第18話 末摘花、劇的ビフォーアフター
「ところで常陸宮の姫君、ここは姫君のお部屋なのですか?」
紗世たちが通された部屋は、屋敷の奥まった場所にあり、日当たりが悪く、湿り気を含んだ空気が滞っていた。
(太陽の位置からして……この部屋、屋敷の中心から見て北東じゃない?
現代でも日当たりの悪い方角だから、トイレとか物置が置かれがちだよね。)
そう考えたところで、はた、と気づく。
(北東って……なんだっけ。風水的に良くない方角で……あ、そうだ。鬼門!
鬼門って言われる方角じゃなかった!?
ネガティブ思考、生霊との相性抜群じゃん!ダメじゃん!!)
そんな思考を巡らせている横で、末摘花が静かに答えた。
「ええ……わたくしのお部屋でございます。その……日が当たりますと……あの……髪の色が……余計に、醜くなってしまうので……。」
黒髪こそが美とされる時代。
髪が黒以外に見えてしまうことは、極力避けねばならない。
ましてや元が栗色の髪であれば、光を受ければ黒髪どころか、明るい茶色――時には金色にすら見えてしまう。
(……ああ。この部屋の選択も、常陸宮の姫の苦心の末なんだ。)
紗世は、これまでの末摘花の心の内に、ほんの少し触れた気がして胸が痛んだ。
―――が。
(それも、今日まで!
絶対に、この姫君を変えてみせる!!)
心の中で闘志に火がつく。
「常陸宮の姫君!このように暗いお部屋では、姫君の髪の素晴らしさが殺されてしまいます!
まずは、この屋敷で一番日当たりの良いお部屋へ移りましょう!」
「で、ですが……そういたしますと、髪が……。」
「先に申し上げます!常陸宮の姫君の髪は、陽の光の下でこそ、最も美しく、輝きを発揮できるのです!
それを、私が証明してみせます!」
「陽の光が……わたくしの髪を……?」
末摘花の表情に戸惑いが浮かぶ。その横で、年老いた女房が、おずおずと進み出た。
「姫さま……ここは一度、和泉さまのお言葉に従われてはいかがでしょう。
和泉さまは、源氏の君がお連れになるほど、都で評判のお方でございます。
そのお方が、姫さまの髪は美しくなると仰るのです。
私……姫さまのお美しいお姿を、見とうございます。」
その女房の表情は切実だった。
おそらく末摘花が幼い頃から仕えてきた女房なのだろう。
主が静かに、しかし確実に落ちぶれていくのを見続けるのは、どれほど辛かっただろうか。
「……分かりました。では、一番日当たりの良い、明るいお部屋へ、調度品を移してください。」
部屋の移動の準備が始まると同時に、紗世は屋敷の者に湯の用意を命じた。
(まずは……何年も塗り重ねた、このべったべたの椿油を少しでも落とさないと。
それから……)
その時、源氏の君が席を外す際に言っていた言葉を思い出す。
――惟成はこの屋敷へ置いておく。何かあったら惟成に言っておくれ。
紗世は惟成を呼び寄せた。
「この文を、源氏の君に届けてください。」
「源氏の君をお呼びになるのですか?もし私にできる用事であれば――」
「いいえ。源氏の君でなくてはできない用事です。この文をお渡しください。
それから、飾り髪の支度にはまだ時間がかかりますので、こちらへ戻られるのは日が沈む直前がよろしい、とお伝えください。」
「承知しました。」
惟成が屋敷を出た頃、部屋の移動はすべて整っていた。
新しい部屋に面した庭は荒れてこそいたが、空気は先ほどの部屋とは比べものにならないほど澄んでいる。
和泉は庭に向かって大きく息を吸い込み、くるりと振り返った。
「さあ!変身しますよ!!常陸宮の姫君!!」
女房総出で、末摘花の髪に重く絡みついた椿油を、湯に浸した手拭いで丁寧に拭い取っていく。
「あの……和泉殿。これでは、髪が……」
「波打って、広がってしまうのでしょう?」
「……はい」
「大丈夫です。この“波打つ髪”すら、美しくしてみせます!」
髪は栗色。毛は細く、根元から緩やかな波を描く癖毛だった。
「常陸宮の姫君。ご自身では、日頃、髪のどのようなところが気になっておいでですか?
髪の色以外で。」
(髪色は、変えようがないからね。)
「そう……ですね。文を書いたり、読んだり、食事をする時……髪がすぐ前に落ちてきてしまうのです。
わたくしの髪は軽く、膨らみやすいので、前かがみになると、他の方よりも落ちてきやすいようで……。」
(なるほど。何度も髪を触るのは、見苦しく見えるかもしれない。)
「つまり、広がりやすく、何度も髪を直さねばならぬのが気になる、ということですね。」
それならば――。
紗世は左右の前髪を取り、顔周りをすっきりと見せるよう、編み込み始めた。
きつく結わず、ふんわりと。波打つ髪に馴染むよう、指先で丁寧に編んでいく。
(髪、結いやすっ!)
長年、椿油で守られてきたおかげで、末摘花の髪は傷んでおらず、しっとりとした潤いを保っていた。そのおかげで、まとまりがよく、結いやすい髪だった。
編み込みを前髪から流れるように後頭部へと導き、左右それぞれを三つ編みにする。
その二本を、こめかみの延長線上、後頭部あたりで合わせ、そこから新たに一つの三つ編みを作った。
その三つ編みは、あえて長めに。
編み目をほぐし、柔らかな曲線を作り、ハートを思わせる形へと整える。
そして――
その三つ編みを、後頭部で渦を描くように巻いていった。
すると、そこにはまるで、大輪の椿の花が咲いたかのような髪型が現れた。
「……まあ!」
「すごい……お花みたい。」
「波打つ水に、花が浮かんでいるよう……。」
屋敷の女房たちから、感嘆の声が上がる。
紗世はさらに、飾り髪に使われていない垂らし髪へ手を伸ばした。
普通の三つ編みを、数本。編み目がハートの模様に見えるよう、ゆるく、ランダムに。
それぞれを、薄い若草色の髪紐で、長めに結ぶ。
「若草色の髪紐が……蔓や、葉のように見えます。」
女房たちも、紗世の意図を理解したようだった。
すべて結い終えると、紗世は末摘花と女房たちに向き直った。
「真っ直ぐな黒髪が美しいとされています。
ですが、この“大輪の椿髪”は、真っ直ぐな髪では、すぐに崩れてしまうのです。
また、黒髪では、花の形にしても真っ黒で分かりづらく、下手をすれば、大きな塊が頭の後ろに付いているように見えてしまうでしょう。
――この飾り髪は、常陸宮の姫君の髪だからこそ、美しく見えるのです。」
女房たちは次々と、椿の花のような髪を覗き込み、
「本当に……お花だわ。」
「確かに、真っ黒なお花だと、少し不吉な感じがするかも……。」
と囁き合った。
「そして、前かがみになると髪が落ちてくるのは、前髪です。
ですから、前髪を編み込んで、後ろへ回しました。」
末摘花は、文を読む仕草をしてみせた。
「……落ちてこないわ……。」
「常陸宮の姫君の髪の、最も美しいところは、その明るい色と、波打つ髪の動きです。
姫君、少し、庭の方へ出ていただけませんか?」
末摘花は静かに立ち上がり、廊下へと歩み出た。
――その時、風が吹いた。
風に揺れ、末摘花の髪が動く。
「ご覧ください。
風が吹くたび、髪はきらきらと波打ち、髪紐も揺れる……まるで、風に揺れる花のようではありませんか。
自然のものに、真っ直ぐなものはほとんどありません。
木も、花も、水も……曲がっているものの方が多い。
その自然の美しさに、常陸宮の姫君の髪は、見事に調和しているのです。」
末摘花の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。




