第38話 雅な春の集まり
雅な春の集まり当日──
民部卿邸の門前には、牛車が次々と停まり、色とりどりの衣が春の光に揺れていた。
その中でも、ひときわ豪奢な牛車から、ゆっくりと六条御息所が降り立つ。
一歩後ろに、控えめに紗世が続いた。
今日の御息所の髪は、左右の髪をロープ状に編み、そのまま後ろでまとめず、新作の小さなピンで留めている。
留め具は見えず、編みの模様だけが美しく浮かび上がっていた。
飾りはあえて付けない。
それがかえって、目を引いた。
「まあ……」
「あれが、噂の……」
「どうやって留めているのかしら……?」
囁きが、あちこちで咲く。
(うん、狙い通り。宣伝効果バツグン。)
紗世は心の中で小さく頷いた。
⸻
案内された部屋は、庭の桜が正面に見える、明るく広い一室だった。
御息所は自然と最上座へ導かれる。
(やっぱり一番上か……まあそうだよね。)
改めて主人の格を思い知り、紗世は背筋を伸ばした。
衣擦れの音がさざ波のように続き、席が一つ、また一つと埋まっていく。
やがて、招待客が揃ったところで──
廊下の奥から、女房を従えた姫君が現れた。
(あれが……民部卿の姫君。)
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。
特に六条御息所様におかれましては、招待に応じていただき光栄に存じます。最近評判の飾り髪でお越しいただいたのですね。とても素敵でございます。」
「ありがとうございます。これほど素敵な集まりを断る理由もございません。今日は皆様と楽しく過ごせればと思っております。」
御息所は穏やかに微笑む。
「皆様に楽しんでいただけるよう、菓子も香も多くご用意いたしました。どうぞ春の一日をお楽しみくださいませ。」
姫君が女房へ指示を出そうと、ふと横を向いた、その時──
(……ん?)
紗世は気付いた。
姫君の髪。
六条御息所邸で教えた飾り髪が施されている。
しかも──わざと見えるように。
それをすぐに参議の姫が拾った。
「民部卿の姫君、その髪は?御息所様だけでなく、姫君も飾り髪を?」
「ええ。御息所様のところで流行り出して間もなく、当家の女房も教わりまして。」
そう言いながら、姫君は御息所の後ろの紗世へ、ほんの一瞬だけ視線を投げる。
「当家の女房も筋が良いようで、教わっただけでは飽き足らず、独自の工夫まで始めましたの。飾り方や小物も特注するほどで。」
「まあ!もう独自の方法を?」
感嘆の声。
(はいはい、対抗宣言いただきました。)
紗世は無表情のまま、心の中だけでため息をついた。
⸻
集まりはその後、和歌、香、都の噂、恋の話と、春風のように話題を変えて進んでいく。
その時。
「あら……あの方はどこのお家の方かしら?」
大納言の姫が、扇越しに庭の片隅を指した。
視線の先には──
庭の端に、静かに立つ惟成。
「なかなか精悍なお顔ではなくて?」
「護衛かしら。武官よね。」
「衣の上からでも逞しさが分かるわ。」
(あー……見つかった。)
紗世は心の中で合掌した。
「六条御息所様?あの護衛の方は?」
「源惟成殿です。源氏の君の随身、源惟光殿のご子息ですよ。歳は……いくつでしたかしら、和泉?」
「私と同年ですので、十二です。」
「まあまあ。まだお若いのに、あの落ち着き。」
「源氏の君の随身のご子息!?では源氏の君とも親しいの?」
ざわり、と空気が変わる。
(はい出ました。源氏ブランド。)
紗世は心の中で呟いた。
(この世界のトップアイドル……いや国宝級イケメンの………瓜。)
「惟成殿はどのようなお方ですか?」
(将を射んと欲すればまず馬を射よ……ね。
源氏の君に近づくための、惟成ルート開拓中ってわけか。)
そう思った矢先──
「源氏の君も素敵ですけれど、あの惟成殿もなかなかではなくて?」
「源氏の君の随身のご子息なら優秀でしょうし、出世も早いのでは?」
「まだお若いですもの。上品さや優雅さは、これから付いてきますわ。」
紗世の胸の奥に、ほんの少しだけ、もやっとしたものが残った。
────
雅な春の集まりも、終わりが近づいた頃だった。
廊下の向こうから、女房たちがぞろぞろと現れた。それぞれの手には、桜色の小さな包み。
静かに座敷へ入り、招待客一人ひとりの前に置いていく。
「まあ……春らしい可愛い包みですね。民部卿の姫君、これは?」
中納言家の姫君が微笑んだ。
「私からの、ささやかな贈り物でございます。どうぞお開けください。」
柔らかな布が解かれ、紙が開かれ、そして。
御息所の手の上に現れたのは──
紗世は肩越しに覗き込み、思考が止まった。
(・・・・・・割り箸???)
そこにあったのは、どう見ても、長さも太さも質感も、現代の割り箸にしか見えない竹の棒。
感情が追いつかない。
(いや待って、この時代に割り箸ないでしょ??でもこれ……どう見ても割り箸……。)
周囲もざわめき始める。
「姫君……これは一体?」
参議の姫君が恐る恐る尋ねた。
姫君は、落ち着いた微笑みで答えた。
「こちらは、この会の最初に申し上げた、当家の女房が飾り髪のために特注した髪飾りでございます。」
「……え?」
「これが……?」
「簪にしては……簡素な……。」
「真ん中が割れているような……?」
「どうやって使うのかしら……。」
困惑が広がる。
姫君はゆったりと続けた。
「従来の簪は挿して使うものでしたが、こちらは髪を挟んで固定する新しい形でございます。」
(ピンのつもりだーーーー!!!)
紗世は必死で顔を伏せる。
(しかもデカい!!なんでそのサイズで作ったの!!絶対細工中に竹割れたからでしょ!!)
肩が震える。庭の片隅から惟成がちらりと見る。
(頼むから今は耐えてくれ……。)
「では、当家の女房が使い方をご説明いたします。」
(やめてえええええ!!!)
近江が前に進み出る。
姫君の髪を一束取り、竹の割れ目を開こうとする。
……開かない。
乾いた古竹は、異様に固い。
近江の指先が震える。
ほんの少し、無理やりこじ開ける。
「……こちらを……少し、開き……まして……」
ぎし、と嫌な音。どうにか髪を挟む。
だが次に、そのピンを土台の髪へ固定しようとして──
ほぼ挟めない。
わずかな毛が引っかかっているだけ。
完全に不安定。
室内に、何とも言えない沈黙が落ちる。
姫君が、やや早口で言った。
「さあ、皆様もどうぞお試しくださいませ。」
主人に促されれば、断れる者はいない。
姫君たちは恐る恐る竹を手に取る。
「……和泉……これ、使えるの?」
御息所が小声で聞いた。
「無理です。力づくで使えば怪我します。御息所様は触らないでください。」
周囲では、女房たちが小声で相談し、引っ張り、押し込み、開こうとして、閉じて、滑って、焦り始めていた。
その時。
参議家の女房が、思い切ってピンの先を左右にこじ開けた。
──パキンッ!!!
乾いた破裂音。
竹が真っ二つに割れた。
破片が弾け、空を切り、一直線に飛ぶ。
次の瞬間。
その破片が民部卿の姫君の頬を、かすめた。
細い赤い線。
一筋の血。
一拍の静寂。
「きゃああああああ!!」
悲鳴が重なる。
「姫君!!」
近江が慌てて顔を覆う。
竹を割ってしまった女房は、青ざめてその場にひれ伏した。
「申し訳ございません!!姫君様!!わ、私は……なんという……!」
額を畳に擦りつける。
だが、姫君は近江の手を振り払い、立ち上がった。
そして、その女房の髪を、いきなり掴んだ。
「この女房風情が!!!」
座敷が凍る。
「私の顔に傷をつけるなんて……それだけでも許し難いのに……。」
顔が歪む。
「ましてや……穢れまで!!!」
女房を引き摺り倒す。
「どう責任取るのよ!!謝って済むと思ってるの!?」
誰も動けない。
御息所が静かに声を上げた。
「民部卿の姫君。どうかお鎮まりください。その女房も、わざとではございません。」
姫君が鋭く御息所を見る。
だが相手は自分より上位。本能的に、手出しできないと悟る。
その視線が、ゆっくりと、御息所の後ろへ移った。
紗世。
その瞬間。
姫君の表情が変わった。
嫉妬、焦燥、怒り。今まで溜めてきたものが、一気に噴き出す。
「あんたが……」
声が震える。
「あんたが!!」
几帳を蹴倒す。
「あんたが!!あんたが!!!」
紗世へ向かって踏み出した。紗世も反射的に立ち上がり逃げの姿勢を取った。
その瞬間──
──一歩。
低く、静かな足音が先にあった。
次の瞬間には、紗世の視界が影に覆われていた。
「姫君。落ち着いてください。」
低く通る声。
気付けば惟成が、紗世を背に庇うように立っていた。
広い背中が、ぴたりと前を塞ぐ。無駄のない姿勢。抜刀こそしないが、そこに立つだけで、これ以上一歩も通さぬと分かる静かな威圧。
室内の空気が変わった。
先ほどまで荒れ狂っていた姫君の足が、思わず止まる。
惟成は一歩も動かない。ただ真っ直ぐに姫君を見据える。
「ここは雅な宴の場にございます。どうか、お心をお鎮めください。」
声は穏やか。だが、その場の誰もが理解した。
これ以上進めば──通さない。
背後で紗世が小さく息を呑む。
(……惟成殿……)
惟成は振り返らない。ただ、わずかに肩を引き、紗世をさらに庇う位置へと立ち直した。
それだけで十分だった。
姫君は歯を食いしばり、拳を震わせる。だが、惟成の前で、それ以上踏み出すことはできなかった。




