第41話 春宴の余波 2
─── 六条御息所邸
「……え?」
紗世は、ぽかんとした。
「今、なんて?」
御息所付きの女房が、少し興奮気味に言う。
「ですから、都で今一番話題なのは
“宴で女房を庇った若い武官”だそうです。」
「……若い武官……?」
嫌な予感がした。
「源氏の随身のご子息で、まだお若いのに凛々しくて、
身を挺して女性を守ったとか何とか……」
「……あー……」
紗世は天井を見た。
「それ、惟成殿ですね。」
「やはりご存じでしたか!」
女房は嬉しそうに身を乗り出す。
「姫君方が皆、文を送っているそうですよ。
香を焚き染めて、花を添えて──」
「うわあ……」
紗世は思わず顔を覆った。
(そりゃそうなるよね……。
あの場面、どう見てもヒーロー登場だったし……)
「どうされました?」
「いや……本人、こういうの絶対嫌がるタイプなんですよ……。」
「まあ!そうなのですか?」
「ええ。今頃きっと、文の山見てうんざりしてるはず……。」
そこまで言って、ふと吹き出した。
「……あー、想像できる。」
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─── 左兵衛尉邸
惟光は静かに茶を置いた。
「惟成。」
「……はい。」
正座している惟成の前には、文箱。
その横にも、文箱。
さらにその横にも、もう一つ文箱。
「……それは何だ。」
「……文です。」
「見れば分かる。」
惟光は額を押さえた。
「宴での振る舞いが都に広まったな。」
「……そのようです。」
「武官というものはな、功を立てれば褒められる。
だが──名が立てば、それ以上に面倒が増える。」
惟成は黙った。
「姫君方から文が来るのも、その一つだ。
軽く扱えば恨みを買う。
丁寧に応じれば、さらに増える。」
「……どうすればよいのでしょう。」
惟光は淡々と言った。
「まず、返事は出せ。礼を欠くな。
だが深入りはするな。」
「……はい。」
「それと──」
惟光は少しだけ口元を緩めた。
「女房を庇ったのは、悪くない。」
惟成が顔を上げる。
「武官は、守るべき時に守れるかどうかだ。
そこは誇ってよい。」
「……」
「ただし。」
惟光は文箱を軽く叩いた。
「その結果が、この山だ。
これも武官の務めと思え。」
惟成はしばらく無言で座っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……刀を振っている方が、楽です。」
惟光は笑いを堪えるように咳払いした。
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─── 六条御息所邸・廊下
「ねえ、御息所様。」
「なあに?」
「惟成殿、今頃きっと文の山に埋もれてますよ。」
御息所は扇の向こうで微笑んだ。
「そうでしょうね。」
「ちょっと見に行きたいな……反応。」
「和泉。」
「はい。」
「それは野次馬と言います。」
「……ですよね。」
紗世は肩をすくめた。
でも口元は、しっかり笑っていた。
民部卿邸───
その部屋は邸の最も奥。すべての簾が下ろされ、昼でも薄暗かった。
「……姫君、御髪を整えますね。」
近江が櫛を手に膝をつく。
パシッ!!
手は払われ、櫛が畳に落ちた。
「髪なんて整えたって、意味ないわ。誰とも会うことは無いもの。」
姫君は掠れた声で言った。
──あの春の集まりの日の夕刻
民部卿が帰邸すると、屋敷の空気が妙に重かった。
「なんだ?今日は姫が集まりを開いたはずだろう。……何かあったのか?」
女房たちは顔を見合わせ、口ごもる。
「それが……その……私の口からは……。」
嫌な予感を抱え、民部卿は姫の部屋へ向かった。
簾はすべて下ろされ、灯りもない。
「……蝋燭を。」
手燭を受け取り、息を整える。
「姫。入るぞ。」
御簾の内に姫君。手前に近江が伏している。
「──何か、あったのか?」
沈黙。
「今日は他家の姫君や、六条御息所様も招いたのであろう。何があったか、父として知らぬわけにはいかぬ。」
沈黙。
民部卿は静かに言った。
「……近江。話せ。」
「はい。」
近江は感情を交えず、起きた事実のみを順に述べた。
土産の騒ぎ。女房への無礼。護衛が出たこと。そして──御息所が場を収めたこと。
そこまで聞いた瞬間。
民部卿の顔が赤く染まり、拳が震えた。
一拍の沈黙。
そして──
「なんて事をしてくれたのだ!!!!!」
怒号が邸に響いた。
「わけのわからぬ土産はまだよい!だがその後だ!
他家の女房の髪を掴んだだと!?迫り、護衛まで出た!?そのうえ六条御息所様に場を収めさせるとは何事だ!!」
姫は顔を伏せたまま動かない。
「気性が激しいのは知っていた。だが、ここまでとは思わなんだ……!」
民部卿は立ち上がる。
「土産を作った職人は打ちのめして外へ放り出せ!姫は──手筈が整い次第、尼寺へ送る!」
「殿!それは……!」
近江が珍しく声を上げた。
「出家させるのではない。」
民部卿は低く言う。
「明日から都には噂が広がる。ほとぼりが冷めるまで寺に置くだけだ。
それまで姫を部屋から出すな。客も文も一切禁ずる。」
言い捨て、部屋を去った。
あれからひと月程が経ち、尼寺へ出立する日取りも決まった。
髪を整えても。
美しい衣に着替えても。
誰も見る者はいない。
これから行くのは尼寺。質素な日々だけが待っている。
「……なぜ、私が……」
姫君は唇を強く噛んだ。
暗い部屋に、かすかな息だけが残った。




