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第22話 飾り髪の波紋

末摘花邸を訪れてから、およそ一ヶ月。


六条御息所邸には、連日のように紗世宛の文が届くようになっていた。


内容は決まっている。

――飾り髪をしてほしい。

――自邸の女房たちに、飾り髪の手ほどきをしてほしい。


噂は、すでに“都の流行”へと変わり始めていた。


そんなある日。

源氏の君が六条御息所邸を訪れていた。


この日は珍しく、六条御息所の方から呼び出した形だった。


「呼び出された」という状況に、源氏の君はどこか落ち着かない様子で御息所の前に座る。


「気持ちの良い陽気になってまいりましたね。

源氏の君におかれましては、いかがお過ごしでしたか?」


「宮中行事や政務も多く、忙しくはありましたが、充実した日々を過ごしておりました。

御息所様もお変わりないようで、安心いたしました。」


「ええ。お陰様で。」


穏やかな挨拶が交わされる。


そして――


「ところで」


その一言に、源氏の君の背筋が僅かに伸びた。


(来た……。)


「近頃、常陸宮の姫君の噂が聞こえてきまして。」


源氏の君の胸に、ひやりとした感覚が走る。


――なぜ、和泉しかできない飾り髪を、常陸宮の姫君がしているのか。

――なぜ、和泉が関わっているのか。


そう問われる流れだと、直感的に悟った。


一方で紗世はというと――

最初から御息所に許可を取り、報告まで済ませている身である。


(あーはいはい、来ました来ました。)


内心、余裕である。


「ええ。私も、その噂は耳にしております。

何でも、とても美しくなられたとか。」


「その“美しくなった”という噂を聞きましてね。

どのように美しくなられたのか、噂を持ってきた女房に尋ねてみたのですよ。」


源氏の君は、静かに息を飲んだ。


「すると――

飾り髪が、常陸宮の姫君を大層引き立て、美しくしたのだと申しておりました。」


「……はい。」


「飾り髪を結えるのは、私の知る限りでは、わが屋敷の和泉しかおりません。」


一拍。


「源氏の君は、和泉以外に飾り髪を結えるお方をご存知ですか?」


(分かってるくせに……。)


と、紗世は心の中で突っ込みながら聞いていた。


御息所は、さらに静かに言葉を重ねる。


「そういえば――ひと月ほど前でしたでしょうか。

和泉が珍しく、丸一日外出した日がありましたね。」


一瞬の沈黙。


「思えば、その頃から常陸宮の姫君の噂が立ち始めたような……。」


源氏の君の脳裏に、はっきりと浮かぶ。


――気づいている。

――すべて、分かった上で話している。


(……隠しても仕方がないな。)


源氏の君は、小さく息を吐き、姿勢を正した。


「申し訳ございません、御息所様。」


静かに頭を下げる。


「実はその日、私が和泉殿をお連れして、常陸宮の姫君の邸を訪れたのです。」


「……和泉に、飾り髪を結わせるために?」


「はい。」


少しだけ言葉を選びながら続ける。


「ひょんなご縁から、常陸宮の姫君のご様子を知る機会がありました。

その……あまりにもおいたわしく思えてしまいまして。」


「そして――」


「御息所様のお姿を思い出したのです。

ですが、御息所様をお連れすることなどできるはずもなく……

それならば、御息所様の美を支えている和泉殿ならば、と考えました。」


表情は平静を装っているが、内心は緊張で張り詰めていた。


ふう、と。

御息所が静かに息をつく。


「源氏の君らしいですね。」


穏やかな声音。


「お優しくて、人を放っておけないお方ですもの。」


「……そう言っていただけるとは、光栄です。」


そして御息所は、静かに言葉を続けた。


「――ただし」


空気が、わずかに引き締まる。


「今後もし、和泉をそのような用件で連れ出されることがあるならば、私にもお知らせください。

外出は、女人にとって危険が伴います。

私の知らぬところで、和泉が危険に晒されることは避けたいのです。」


「……申し訳ございません。」


源氏の君は、深く頭を下げた。


「承知しました。

今後、和泉殿の力をお借りする際には、必ず御息所様にお伺いを立てます。」


(“もうしません”じゃないのか、瓜め。)


と、紗世は心の中で悪態をついた。


その後、源氏の君はほっとした様子で話題を変える。


「しかし……常陸宮の姫君の噂は、それほど都中に広まっているのですね。」


「最近は、“噂”だけではないのですよ。」


「……と、申しますと?」


御息所は、廊下に控えていた女房に声をかけた。


「それを、こちらへ。」


運ばれてきたのは、文で満たされた文箱。


「……これは?」


「和泉を女房として引き抜きたい、

あるいは、邸で飾り髪の手ほどきをしてほしい――

そういった内容の文です。」


「……これ、すべてですか?」


「ええ。」


静かに頷く。


「返信の文を書くために、和泉は他の仕事ができないほどなのです。」



文箱の中に詰め込まれた文を前に、源氏の君はしばし言葉を失っていた。


「……これほどとは。」


思わず、息を漏らす。


「噂が広がる、という次元を越えていますね……。」


「ええ。」


御息所は静かに頷いた。


「飾り髪は、もはや“噂”ではなく“都の流行”になりつつあります。」


源氏の君は、ふと紗世の方を見る。


文机に向かい、文の整理をしている姿。

その背には、すでに小さくない負担が積み重なっているのが見て取れた。


「和泉殿……。」


呼びかける声に、紗世は顔を上げる。


「はい。」


「……大変だろう。」


それだけの言葉だったが、そこには本心が滲んでいた。


「……まあ、正直に言えば。」


紗世は一瞬、言葉を探してから答えた。


「文を書くのは仕事なので構いませんが……

“引き抜き”と“直接依頼”が混ざってきているのが、少しややこしいですね。」


御息所が静かに頷く。


「和泉は、あくまで“わが邸の女房”です。」


きっぱりとした声音。


「都の流行に振り回され、立場が曖昧になることは避けねばなりません。」


源氏の君も同意するように頷いた。


「確かに……。

今の状態では、和泉殿が“個人の職人”として一人歩きしてしまっている。」


少し苦笑して続ける。


「しかも、私が連れ出したことが発端だ。

責任の一端は、私にもありますね。」


「自覚があるだけ、まだ良いですね。」


と、御息所は淡々と言った。


(容赦ねぇ……。)


と、紗世は内心で思った。


「ですので」


御息所は静かに結論を口にする。


「和泉個人に直接文を送らせる形は、今後控えさせましょう。

今後、飾り髪に関する依頼や相談は――

すべて六条御息所邸を通す形にします。


窓口は、私です。」


その場の空気が、すっと引き締まる。


「それは……」


源氏の君は一瞬考え、すぐに理解したように頷いた。


「……非常に賢明なご判断です。

和泉殿を守ることにもなりますし、

無秩序な引き抜きや混乱も防げますね。」


「ええ。」


御息所は視線を紗世に向ける。


「和泉。」


「はい。」


「あなたは、技を持つ女房です。

ですが同時に、私の屋敷の女房でもあります。

誰の庇護のもとにいるのか――

それを曖昧にすることは、あなた自身の身を危うくします。」


紗世は、静かに頭を下げた。


「……ありがとうございます。」


正直、これは助かる判断だった。


(個人事業主化しかけてたもんな、私……。)


と、内心で思いながら。


「今後、飾り髪に関する話は、すべて御息所様を通す形で。」


御息所は淡々と続ける。


「必要があれば、私が判断します。


無理な依頼、危険な外出、立場を脅かすような引き抜き――それらは排除します。」


源氏の君は、深く頷いた。


「それが最善でしょう。」


そして、ふっと表情を緩める。


「……和泉殿。」


「はい。」


「大事になってきたね。」


その言葉に、紗世は乾いた笑みを浮かべた。


「……なりましたね。」


(なんで平安時代でバズってんだ、私。)


と、心の中でぼやきながら。


こうして――

飾り髪は“個人の技”から、

六条御息所邸という権威のもとに管理される文化へと移行していく。


紗世は、ただの女房ではなくなり始めていた。


“技を持つ女房”

“名のある女房”

“引き抜かれかねない女房”


そして同時に――

守られるべき存在へと、立場を変え始めていた。


それは、名声と同時に、新たな面倒と、新たな運命を引き寄せることでもあった。


六条御息所は、静かに思う。


――流行とは、力だ。

――力とは、争いの種だ。


和泉を巡る世界は、もう「飾り髪」だけの話ではなくなっていた。


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