第39話 春宴の狂気
紗世を背に隠すように立つ惟成は、若いながらも動じない。
姫君は惟成を睨みつけた。
「どきなさい!その女房に用があるのよ!」
惟成は動かない。
「ここは貴家の御座敷。これ以上の騒ぎは、御名を損ねます。」
「無礼者!!」
姫君が叫んだ、その時。
「――そこまでになさい。」
静かな声が落ちた。
それだけで、座敷の空気が変わった。
六条御息所だった。
立ち上がる所作はゆるやかで、声は高くない。
だが、逆らえない。
「民部卿の姫君。」
御息所は一歩進み、姫君をまっすぐ見た。
「本日の宴は、春を愛でるためのものと伺いました。」
間。
「それとも――」
わずかに首を傾ける。
「血を見るための席でございましたか。」
座敷が凍る。姫君の顔が強張る。
「傷は浅うございます。まずは手当てを。」
御息所は近江へ視線を送る。
それだけで、近江ははっと我に返り慌てて布を取り出した。
「そして。」
御息所の声が続く。
「招かれた方々が恐れを抱いて帰る宴ほど、主にとって不名誉なものはございません。」
静か。
しかし、逃げ場のない言葉。
「本日は、皆、姫君のお心遣いに応じて参ったのです。その誠を、どうか無駄になさらぬよう。」
姫君の肩が、わずかに震えた。
怒りでもなく、屈辱でもなく、
――気付かされた顔。
御息所は最後に柔らかく言った。
「今はまず、お席を整えましょう。」
それで終わりだった。誰も逆らえない。誰も反論できない。
姫君はゆっくりと握りしめていた手を離した。
「……失礼、いたしました。」
かすれた声。
座敷に、ようやく息が戻る。
惟成は無言のまま一歩下がり、紗世の前から退いた。
─────
牛車がゆっくりと民部卿邸を離れた。
軋む車輪の音。
夕暮れの冷たい風が、簾をかすかに揺らす。
車内はしばらく静かだった。
紗世は膝の上で手を握りしめたまま、ふうっと長い息を吐いた。
「……はああ……終わった……」
御息所が小さく笑う。
「本当にね。まさか、あそこまで騒ぎになるとは。」
「騒ぎっていうか……修羅場でしたよ……。」
紗世が苦笑した、その時。
簾の外から低い声がした。
「中の様子は落ち着きましたか。」
惟成だ。
牛車の横を静かに歩いている気配がする。
紗世は勢いよく簾を少し持ち上げた。
「惟成殿!さっきは助かりました!本当にありがとうございました!」
「簾はあまり上げないでください。外から丸見えです。」
即座に冷静な返答。
御息所がくすりと笑う。
「和泉、少しだけにしなさい。」
「はーい……」
紗世は渋々簾を半分だけ下ろしたが、まだ外に向かって話す。
「でも本当に、あの時割って入ってくれなかったらどうなってたか……」
「護衛の役目です。」
惟成は淡々と言う。
「……それに、あのままでは姫君は完全に我を失っていました。
誰かが止めねば、さらに大事になっていたでしょう。」
その声は落ち着いていたが、どこか少しだけ硬い。
紗世は小さく頷いた。
「……怖かったですか。」
「え?」
「宴の最中、ずっと冷静に見えましたが。
本当は怖かったのでは?」
紗世は少し考えてから、
「……うん。ちょっとだけ。」
と正直に言った。
「でもね。」
簾越しに外を見る。
「惟成殿が来た瞬間、あ、もう大丈夫だって思いました。」
外で、ほんのわずかに足音が止まった気がした。
「……そうですか。」
短い返事。
御息所が静かに口を挟む。
「源惟成殿。今日は見事でしたよ。
若いのに、よく場を見ておられる。」
「恐れ入ります。」
「和泉を守ってくれてありがとう。」
「……当然の務めです。」
淡々としているが、少しだけ声が低くなる。
紗世がにやっと笑った。
「でも、女人の集まりは苦手なんですよね?」
「はい。やはり苦手です。」
外から即答。
「今日も御簾の向こうから視線すごかった?」
「……はい。」
「品定めされてた?」
「……されていました。」
御息所が思わず吹き出した。
「ふふ……和泉、あまりからかわないの。」
「だって面白くて。」
紗世は楽しそうに続ける。
「でも人気ありそうでしたよ。
“精悍なお顔”とか“出世しそう”とか。」
外で小さくため息。
「やめてください。聞きたくありません。」
「えー、褒め言葉なのに。」
「そういう話題が一番困るのです。」
「なんで?」
少し沈黙。
それから惟成がぽつり。
「……仕事に集中したいからです。」
その真面目すぎる返答に、紗世は一瞬ぽかんとして――
「……真面目すぎるでしょ。」
と笑った。
御息所も静かに微笑む。
「でも、その真面目さがあるから、
今日も皆無事に帰れるのですよ。」
外から返事はない。
ただ、歩く足音だけが続く。
しばらくして。
紗世が小さな声で言った。
「……でも今日で、噂は広がりますね。」
「ええ。」
御息所が頷く。
「民部卿の姫君の振る舞いも、あの贈り物も。」
「割り箸……」
「和泉。」
「すみません。」
紗世は慌てて口を押さえたが、肩が震える。
外から低い声。
「……まだ笑っているのですか。」
「だって……思い出すと……」
「帰るまで我慢してください。」
「無理です……」
御息所が扇で口元を隠した。
「ふふ……今日はもう、皆よく頑張りました。
笑うのも仕方ありません。」
牛車は夕暮れの都を進む。
騒動の余韻はまだ残っている。
けれど、三人の間には不思議と穏やかな空気が流れていた。
やがて御息所邸の灯りが見え始める。
紗世が小さく呟く。
「……なんだか、長い一日でしたね。」
外から静かな声。
「はい。」
少し間を置いて、
「ですが――」
「?」
「無事に終わって何よりです。」
紗世はにこっと笑った。
「うん。ほんとに。」
牛車は静かに門へと入っていった。




