第42話 源氏、相談に行く
宮中の長い廊下を歩いていた時だった。
「源氏の君。」
穏やかな声に呼び止められ、源氏の君は足を止めた。
振り向くと、そこには左大臣が静かに立っていた。
「左大臣殿。なんでございましょう。」
表面は柔らかく一礼する。
だが内心は、すでに察していた。
(……葵のことだろうな。)
「娘のことだがね……」
(やはり。)
左大臣は穏やかな表情のまま続けた。
「最近、娘とはどうだい?
娘の元には行っているのかね?」
「なるべく伺うようにはしておりますが、政務や諸用も多く……姫君に満足いただけるほどではないかもしれません。」
口ではそう答えながら、
(帰っても、挨拶して終わることが多いんだよな……。)
と心の中で苦笑する。
「娘の方が歳上で気を使うのかもしれんが、娘は正妻だ。
良くしてやってくれ。」
少しだけ声が低くなった。
「儂も、そろそろ孫の顔が見たいもんだ。」
源氏の君は一瞬だけ言葉を詰まらせ、
「……努力します。」
と頭を下げた。
左大臣は満足そうに笑い、去っていった。
廊下に残された源氏の君は、静かに息を吐く。
葵の上を蔑ろにしているつもりはなかった。
最初の頃は、できるだけ頻繁に訪れた。
他愛ない話でもしようとした。
だが――
「ええ。」
「はい。」
「いいえ。」
「そうですか。」
「そうなのですね。」
返ってくるのは、短い相槌ばかり。
葵の上から話題を振られたことも、会話が膨らんだこともない。
まるで、人形を前に独り言を言っているようで
次第に足が遠のいた。
屋敷に帰って、彼女の部屋に灯りがともっていると
(挨拶に行かねばならない。)
そう思う。
そして、それが億劫で、帰宅は自然と遅くなっていった。
(……しかし。)
彼は空を仰いだ。
(彼女が私の北の方(正妻)なのだ。
無碍に扱うわけにはいかない……)
少しだけ苦く笑う。
(もう少し、可愛げがあれば……。)
「はあ……。」
小さなため息が漏れた。
(……無理か。人はそう変わらぬ。)
──その時。
ふと、脳裏に別の姫の姿が浮かぶ。
末摘花。
都中に「不美人」「酷い有様」と噂された姫君。
だが――
彼女は変わった。
明るく、どこか異国めいた華やかさを持つ姫君へ。
衣を届けに行ったあの日、初めて会話が自然に続いた。
そして彼女は言った。
「和泉殿は不思議な女房です。
私の心の澱を取り除いてくださいました。
私が変われたのは飾り髪のお陰ではありません。
和泉殿のお陰なのです。」
今では、末摘花のもとには式部卿が通い、その関係も公に知られている。
「……和泉殿か。」
思わず口に出した。
もし、紗世が葵の上と話したら。
もし、葵の上の心が少しでも動いたら。
――変わるのではないか。
そう思わずにはいられなかった。
だが。
紗世は六条御息所の女房だ。
正妻のことを、愛人の屋敷の女房に相談する。
それを御息所がどう思うか。
末摘花の時は内密だった。
だが今は違う。
紗世を連れ出す時は、必ず御息所へ報告する――そう約束している。
(どう言えばいい……。)
牛車へ乗り込みながら考える。
(角を立てず、御息所に疑念を抱かせず、それでいて和泉殿に会わせてもらうには……。)
しばし黙考し、やがて御者に告げた。
「六条御息所様の邸へ。」
牛車は静かに動き出した。
夕暮れの都を、軋む音とともに進んでいく。
牛車が六条御息所邸の前で止まった。
「六条御息所様の邸にございます。」
源氏の君は車を降りながら、小さく息を吐いた。
(……帰りたい。)
来たばかりなのに。
庭は相変わらず美しい。整いすぎていて、踏み込むだけで自分の軽率さが目立つ気がする。
(北の方の相談を、愛人の邸で。
我ながら、なかなかの無茶をしている……。)
案内され、御簾の前へ。
「源氏の君にございます。」
「お通しして。」
静かな声。
御簾の内に座すのは 六条御息所。
姿は見えずとも、そこにいるだけで空気が「正座しろ」と命じてくる。
「本日は、どうなさいました。」
穏やか。優雅。逃げ場なし。
源氏の君はとりあえず丁寧に頭を下げた。
「……少し、ご相談が。」
「相談?」
御息所、扇をわずかに傾ける。
「どなたのことで?」
(もうバレてる気がする。)
「……葵の上のことです。」
一瞬。
本当に一瞬だけ、庭の風が止まった気がした。
「……北の方のことを、私に?」
声は静か。
だが源氏の君の背中には、見えない冷たい刃が突きつけられている気がする。
「い、いえ、その……御息所様を困らせたいわけではなく。」
「でしょうね。」
即答。逃げ場、さらに消滅。
源氏の君は腹を括った。
「実は……和泉殿を、お借りできないかと。」
御息所の扇がぴたりと止まる。
「……和泉を?」
「はい。以前、末摘花の姫の折に……彼女が心を開いたと聞きました。もし葵の上にも同じように――」
御息所、ゆっくりとため息。
「つまり。」
間。
「愛人の邸の女房を連れて行って、北の方をどうにかしたい、と。」
「……はい。」
言ってしまった。
源氏の君、自分で言っておきながら軽く遠い目。
御息所はしばらく沈黙し――
ふ、と笑った。
「源氏の君。」
「はい。」
「あなた、時々、とんでもなく正直ですよね。」
「隠しても後で怒られますので。」
「よく分かっていますね。」
御息所は扇を閉じた。
「……よろしいでしょう。」
「本当ですか!?」
思わず声が少し大きくなる。
「ただし。」
はい来た条件。
「和泉は私の女房です。連れ出すなら、目的も刻限もきちんと。あと――」
ほんの少し声が柔らかくなる。
「これを理由に、私のところへ来る回数が減るようなら……許しませんよ?」
「減らしません。むしろ増えるかもしれません。」
「それはそれで困ります。」
ふたり、少しだけ笑う。
御息所が女房に目配せ。
「和泉を呼びなさい。」
――ぱたぱた。
軽い足音。
「お呼びでしょうか、御息所様――あ。」
紗世が御簾の外で源氏の君を見つけ、固まる。
「えっ、源氏の君? え、何かやらかしました?」
第一声それ。源氏の君は苦笑した。
「はい。今回は私がやらかしました。」
「安心しました……じゃなくて、どうされたんです?」
御息所がさらりと言う。
「源氏の君が、あなたを借りたいそうよ。」
「……はい?」
紗世、完全停止。
「え、借りるって……また?どこへ?」
「葵の上のところへ。」
「……はい???」
声が一段上がった。
「な、なんで私が北の方様のところに!?
私、空気読むの下手ですよ!?
ああいう静かな姫君、むしろ一番苦手なタイプです!」
御息所、扇の陰で肩が揺れる。
源氏の君は真顔で言う。
「私も苦手です。」
「でしょうね!!」
即ツッコミ。
紗世は御息所を見る。
「御息所様……本当にいいんですか?
私、余計なこと言う可能性ありますよ?」
「ええ、知っています。」
「知ってて許可したんですか!?」
「ええ。」
御息所は涼しい顔。
「むしろ、あなたが何を言うか少し楽しみです。」
「楽しみって言われると急に怖いんですけど!?」
源氏の君、思わず吹き出す。
御息所が静かに締める。
「和泉。」
「は、はい。」
「源氏の君の頼みです。行ってきなさい。」
紗世は一瞬迷い――
深く頭を下げた。
「……承知しました。
全力で“普通”に振る舞ってきます。」
「それが一番不安です。」
源氏の君、ぽつり。
「ちょっと!?」
御息所は、ふっと笑った。
「では決まりですね。」
静かな威厳の中に、ほんの少しだけ愉快そうな気配。
その場の空気が和らいだのを感じながら、紗世は小声で源氏の君にささやく。
「……あの。」
「はい。」
「今からでも、やっぱり別の人にしません?」
「もう遅いです。」
「ですよね……。」
紗世、がっくり肩を落とす。
御息所はそれを眺めながら、静かに思う。
(さて――都は、どんな騒ぎになるかしら。)
扇の奥で、ほんの少しだけ意味深に微笑んだ。




