第301話 臨む場所 帰る場所
翌朝、惟成は紗世を仮住まいまで送り届けると、自身だけ再び塩江の山へと入った。
「すぐに戻ってきたか。感心、感心」
天狗は満足そうに頷いた。
「時間がないのでな。讃岐には、あとひと月も居られん。」
「やはり、お前は讃岐の者ではなかったか。どこの者だ?」
「都だ。」
「なるほど。道理で立ち居振る舞いが妙に洗練されていると思った。お前の妻……紗世と言ったか。あれも都の女か?」
「そうだ。」
惟成は一瞬黙った後、天狗を見据えた。
「ひとつ聞いていいか?」
「なんだ?」
「なぜ、紗世を攫おうとした?」
天狗の顔から笑みが消えた。
「……あれから、人ならざる者の気配を感じた。加護を受けている者は珍しいのでな。」
(人ならざる者……虎徹や海神様の気配を感じたというのか……。)
「生娘であれば、俺の妻にしようと思った。」
惟成の眉が僅かに動く。
「それがお前の妻とはな。」
天狗は鼻で笑った。
「他の男に触れられた女に、今さら興味はない。」
惟成は胸の内で小さく息を吐いた。
紗世に危害を加えるつもりはないらしい。
「さて。それでは早速だが……」
天狗は惟成の腹を指差した。
「お主、丹田というものは知っておるか?」
「丹田……腹の辺りのことか?」
「そうだ。普段、そこを意識して動いているか?」
「いや。丹田を意識するという話は昔聞いたことがあるが、実際に意識して動いたことはない。」
「だろうな。」
天狗は惟成を見回した。
「人は手足だけで動こうとする。だから攻めは遅く、防ぎは脆い。身体の力が一つに繋がらず、動きにも無駄が生じる。」
「丹田を意識した身体の使い方を身につけなければ、修行についていくことすらできないということか。」
「そういうことだ。」
天狗は地面に腰を下ろした。
「まずは立ち方だ。足を開け。背筋を伸ばせ。肩の力を抜け。」
惟成は言われた通りに姿勢を整える。
「違う。力むな。」
「……。」
「腹の奥に力を落とせ。胸で息をするな。腹で息をしろ。」
惟成はゆっくりと息を吐いた。
「そうだ。そのまま吸え。」
「……。」
「もう一度。」
何度も呼吸を繰り返す。
やがて惟成の表情から余計な力が抜けていった。
「覚えておけ。」
天狗が言った。
「強さとは、力を込めることではない。必要な時に、必要な力を、一つに集めることだ。」
「……なるほど。」
「では、次だ。」
そうして、天狗による惟成の修行が始まった。
───讃岐国衙
「紗吉殿。」
三宅が辺りを見回した。
「そう言えば、源様は今日はおいでにならないのですか?」
「はい……。」
紗世は少し寂しそうに答えた。
「今朝早く、塩江の山へ発ちました。帰ってくるのは二、三日後だと言っていました。」
「え? 源様が? 紗吉殿を残して?」
三宅は目を丸くした。
「一体、何をしに……?」
「えぇと……」
紗世は少し言いにくそうに口を開いた。
「天狗に弟子入りをしまして……。」
「…………は?」
三宅だけではない。
そこにいた役人たち全員が、間の抜けた声を漏らした。
「天狗……?」
国衙の年老いた役人が聞き返す。
「はい。」
「本当に、天狗がいたのですか?」
「いました。私も見ました。」
紗世は頷いた。
「人とは思えないほど高く飛んで、ものすごく速く動いて……力も強くて……。」
紗世は少し俯いた。
「あの惟成が、手も足も出ませんでした。」
「……あの源様が!?」
国衙の空気が一変した。
「それで……なぜ、その天狗の弟子に?」
三宅が呆然と尋ねる。
「私にもよく分かりません。でも、天狗が惟成に興味を持ったみたいで……。」
「何を言われたのです?」
「『強くなりたいか』って。」
「源様は?」
「『強くなりたい』と。」
「即答ですか?」
「はい。即答でした。」
国衙に沈黙が落ちる。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……源様らしいな。」
「確かに。」
「天狗に武を教わるなど、聞いたこともない。」
「しかし、源様ほどの武人ともなれば、教えられる者も少なかろう。」
「天狗に鍛えられた源様が、どこまで強くなられるのか……。」
役人たちの間に、次第に興奮が広がっていく。
「恐ろしくもあり、楽しみでもあるな!」
「ええ。次に戻られた時には、別人のようになっているかもしれませんぞ。」
盛り上がる男たちを横目に、紗世は頬を膨らませた。
(別人になるくらい強くなってほしいとは思うけど……。)
紗世は小さく息を吐く。
(あとひと月もないのになぁ……。)
二人きりで過ごせる時間は、もう長くない。
それなのに、惟成は二、三日に一度しか帰ってこない。
少しだけ寂しい。
だが、すぐに紗世の表情が変わった。
「……そうだ!」
「紗吉殿?」
「お弁当、作ってあげよ!」
紗世は勢いよく立ち上がった。
「山籠もりなら、ちゃんと食べないと身体がもたないもん。お肉やお魚もいっぱい入れて、穀物もたっぷり……。」
「……。」
「虎徹にお願いして、塩江まで届けてもらおう!」
三宅は呆気に取られたように紗世を見つめた。
─────
「………帰ったぞ。」
惟成が塩江の山へ入って三日後の夕刻。
台盤所で夕餉の支度をしていた紗世は、微かな声を聞いた。
「……え? 今、誰か来た?」
顔を上げ、台盤所から出ていく。
廊下の先を、よろよろと渡っていく人影があった。
衣は泥と土にまみれ、ところどころ破れている。
「………惟成!?」
紗世は慌てて駆け寄った。
「……ただいま。」
かなり疲弊しているのか、目の焦点も合わず、足元もおぼつかない。
「お、おかえり! 大丈夫!? ご飯食べる? それとも横になる?」
いつもの惟成なら、どれほど疲れていても立ち居振る舞いだけは崩さない。
それが今は、歩くことさえやっとだった。
(こんな惟成、初めて見る……。)
紗世は惟成の身体を支えるように寄り添った。
「すまん……少し寝かせてくれ……。」
「う、うん! すぐに褥を用意するね。」
紗世は急いで寝床を整える。
惟成はようやく汚れた衣を脱ぎ、単衣姿になると、倒れ込むように横になった。
そして、ほとんど間を置かずに眠りへ落ちた。
「……かなり疲れてるみたい。」
紗世は惟成の顔を覗き込む。
額には汗が滲み、頬や腕には無数の擦り傷や打撲の跡があった。
三日間。
一体、どれほどの修行をしていたのだろう。
それでも、こうして無事に帰ってきた。
それだけで紗世は胸を撫で下ろした。
「いつ起きても大丈夫なように、ご飯用意しておこ。」
紗世は小さく呟くと、静かに台盤所へ戻っていった。
───
惟成は目を覚ました。
外はまだ真っ暗だった。
(……どれくらい寝たんだ……?)
身体を起こそうとすると、腕に何かが触れた。
「……?」
見ると、すぐ隣に紗世がいた。
小さな寝息を立てて眠っている。
(……一緒に寝ていたのか。)
惟成は目を細め、紗世の髪をそっと撫でた。
「…………ん……。」
紗世が身じろぎする。
「あ! 惟成! 起きたの!?」
慌てて身体を起こした。
「すまん。起こしてしまったな。」
「ううん、大丈夫。ご飯食べ──」
言い終わる前に、惟成は紗世を抱き寄せ、そのまま褥へ倒れ込んだ。
「こ、惟成?」
困惑する紗世。
「……いや。」
惟成は紗世を抱き締めたまま、ぽつりと言った。
「安心するなと思って。」
「……ふふ。」
柔らかな声に、惟成も僅かに笑う。
「天狗さんの修行、どう?」
「そうだな……。」
惟成は天井を見上げた。
「いかに狭い世界で生きていたのかが分かった。」
「……そんなに?」
「ああ。俺より強い者など、普通にいる。」
「強くなれそう?」
「強くなるために教えを乞うているからな。」
惟成は紗世を抱く腕に少し力を込めた。
「強くならねばな。」
「……ふふ。」
紗世がまた笑う。
「どうした?」
「ううん。」
紗世は惟成の顔を覗き込んだ。
「惟成も髭、生えるんだなぁって。」
山中で身嗜みを整えることなどできない。
惟成の頬には、普段なら見られない僅かな無精髭が伸びていた。
その髭が紗世の頬に触れている。
「男だからな。そりゃ伸びる。」
紗世は指先で、伸びた髭にそっと触れた。
「なんか新鮮。手触り、気持ちいい。」
「そうか? 後で剃らねばな。」
「え? 何か大人っぽくて良い感じだよ?」
紗世は楽しそうに笑った。
「試しに、もう少し伸ばしてみようよ。」
「手入れせず、伸ばしっぱなしになるだけだぞ。無精髭だ。」
「えー? 良いじゃん、無精髭。いかにも『山籠もりで修行してきました!』って感じで。」
「いや、それは絶対にからかわれるだろう。大伴や黒鷲辺りが面白がるぞ。」
「えーー? 私は好きなのにぃ。」
そう言われると、惟成は呆れたように息を吐いた。
そして、わざと髭を紗世の頬へぐりぐりと押し付ける。
「っきゃーー!! くすぐったい!!!」
「好きなんだろ?」
「こういうのじゃないーー! あはははは!!!」
静かな夜の仮住まいに、紗世の笑い声が響いた。
三日ぶりに戻った惟成と、それを迎えた紗世。
ほんの僅かな時間だったが、二人の間には穏やかな時間が流れていた。
「……あ、そうだ。」
惟成の腕の中で、紗世が顔を上げる。
「ご飯、どうする? お腹減ってない?」
「腹は空いているが……真夜中だぞ?」
「真夜中だろうと昼間だろうと関係ないよ!」
紗世は勢いよく起き上がった。
「お腹空いてるなら、すぐ用意するね! できたら持ってくるから、もうしばらく休んでて。」
「紗世……。」
止める間もなく、紗世は褥を抜ける。
「待っててね! すぐだから!」
紗世はそう言うと、ぱたぱたと廊下を渡っていった。
「……まったく。」
惟成はその背中を見送り、苦笑する。
三日間、天狗に散々鍛えられた。
身体は重い。傷も痛む。
だが――
「帰れば、紗世がいるか。」
そう呟くと、惟成は目を閉じた。
不思議と、身体の力が抜けていった。




