第343話 宮様の静かなる詰問
───宮中・中務卿宮執務室
中務卿宮の執務室には、源氏の君と陰陽頭が呼び出されていた。
二人は、向かいに座る中務卿宮の様子を窺っている。
中務卿宮は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑みは、普段と何も変わらない。
声も穏やかで、表情にも怒りは見えない。
それなのに──。
(怖い。穏やかな笑みのはずなのに……怖い。)
源氏の君は、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
隣に座る陰陽頭も、同じように中務卿宮を見つめている。
(何故だ。何故、これほど穏やかに笑っておられるのに、こんなにも恐怖を感じるのだ。)
中務卿宮は、にこにこと笑っている。
笑っているだけ。
話を切り出す様子はない。
源氏の君は、落ち着かない気持ちで考えを巡らせていた。
(私と陰陽頭が、一緒に呼ばれるなど……。物忌みや方違えの相談なら、陰陽頭だけでよいはずだ。では、私に何の用がある?)
一方、陰陽頭もまた、呼び出された理由を考えていた。
(源氏の君と一緒に呼ばれるということは、物忌みや方違えの相談ではなさそうだ。かといって、政の話で私が呼ばれる理由もない。では、一体何の用で……。)
二人がそれぞれ思案している間も、中務卿宮は微笑んだまま、何も言わなかった。
やがて、源氏の君が耐えきれずに姿勢を正す。
その動きを見て、中務卿宮が口を開いた。
「二人とも、なぜ呼ばれたのか分からぬ、といった顔をしておるな。」
「い、いえ……そのようなことは……。」
源氏の君は、慌てて首を横に振った。
「私と源氏の君は仕事上、あまり接点はありませんし……接点があるとすれば何かの儀礼の時くらいしか……。」
陰陽頭も、すぐに言葉を添える。
中務卿宮は、二人の返答を聞くと、少しだけ目を細めた。
「そうか。」
「……。」
「儀礼の時くらい……か……。」
「……。」
中務卿宮は、そこで言葉を止めた。
伏し目がちになり、再び黙り込む。
(何なんだ、この間は!!! 耐えられん!!! 一体何なのだ、宮様!!!)
源氏の君は、心の中で叫んだ。
陰陽頭も、扇の陰で表情を引きつらせている。
(お願いですから、早く本題を……!!!)
二人が耐え難い沈黙に身を置かれていることを、中務卿宮は十分に承知しているようだった。
それでも、すぐには口を開かない。
しばらくして、ようやく顔を上げた。
「先日、お主上と左大臣、右大臣、権大納言、そして私が一堂に会すことがあってな。」
「はあ……。」
源氏の君が、曖昧に頷く。
「会議ではない。」
中務卿宮は、穏やかな声で続けた。
「とある者が、お主上に呼ばれたのだ。」
「とある者……ですか。」
陰陽頭が、思わず聞き返した。
「うむ。」
中務卿宮は頷いた。
「お主上は、讃岐から献上されたうどんや素麺に興味を示されてな。その考案者に話を聞きたいと仰せになった。」
「うどんや素麺ですか。」
源氏の君が、思わず身を乗り出した。
「私達も食しましたよ。」
「ええ。あれは実に美味でございましたなぁ。」
陰陽頭も、つい無邪気に頷く。
先ほどまでの緊張を忘れたような二人の反応に、中務卿宮は微笑んだ。
「やはり、そなた達も食していたか。」
「はい。うどんは汁との相性もよく、素麺も喉越しが……。」
「源氏の君。」
中務卿宮が、静かに名を呼んだ。
「は、はい。」
源氏の君の背筋が伸びる。
中務卿宮は、先ほどまでと変わらぬ穏やかな声で告げた。
「そのうどんや素麺を考案したのは、藤原兼成の娘だそうでな。」
「……。」
源氏の君の口が、閉じた。
中務卿宮は、二人の顔を見比べる。
「まだ十六の、若い姫であった。」
「若い姫であったって……藤原兼成の娘を、ご覧になったのですか?」
源氏の君が、青ざめた。
「もちろん。見た。」
その答えを聞いて、源氏の君はゆっくりと陰陽頭へ視線を向けた。
陰陽頭も、すでに気付いていた。
(二年前、宮様は三条に恋心を……。だが、三条とは和泉殿が偽った姿。三条への想いを諦めてもらうために、鬼の妻になったと芝居を打った………。)
二人の視線が、ほんの一瞬だけ交わる。
(此度の謁見で、宮様は和泉殿を見つけた。三条ではなく、本来の藤原兼成の娘として……。)
その瞬間、源氏の君と陰陽頭の顔から血の気が引いた。
(バ、バ、バ……バレたーーーーーっ!!! 三条の正体が和泉殿だと……。ヤヤヤヤヤヤヤヤバい!!!)
源氏の君は、必死に平静を装った。
しかし、あまりにも分かりやすく動揺している。
陰陽頭も、視線を伏せたまま身じろぎ一つしなかった。
中務卿宮は、そんな二人を黙って見ていた。
先ほどまで浮かべていた笑みは、いつの間にか消えている。
「お前達……。」
低い声が、部屋に落ちた。
源氏の君と陰陽頭は、同時に顔を上げる。
中務卿宮は、二人をまっすぐ見据えていた。
その目には、先ほどまでの穏やかさはない。
「三条の正体を知っておったのだな。最初から。」
「は……はい……。」
源氏の君と陰陽頭は、揃って頭を下げた。
それ以上、何も言えなかった。




