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第317話 【新章】四条邸、帰還

京の四条の邸の前に、一騎の馬と一台の牛車が停まった。


馬から降りた男が門衛に声をかける。


すると門衛は驚いたように目を見開き、慌てて邸内へ駆け込んでいった。


それから間もなく、四条の邸からわらわらと大勢の雑色や使用人たちが出てきた。


牛車を取り囲み、恭しく出迎える。


馬に乗っていたのは惟成。


そして牛車に乗っていたのは――姫君の姿をした紗世だった。


─────


「……もう、半刻以上あのままよ……。」


「何をしているのかしら……。」


「武官同士の儀式じゃない?」


とある部屋の柱の陰。


真砂を始めとした女房たちが、鈴なりになって中の様子を窺っていた。


「あ、真砂。父上と惟成のお話、終わった?」


紗世は邸へ戻るなり、父・兼成から、


『惟成と話がある。しばらく席を外しなさい。』


と言われていた。


「紗世様……。あの、それが……。」


真砂は困惑した表情を浮かべる。


「んー?」


紗世はひょいと部屋の中を覗いた。


そこに見えたのは――


額を床に擦り付け、微動だにしない惟成。


そして、それを上座から腕を組んで見下ろしている兼成。


「…………え?」


紗世はその不思議な光景を見つめたまま、背後の真砂へ尋ねた。


「何してるの、あれ?」


「半刻以上も、あのままなのです……。」


「半刻!?」


紗世は思わず振り返った。


「はい……。半刻以上、微動だにしておりません。」


「微動だに!?」


紗世は、もう一度二人を見る。


「…………んん?」


眉を顰めながら、紗世は音を立てぬよう、そろりそろりと部屋へ入っていった。


惟成は紗世に気付くと、目線だけを僅かに上げた。


(紗世……何をしているんだ……。)


惟成は額を床につけたまま、呆れていた。


紗世は兼成の目の前まで歩いていく。


そして、顔の前で手を振った。


動かない。


もう一度振る。


動かない。


「…………。」


紗世は眉を寄せた。


そして――


────パァンッ!!


「ぬおっ!?」


紗世が勢いよく手を叩いた。


その音に、兼成の肩が大きく跳ねる。


「やっぱり!! 父上、寝てたでしょ!!。」


「何を言う!? ね、寝ておらん!」


「人に頭を下げさせておいて寝るなんて……最低。」


「だ、だから寝ておらん!」


「じゃあ何してたのよ!?」


「…………瞑想だ。」


「やっぱり寝てたんじゃない!!」


「違う!」


「ほら! 惟成も、もう頭上げていいよ。」


「くぉらあああああ!! 惟成ぃぃぃ!! 誰が頭を上げていいと言った!!。」


「私がいいって言ったの!」


「お前は黙っていなさい!!」


ぎゃあぎゃあと言い争う親子。


その傍らで、惟成が静かに姿勢を正した。


「検非違使……兼成様。」


「ぬ!?」


惟成は改めて深々と頭を下げる。


「此度は、貴殿の姫君を讃岐の地へ留め置きましたこと。誠に申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。」


「そうだ! 姫を讃岐に――。」


兼成が言い終える前に、紗世が割って入った。


「私が勝手に惟成の傍にいたの!」


「紗世……。」


「惟成は私に都へ帰れって言ったよ。でも、それを私が拒否したの!」


紗世は兼成を真っ直ぐ見た。


「私が讃岐に残ったのは私の責任。惟成のせいじゃない!」


「…………ぐう。」


兼成は言葉に詰まる。


「し、しかしだな……。」


兼成は何とか言葉を絞り出した。


「讃岐では、姫と惟成は……その……ひとつ屋根の下で暮らしていたのだろう?」


「うん。」


「若い姫が、そのような……。」


「その事なのですが。」


惟成が姿勢を正した。


「私が責任を取ります。」


「何?」


「私が夫となれば、姫君が男とひとつ屋根の下で暮らしていたことも、問題にはならぬかと。」


惟成は兼成の目を真っ直ぐ見た。


「兼成様。姫君のもとへ三夜通うこと、お許しいただきたい。」


柱の陰で、真砂や女房たちの目が一斉に輝いた。


「んなっ……!三夜通い……!」


兼成の顔が引きつる。


「私は、姫君と正式に夫婦となることを望んでおります。」


「お、お前が望んでも、姫が――。」


「私も惟成と夫婦になることを望んでいるからね。」


兼成は言葉を失った。


「…………。」


「父上?」


「…………。」


兼成の手が、ぷるぷると震え始める。


そして――


「……惟成以外、下がれ。」


絞り出すような声だった。


「それ、さっきもやったでしょ!」


「下がれ!!。」


「はいっ!」


紗世の肩が小さく跳ねる。


「紗世。それから他の者も。下がってくれ。」


惟成が片手を上げ、静かに促す。


「うん……。」


紗世は渋々、部屋を出ていく。


女房たちも慌ててその後に続いた。


やがて部屋に静寂が訪れる。


今度は、兼成も眠ることなく惟成を見据えていた。


─────


「……惟成。」


「は。」


「此度の瀬戸内海海賊討伐の任。」


兼成はゆっくり口を開いた。


「無事に解決し、都へ戻ったこと。それは武官として認める。」


「ありがとうございます。」


「よく任務を遂行した。ご苦労だった。」


「は。」


兼成はしばらく惟成を見つめた。


「……姫と同じ邸で、共に暮らしていたというのは本当か?」


「本当です。」


「……正直に言え。」


兼成の声が低くなる。


「姫と、男女の契りは?」


「…………結びました。」


「…………。」


惟成は視線を逸らさなかった。


「しかし、いい加減な気持ちは一切ございません。」


兼成は眉間に皺を寄せたまま、深く息を吐いた。


「お前が讃岐へ下ったばかりの頃のことだ。」


「……はい。」


「姫のもとには、多くの恋文や求婚の文が届いた。」


兼成の声には、僅かな苦々しさが滲んでいた。


「姫と恋仲であると有名だったお前が讃岐へ送られると知って……誰もが、姫が悲しみ落ち込んでいると分かっておった。」


「……。」


「なのに、それにつけ込む男が、なんと多かったことか。」


兼成は惟成を見る。


「その時、儂は思った。」


「……何を、でしょうか。」


「惟成。お前なら、人が弱っているところにつけ込むことはないだろう、と。」


兼成は小さく息を吐いた。


「お前は、他の男どもよりもマシなのだとな。」


惟成は何も言わない。


ただ、深く頭を下げた。


兼成は僅かに顔をしかめた。


「それで……。」


一瞬、言葉をためらう。


「懐妊は……?」


「……それは、まだだと思います。」


「思います、だと?」


兼成の眉が跳ね上がる。


「断定できぬということは――。」


「…………。」


「お前……最近も契りを――。」


「…………。」


惟成は僅かに視線を逸らした。


「儂に言うことは?」


惟成は目を伏せた。


「……申し訳ございません。忍耐が足りませんでした。」


「…………。」


兼成は長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……分かっているなら、よい。」


「え?」


惟成が顔を上げる。


「認めよう。」


「……え?」


「明日から三夜、姫のもとへ通え。」


兼成は静かに言った。


「三夜の後、お前を姫の夫として迎える。」


惟成は目を見開いた。


「……よろしいのですか?」


「何を今さら聞いている。」


兼成は僅かに苦笑した。


「お前が讃岐へ行く前、儂は、お前なら姫を悲しませることはないと思った。」


「……。」


「そして今、お前は無事に戻ってきた。」


兼成は惟成を真っ直ぐ見た。


「讃岐で何をしていたかは、もう聞かぬ。」


「……はい。」


「お前が姫を守り、姫もまたお前を選んだ。」


兼成は静かに息を吐いた。


「ならば、もう儂が反対する理由はない。」


惟成は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「ただし。」


兼成の声が低くなる。


「三夜通いの間に、また姫を泣かせてみろ。」


「……。」


「その時は、儂が検非違使としてではなく――。」


兼成は惟成を睨み据えた。


「父親として、お前を追う。」


「……肝に銘じます。」


「よし。」


兼成はようやく肩の力を抜いた。


「では、明日から覚悟しておけ。」


「は。」


「姫の夫になるということは、姫一人を娶るということではない。」


「……はい。」


「この儂の娘を娶るということだ。」


「承知しております。」


「……ならば、よい。」


兼成は小さく頷いた。


その時――


簾の向こうから声がした。


「父上ー? 惟成ー? もう終わったー?」


兼成の眉がぴくりと動く。


「……姫。」


「はい?」


「お前、まだそこにいたのか?」


「だって気になるじゃん。」


「下がれと言っただろう!」


「だって惟成が何言われてるのか気になるし!」


惟成が思わず口元を緩める。


兼成はそれを見逃さなかった。


「……惟成。」


「は。」


「やはり、お前でよかったのかもしれんな。」


「……ありがとうございます。」


「ただし。」


「はい。」


「姫を泣かせるな。」


「承知しました。」


簾の向こうから、紗世の声が飛んでくる。


「何の話ーーー!?」


兼成は頭を抱えた。


「……もうよい。入ってこい。」


「やった!」


簾が勢いよく開く。


満面の笑みを浮かべた紗世が顔を出した。


その姿を見た兼成は、呆れたように息を吐く。


「……まったく。帰ってきた途端、これか。」


紗世は嬉しそうに笑った。


「ただいま、父上。」


兼成は一瞬だけ目を細める。


「……おかえり、姫。」


京へ戻ってきた娘の声が、久しぶりの四条邸に響いた。

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