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第33話 古き竹、近づく影

その男は走っていた。


息は荒い。胸は焼けるように苦しい。

それでも――口元には、笑みが浮かんでいた。


今朝、工房に入るなり、親方が言ったのだ。


「和泉様から依頼が来た。」


差し出されたのは、簪や髪飾りと思しき小物の仕様書。


「和泉様から、これらを――なるべく大量に作ってほしいとのことだ。」


弟子は紙を覗き込み、眉をひそめた。


「……これは……古い竹、で作るのですか?」


仕様書には、はっきりと書かれていた。


“古い竹を用いること”


「ああ。」


親方は腕を組む。


「儂も確認した。古い竹は水分が少なく折れやすい。簪には向かぬのでは、と。」


「では……」


「しかし和泉様は、承知の上だとな。」


親方は感心したように続ける。


「水分が少ない分、髪に引っかかりやすい。まとめた髪の固定力が高い――そう仰ってな。」


「今後依頼する品も、すべて古い竹で作ってほしいそうだ。」


弟子は目を見開く。


「……今後の依頼品、すべて……ですか?」


「そうだ。」


親方は頷く。


「普通、古い竹は加工に使わぬ。だからまずは材料確保だ。競争相手も少ないだろう。和泉様が独占する形になるかもしれんな。」


「……そう、ですか……。」


弟子の胸の奥で、別の計算が弾けた。


(――独占、ね。)


「悪いが、お前には古い竹探しに走ってもらうぞ。」


「いいえ!」


弟子は勢いよく頭を下げた。


「私は親方の弟子ですから!古い竹、必ず見つけてまいります!」


そう言って工房を飛び出した。


だが――


彼が向かったのは、竹林でも竹細工商でもなかった。



民部卿邸。



(あの邸の主人は言っていた。


和泉様の依頼品は、すべて横流ししろ、と。


とにかく、和泉様に簪や髪飾りを渡したくない様子だった。)


弟子は走りながら、にやりと笑う。


(なら完成品を横流しするより――


材料を先に買い占めればいい。


親方が作れなければ、納品などできるはずがない。


古い竹を全部押さえさせればいいんだ。)


そのあとで、私が適当に作って渡せばいい。仕様通りでなくても分かるまい。


どうせ倍額で買い取ると言っていた。


……こんな儲け話、他にない。)


笑みは、もう隠そうともしなかった。



やがて民部卿邸の門前に着く。


弟子は息を整え、胸を張って取次ぎに告げた。


「私は簪職人の親方である。こちらの主人へ取次ぎを願いたい。」



しばらくして。


「姫君。」


近江が、いつもの抑揚のない声で告げる。


「簪職人の親方が参っております。

和泉が新しい依頼を持ってきたが、作る前に伝えたいことがある、と。


決して悪い話ではない、とのことですが……いかがなさいますか。」


姫君は扇をパチ、パチと開閉する。


「……あの、役立たずの親方ね。」


低く、冷たい声。


「悪い話ではない、ですって?」


鼻で笑う。


「下賎の者の“悪い話ではない”ほど、信用できない言葉もないわ。」


「では、追い返しますか?」


「……いいえ。」


少しだけ考え、


「近江。あなたが聞いてきなさい。」


「承知しました。」


近江は静かに頭を下げ、音もなく部屋を出ていった。


────



「それで? あの男の言う“悪い話ではない話”とは、何だったの?」


期待など微塵もない声音だった。


「は。あの下賎な親方にしては、いささか頭を働かせたようでございます。」


姫君の肩が、ぴくりと動く。


「……詳しく。」


「結論から申し上げます。――古い竹を、買い占めてはどうか、とのことでした。」


「古い竹……?」


姫君は怪訝に眉を寄せた。


「親方の話では、和泉より新たな依頼が届いたそうにございます。その仕様書に、“古い竹を用いること”、さらに“今後の依頼もすべて古い竹を使うこと”と記されていたとか。

本来、古い竹は細工には向かぬ材ゆえ、用いる職人は少ない。ゆえに和泉が独占しやすい。――ならば、先にこちらが買い占めてしまえばよい、という理屈にございます。」


「……なるほど。」


「古い竹を押さえれば、親方が和泉に納められぬ理由は立ちます。

しかし仕様書は手元にあるゆえ、依頼通りの簪や髪飾りは作れる。

和泉の納品は滞り、飾り髪が思うように出来なくなれば、噂は自然と消える――そこへ、当家で珍しい髪飾りが使われ始めれば……。」


近江が淡々と続ける。


「和泉が六条御息所の邸を離れ、当家へ移ったとの噂も、流しやすくなりましょう。」


「でも……その新しい髪飾り、どう使うか分からないじゃない。」


「は。その点も尋ねましたところ、仕様書には“このように髪をまとめ、この向きで差して留める”と、図も添えられているとか。ご覧になれば、使い方も分かるかと。」


――パチン。


姫君は扇を打ち閉じた。


「いいわ。都中の古い竹を、すべて集めさせなさい。

和泉の手には――一本たりとも渡らぬように。」


「は。承知いたしました。」


「それから親方には、必ず仕様書を持参させること。

……作業は、こちらで用意した場所でさせるわ。」


姫君は、ゆっくりと唇を歪めた。


「……ふふ……。やっと……思うように運びそうね……。

源氏の君が、私を訪ねてくるのも――きっと、もうすぐ……。」


恍惚とした表情で、そう呟いた。

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