第40話 春宴の余波 1
翌朝。
都の井戸端では、まだ朝靄も晴れぬうちから声が飛び交っていた。
「聞きました?昨日の民部卿邸の宴。」
「ええ、桜を愛でる雅な集まりだったとか……」
「雅どころじゃありませんわよ。」
女房が声を潜める。
「贈り物が……竹の棒だったそうで。」
「竹の棒?」
「しかも髪飾りだと言い張ったとか。」
「まあ……」
別の女房が口元を押さえる。
「それを無理に使わせようとして、竹が割れて……」
「割れて?」
「姫君の頬を掠めて血が出たとか。」
「血!?」
「その場で怒り狂って、女房を引き摺り倒したと。」
「まあ……まあ……!」
声は抑えているのに、興奮でどんどん大きくなる。
⸻
同じ頃、貴族の邸の奥。
御簾の向こうで姫君たちが囁いていた。
「民部卿の姫君、以前から気性が激しいとは聞いていましたけれど……」
「六条御息所様もいらしたのでしょう?」
「ええ。御息所様が場を収められたとか。」
「さすが……」
別の姫が小声で言う。
「それに、例の飾り髪の女房も来ていたそうですわ。」
「和泉?」
「ええ。その女房に向かって姫君が――」
言いかけて、扇で口元を隠す。
「……“あんたが”と叫んで迫ったとか。」
「まあ……それでは、誘拐未遂の噂も……」
「本当なのではなくて?」
御簾の内側で、小さく息を呑む音。
⸻
さらに数日後。
都の大路。
牛車の中の女房が外を見ながら話す。
「民部卿邸、最近人の出入りが減ったそうですよ。」
「噂が立ちすぎましたものね。」
「飾り髪を巡って六条御息所様に張り合い、
挙げ句の果てに竹の簪で騒ぎ……」
「それだけじゃありません。」
「え?」
「和泉の誘拐未遂も、工房の盗難も、
姫君の差し金ではないかって……」
一瞬、沈黙。
それから小さく。
「……あまり大きな声で言ってはいけませんよ。」
「ええ、もちろん。」
けれど声は止まらない。
「でも、あの宴での様子を見た方々が皆……
“普通ではない”と。」
牛車はゆっくりと進む。
都の空気の中に、春の香りとともに――
噂だけが、静かに、確実に広がっていった。
─── とある貴族邸・和歌の集まり
「民部卿の姫君の気性の荒さばかり噂になっているけれど、実は他にも気になる話がありますのよ。」
「他に?
六条御息所様のことかしら?」
「いいえ、違うの。女房に掴みかかろうとした時の話。」
「ああ、御息所様が諌められたのでしょう?」
「それがね──その前に、護衛の方が立ちはだかって庇ったそうなのよ。」
「私も聞きましたわ!若いのに、とても凛々しい方だったとか。」
「なかなか精悍なお顔で、逞しい体つきだったとか……」
「まあ……そんな殿方に身を挺して守られるなんて……」
「しかも、その護衛……
あの“光る君”の随身のご子息らしいのよ。」
「えっ、光る君の!?」
(その護衛と縁が繋がれば、光る君とのご縁も……?)
(いえ、たとえ光る君に届かなくても……)
(若くて将来有望、武官としても申し分なし……)
姫君達は顔を見合わせ、静かに頷いた。
そして一斉に、傍の女房へ言う。
「文の道具を持ってきてちょうだい。」
─── 左兵衛尉邸
「若君、文が届いております。」
「文?私に?」
庭で刀を振っていた惟成は手を止めた。
差し出された文箱を見て、思わず眉をひそめる。
中には一通どころか、十通近い文が重ねられていた。
どれも花が添えられ、淡く香を焚き染めてある。
文箱を持ってきたのは、惟成が赤子の頃から仕えている古参の女房だった。
その顔は、どこか楽しげに緩んでいる。
「若君も、このようなお年になられたのですねぇ。」
「……」
惟成は露骨にうんざりした顔を向けた。
「そこへ置いておいてくれ。」
ぶっきらぼうに言うと、再び刀を構えようとする。
その時──
「いけませんよ、惟成。相手方のお気持ちを無下にしては。」
「……母上。」
廊下から現れた母が、穏やかな声でたしなめた。
母は文箱から一通取り上げる。
「ご覧なさい。この文など、焚き染めた香の上品なこと。
こちらは桜の色も見事ね。心を込めて用意されたのでしょう。」
民部卿邸の一件以来、惟成に文を送ってくる姫君は、急に増えたのだった。
「……身に覚えがないのだが。」
「覚えがなくても、噂は立つものです。」
母はくすりと笑った。
「若い殿方が、宴の席で女房を庇ったとなれば──都の姫君達が放っておくはずがありませんよ。」
惟成は深く息を吐いた。
「……刀を振っている方が、よほど楽だ。」




