力する。」
「努力ではなく、実行してください。」
源氏が小さく咳払いする。
女房が振り返った。
「こちらでございます。」
几帳の向こう、白い衣の気配。
静かで、動かない。
女房が告げる。
「源氏の君、和泉殿、お入りくださいませ。」
源氏が一礼し、ゆっくりと中へ入る。
紗世も続いた。
几帳の向こうから、落ち着いた声がした。
「……お越しくださったのですね。」
それが、葵の上だった。
姿を現した葵の上は、変わらず端正で、静かで、近寄りがたいほど整っている。
源氏が言う。
「しばらく伺えず、すまなかった。」
「いえ。」
短い返答。
(うわ、噂通り会話が終わる速度が速い。)
紗世は心の中で小さく頷いた。
源氏が続ける。
「今日は……和泉を連れてきた。」
葵の上の視線が、初めて紗世へ向く。
静かな観察の目。
紗世は深く頭を下げた。
「六条の御方に仕える女房、和泉と申します。本日はご挨拶をお許しいただき、恐れ入ります。」
(第一印象、大事。)
葵の上はわずかに頷く。
「……聞いております。」
それだけ。
沈黙。
(はい来た沈黙。)
源氏が固まりかける。
「最近、都で飾り髪が流行っているらしい。和泉が少し整えてくれるそうだが、試してみないか?」
(この間、練習したセリフ、まんま言ったな…。
まあいいや…ここからは座っててください源氏様座っててください喋らないで!)
紗世は一歩だけ進み、柔らかく言った。
「北の方様。」
「……何でしょう。」
「本日は、失礼ながら――少しだけ、都で流行りの髪の整え方をご覧に入れられればと思い参りました。」
源氏が横で小さく息を飲む。
(よし……。)
葵の上は驚いた様子もなく、ただ静かに紗世を見た。
「……髪を?」
「はい。ほんの少し整えるだけでございます。もしお気が進まなければ、すぐに下がります。」
沈黙。
源氏は必死に視線を床に落としている。
(見つめない作戦、ちゃんと守ってる……偉い。)
数秒。
やがて葵の上が言った。
「……少しだけなら。」
源氏の肩が、目に見えて緩んだ。
(第一関門、突破。)
紗世は静かに近づき、後ろに回る。
近くで見る葵の上の髪は、美しく、重く、整いすぎていた。
(触られる前提で整えた髪じゃない……でも逆にやりやすい。)
紗世はそっと櫛を入れる。
「失礼いたします……。」
静かな時間が流れる。
無理な会話はしない。
髪を分け、少しだけ結び、飾り簪を差す。
小さな銀の飾りが光を受けて揺れた。
「……できました。」
葵の上がゆっくり鏡を見る。
ほんのわずか、表情が動く。
「……軽い。」
「はい。重さを少しだけ分けました。」
「……そう。」
また短い返答。
でも今度は、沈黙が気まずくなかった。
葵の上が、ふと源氏の方を見る。
「……どうでしょう。」
源氏は一瞬固まり、
(見ていいのか?今見ていいのか?)
恐る恐る顔を上げた。
そして、思わず本音が漏れた。
「……よく似合っている。」
葵の上が、ほんのわずかに目を伏せた。
その沈黙は、今までの沈黙と少し違っていた。
紗世は心の中で拳を握る。
(よし。完全勝利じゃないけど、初戦としては上出来。)




