第21話 変移していく美意識
末摘花邸から戻った牛車が、六条御息所邸の門前に止まったのは、すでに日が沈みかけ暗くなり始めた頃だった。
紗世は道具箱を抱え、静かに屋敷の中へ入る。
(……今日、情報量多すぎ。)
頭の中は、末摘花の髪質、肌色、骨格、空気感、そして――
あの重く沈んだ雰囲気でいっぱいだった。
部屋に通されると、六条御息所は几帳の向こうで静かに座していた。
「和泉。」
柔らかな声が呼ぶ。
「お戻りなさい。」
「……ただいま戻りました、御息所様。」
深く頭を下げる。
「いかがでしたか。常陸宮の姫君は。」
その声音は穏やかだが、確かに“興味”が混じっている。
紗世は少し言葉を選びながら答えた。
「……姫君は、とても繊細な方でした。髪や容姿に強い劣等感をお持ちで……ご自身を、とても低く見ておられます。」
六条御息所は、ふっと小さく息を吐いた。
「……そう。」
「ですが」
紗世は顔を上げる。
「御髪そのものは、本当に美しいのです。ただ、今の美意識とは真逆の資質をお持ちで……。
それが、ご自身を“醜い”と思わせている原因だと感じました。」
御息所はしばらく黙し、やがて静かに微笑んだ。
「美しさというものは、時代と価値観で変わるものですからね。」
「はい……。」
「和泉は、どう思いましたか?」
紗世は一瞬だけ迷い、正直に答えた。
「……変われる方だと思いました。ご自身が思っているほど、姫君は弱くないです。
ただ……知らないだけです。自分の美しさを。」
その言葉に、六条御息所の目がわずかに細まる。
「……そう。」
そして、少しだけ声が柔らいだ。
「和泉は、人の“内側”を見るのが上手ですね。」
「……恐れ入ります。」
沈黙が落ちる。
穏やかで、静かな空気。
六条御息所はゆっくりと扇子を閉じた。
「源氏の君は、浮かれていましたか?」
「……はい。」
即答。
「“秘密の行動”が楽しくて仕方ないご様子でした。」
御息所の口元が、ほんの少しだけ歪む。
「……あの方らしいですね。」
そして、静かに言った。
「和泉。これから、同じような話は増えるでしょう。」
「……はい。」
「人は、美しさに群がります。とくに“新しい美”には。」
その言葉には、どこか含みがあった。
「ですから」
御息所は穏やかに微笑む。
「あなた自身も、気をつけなさい。」
「……?」
「“飾り髪の和泉殿”は、もう一人の女房ではありません。」
紗世は、はっとした。
(……あ。)
立場が、変わり始めている。
知らぬ間に。
「私は、あなたを守ります。」
六条御息所は静かに言った。
「けれど、人の噂と評判は、私の手の届かぬところで膨らみます。」
「……はい。」
「だから、何かあれば、すぐに言いなさい。必ずです。」
紗世は、深く頭を下げた。
部屋を出るとき、ふと胸がざわついた。
(……なんか今の、フラグ立った感あるな……。)
だが、その正体までは、まだ分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
末摘花は、変わる。
そして――
この“飾り髪”は、ただの流行で終わらない。
物語は、静かに次の段階へ進み始めていた。
――末摘花の変身から、数日後。
宮中。
源氏の君は、廊下で頭中将に呼び止められた。
「なあ、光る君。先日、飾り髪の和泉殿を伴って末摘花邸へ行ったと言っていただろう?」
「そうだったね。」
「正直に言うとだ。髪を飾ったところで、そう変わるものかと思っていたのだよ。だが最近、末摘花の噂を耳にしてね……それが、なかなかに好意的なのだ。」
頭中将は少し首を傾げて続ける。
「実際のところ、どうなんだい?光る君から見て、末摘花は変わったのか?」
その言葉に反応して、近くにいた左馬頭が勢いよく会話に割って入った。
「え!? 源氏の君、末摘花邸へ行かれたのですか!?
やはり噂は本当だったのですね!」
さらに、藤式部丞も興味深げに口を挟む。
「雨夜の談義の話が、まさか本当に行動に移されるとは……。さすが光る君ですね。私もその話、ぜひ聞きたいです。」
源氏の君は、ふっと笑みを浮かべた。
「ふふ、皆そろって興味津々だね。
正直に言えば、和泉殿を連れて行く前の末摘花の様子には、私も閉口していたよ。」
静かに言葉を選びながら続ける。
「やせ細った髪と身体、続かない会話、荒れた屋敷……。お世辞にも、美しいとは言いがたかった。」
「そうだろう!」
頭中将が身を乗り出す。
「私も一度行ったが、すぐにお暇させてもらったんだ。
あれが、どうにかなったというのかい?」
「ああ。」
源氏の君は、はっきりとうなずいた。
「和泉殿は、見事に末摘花を美しくしたよ。
真っ直ぐな黒髪では結えないが、末摘花の髪だからこそ結える――
“大輪の椿”の飾り髪を施したのだ。」
少し楽しげに、続ける。
「実際に見たが、見事だった。
しかも和泉殿は、衣まで変えると言い出した。」
「衣まで?」
左馬頭が目を見開く。
「そうだよ。そして私に言ったのだ。
“自宅にある反物を、指定したものすべて持ってきてください”とね。」
「天下の光る君を使い走りにするとは……」
頭中将が呆れたように笑う。
「和泉殿も、なかなか面白い女房だな。」
左馬頭が首を傾げる。
「指定した反物……とは?模様や流行りの色ですか?」
「いや、色そのものだ。」
源氏の君は穏やかに答える。
「淡い色、青みのある桜色……そういう色味を指定された。」
「流行ではなく?」
「和泉殿によれば、人にはそれぞれ“似合う色”と“似合わぬ色”があるのだそうだ。」
少し言葉を区切りながら続ける。
「末摘花は、伝統色や古風な色合いの衣を多く持っていたが、それらは彼女には合わず、むしろ顔色を悪く見せてしまう、とね。」
「着るものを変えた程度で、そこまで違うものかね?」
頭中将が半信半疑で言う。
「いやいや。」
源氏の君は、はっきりと否定した。
「たかが髪、たかが衣と侮ってはいけない。
和泉殿の手にかかった末摘花は、美しかったよ。
雰囲気も明るく、華やかで……まるで別人のようだった……そうだね、末摘花のみに留まらず、暗く陰鬱に思えた屋敷全体までもが軽く明るくなったようだったよ。」
そこへ、ちょうど通りかかった式部卿が足を止めた。
「ほう。」
穏やかな声が会話に入る。
「ということは、末摘花は髪や肌の色が、少し変わっている方なのかな?」
「おや、式部卿。」
頭中将が意外そうな顔をする。
「普段は、この手の話題にはあまり入られぬお方なのに。」
式部卿は、静かに笑った。
「ははは。歳も歳だし、色恋の話には縁遠くなっているがね。
ただ、“髪”や“肌の色”と聞いて、少し気になっただけだ。」
そして穏やかに続ける。
「仕事柄、異国の話を耳にすることも多くてね。
茶色い髪、金髪、赤毛、黒い肌、白い肌――
そうした人々の話を聞くこともある。
もしや末摘花は、そうした異国情緒を感じさせる方なのではないかと。」
藤式部丞が感心したように言う。
「なるほど……式部卿は、そこに興味を持たれましたか。」
「これは……今までの噂とは、まったく違う末摘花が見られそうですね。」
藤式部丞が笑う。
「私も一度、見に行ってみようかな。」
「それなら私も。」
「私もだ。」
男たちの声が重なり、話はさらに広がっていった。
末摘花という名が、
“奇異な姫君”ではなく――
“見てみたい姫君”として、
都の男たちの間に広がり始めていた。




