第27話 蠢く歪んだ感情
その夜──。
ガターンッ!
ガシャンッ!!
几帳が倒れ、文机が跳ね上がり、室内に重たい音が響いた。
「なぜ……なぜ和泉が居ないの!!?」
女は声を張り上げ、取り乱したように叫んだ。
「申し訳ございません……。下人の話によりますと、牛車に押し込むところまでは成功したとのことですが……牛車が大きく揺れた隙に、和泉殿が飛び降りたと……」
「飛び降りた……?」
女は信じられないという表情で女房を睨みつけた。
「そんな恐ろしいこと、できるわけがないでしょう!?」
「私もそう思い、下人を問い詰めましたが……間違いなく飛び降りたと申しております。
普通の女人であれば、拐かされたと知った時点で気を失うものだと私も思っておりましたが……。」
「とにかく!!」
女は甲高い声で叫び、畳を踏みしめた。
「失敗なんて許さないわ!和泉を連れてきなさい!!今すぐに!!!」
「それが……」
女房は言いよどみながら続けた。
「和泉殿が飛び降りた直後、左兵衛府の武官に見つかったとのことです……。
警戒も厳しくなるでしょうし、今は動くのは難しいかと……。」
「あああああああ!!!」
女は髪を振り乱し、叫び声を上げた。
「どうして……どうして何もかも上手くいかないの!?
どうして邪魔ばかり入るの!!!?」
周囲の女房たちは怯えた様子で、倒れた几帳や文机を静かに元へ戻していく。
その中心に立つ女が、ぽつりと呟いた。
「……そうよ。」
低く、冷えた声。
「邪魔をする者は……消すしかないのよ……。」
その口元が、ゆっくりと歪んだ。
そして静かに命じる。
「……明日、朝一番で。
和泉が懇意にしている簪職人を探して、ここへ連れてきなさい。」
「簪職人を……?姫君、それは……」
「考えてみなさい。」
女は冷ややかに言った。
「どんな飾り髪か、どんな簪や髪飾りを使っているか──
都の者たちは、ほとんど知らない。」
「……」
「飾り髪を結えること。
変わった簪や髪飾りを持っていること。
それを知っているなら……それが和泉よ。」
その言葉に、女房ははっと息を呑み、やがて口元を歪めた。
「……承知しました。
明日、朝一番で下人を簪職人の元へ向かわせます。」
女は何も答えず、ただ静かに笑っていた。
────
朝まだ薄暗い都の街。下人は急ぎ足で簪職人の工房へ向かっていた。
「おはようございます。急で申し訳ありません。朝一番に失礼いたします。」
工房の扉を開けると、親方の弟子である若い職人が出迎えた。
「どうしました?こんな時間に。」
「親方にお願いがあって参りました。お取り次ぎを…。」
奥から口髭を蓄えた初老の男が姿を現した。
「こんな早朝に、何用ですか?」
「親方は、六条御息所様邸の和泉殿という女房の依頼を受けているお方ですか?」
「ええ、いかにも。和泉様のご依頼を承っております。」
「実は、折り入ってお願いがございまして……和泉殿からの依頼品を当家で買い取らせていただけませんか?もちろん、倍額以上の値で。」
親方は眉をひそめ、怪訝な顔をした。
「それは…和泉様の依頼を断れということですか?」
「いえ、依頼は受けていただいて結構です。ですが、品物はこちらが買い取りたいのです。」
「つまり、依頼は受けるが品物は和泉様にお渡ししない…ということですか?」
「はい……そうなります。」
親方はハァとため息をついた。
「そんな…和泉様に何と説明するのです?職人は信用が第一です。そんなこと、できるわけがありません。」
「和泉殿には、加工中に折れてしまったなど、何とか誤魔化せば……。」
「職人がそんな失敗ばかりしていたら、職人ではありません!和泉様の依頼はいつも面白く、やり甲斐があるのです。信用を落とすわけにはいかない!帰ってください!!」
「で、でしたら、我が邸に来ていただけませんか?主人が職人と話をしたいと……」
「話は終わりだ。帰ってくれ!」
親方はそう言い、奥の部屋へ引っ込んだ。
下人が項垂れ、工房を後にしようとしたときだった。
「お待ちを!」
小声で弟子が下人に声をかけ、無言で外へ出るよう促す。
「あの、どのような意図があるのかは存じませんが、要はとりあえず、和泉様の依頼品と同じものがあればよろしいのですか?」
「私も詳しくは聞いておりません。ただ、和泉殿の依頼品の簪や髪飾りを持ち帰り、それを作れる職人を連れて来い、とだけ。」
弟子は少し考え込む。
「……私では、ダメでしょうか?」
「え?」
「弟子とはいえ、私も一通りの簪や髪飾りを作れますし、和泉殿の依頼内容も知っています。依頼品の作成を手伝ったこともあります。親方は工房で作業中ですが、出来上がりの品はいくつか今、持ち出せます。」
「私も手ぶらで帰れば、主人に何を言われるか……。そなた、親方の振りもできるな?」
弟子はニッと笑い、奥の部屋へ入っていった。
しばらくして、木箱を抱えた弟子が出てきた。
「……報酬は、倍額以上なのですよね?」
「もちろん。そなたが上手くやってくれればな。」
「さあ、行きましょう!」
そう言って、下人と弟子は早朝の都を足早に駆けていった。




