第17話 『末摘花(※噂とは異なります)』
末摘花邸に到着すると、まず目に入ったのは、手入れの行き届かない庭だった。
ところどころに伸び放題の雑草が揺れ、池の水は澄むという言葉を忘れたように、わずかに濁りを帯びている。
(日中なのに、なんだか薄暗い……。
夜に来たら絶対ホラーじゃん。
これ……六条御息所様より、常陸宮の姫君の方が生霊とか怨念とか、その手のワードが頭をよぎるんだけど……。)
そんな紗世の内心など知る由もなく、源氏の君は末摘花と穏やかに季節の挨拶を交わしていた。
形式ばった言葉がいくつか往復し、その流れで彼は紗世を振り返る。
「こちらが、都で評判の飾り髪を結う和泉殿ですよ。
今日は、姫君の髪を少し整えてもらおうと思いましてね。」
そう紹介されるや否や、源氏の君は軽やかに立ち上がった。
「男が、髪結い中の姫君を眺めるのも野暮だろう?私は席を外すとしよう。」
そう言って、さっさと御簾の外へ出て行ってしまう。
(あんの瓜めがぁぁぁぁぁ!!
丸投げして逃げやがったぁぁぁぁぁ!!)
心の中で叫びながらも、表情には出さず、紗世は末摘花の方へ向き直った。
「常陸宮の姫君。
お初にお目にかかります。六条御息所様の御屋敷にて女房としてお仕えしております、和泉守の娘でございます。
どうぞ、和泉とお呼びください。」
少し間を置いて、姫は小さく頷いた。
「……和泉殿。
ようこそ、おいでくださいました。」
……沈黙。
(え、ここで終わり?
えっと……そもそも、この人、飾り髪するの了承してくれてる?
それとも話を聞くだけ?どっち??)
紗世は内心で慌てながら、慎重に言葉を選んだ。
「あの……常陸宮の姫君。
飾り髪には、その……ご興味はございますか?」
姫は、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、口を開いた。
「……飾り髪、ですか。
評判は、源氏の君から伺っております。
ですが、私……髪が……」
……また、沈黙。
(髪が……?
髪が、何?
そこ一番大事なとこなんですけど!?)
姫は、まるで自分に言い聞かせるように、途切れ途切れに続けた。
「私の髪は……美しく……ありません……。
和泉殿が、どれほど美しい飾り髪を結ってくださっても……
私の髪が……醜くては……
せっかくの飾り髪も……」
ズンッ。
言葉が終わるのと同時に、空気が重く沈んだ。
(なに……!?)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
まるで、真綿で首を絞められているような感覚。
息がしづらい。身体が重い。
(これ……何?
霊感ゼロの私でも、分かるんだけど……
ネガティブオーラとか、そういう次元じゃない……。)
源氏物語の世界に転生してから、初めて感じる異質な感覚だった。
(……そうだ。ここは、私の知ってる「史実の平安時代」じゃない。)
紫式部が――
生霊も、物の怪も、人の情から生まれるものとして描いた世界。
六条御息所様が、抑えきれない思いの果てに生霊となり、葵上を取り殺した――
そんな話が“現実として成立している”世界だ。
(ってことは……)
この異様な空気。
末摘花の、自分を削るような言葉。
積もりきった卑屈さと、諦めと、自己否定。
(この世界では……
強すぎる感情は、ただの感情で終わらない。)
――下手をすれば。
(オカルト的な“何か”を、引き起こしてもおかしくない……!)
背筋に、ぞくりと寒気が走った。
(だめ。
このまま沈ませたら、絶対にまずい……!)
紗世は、無意識のうちに息を整え、末摘花をまっすぐ見つめた。
(大丈夫。
これはまだ“生霊”じゃない。
この人の心が、長い間、誰にも触れられずに積もり積もったものだ。)
そう、直感的に理解していた。
――ここからが、本当の仕事だと。
紗世はひとつ、深く息を吸った。
「……まずは、御髪を見せていただけませんか?」
末摘花が、わずかに身じろぎする気配が伝わってくる。
「私は、他の方よりも髪については少々詳しいと自負しております。
もしかしたら……常陸宮の姫君が抱えていらっしゃるお悩みも、幾分かは解決できるかもしれません。」
「……それは……」
ためらいが、そのまま声になって落ちた。
「少しだけでも良いのです。お願いいたします!」
気づけば、声に力がこもっていた。
髪を見たい――それ以上に、この場に溜まりきった重苦しさをどうにかしたい。
(髪に強いコンプレックスがあるなら、そこをほどければ……この空気も、きっと。)
紗世の必死さが伝わったのか、末摘花はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「……では、少しだけ。
ですが……本当に醜いのです。
もし、そうお感じになったら……すぐに、おやめください……。」
どこまでも、自分を下げる言葉。
「失礼いたします。」
そう告げ、紗世はそっと御簾を上げ、末摘花の背後へ回った。
――――っ。
……これは……。
細く、ふわりとした栗色の髪。
いわゆる猫っ毛で、光を含むと柔らかく透けるような質感。
地肌の色は驚くほど淡く、化粧越しでも白さが際立つ。
鼻筋はすっと通り、彫りはやや深め。
(……え、ちょっと待って)
現代だったら、完全に欧米系ハーフ美人枠。
そして、脳内で鳴り響く確信。
(ブルベ肌!!!!)
猫っ毛を抑えようとしているのだろう、髪には油がたっぷり塗られている。
そのせいで、本来あるはずの空気感が潰れ、量まで少なく見えていた。
(なるほど……!
ボリューム出るのが怖くて、全部殺しに行ってる!!)
でも――
(めっちゃ、儚げハーフ系じゃん!!!)
痩せていて、手首は驚くほど細い。平安時代としては「貧相」「財力なし」「魅力なし」と映るだろう。
だがそれすら、紗世から見れば繊細さとして成立している。
(ブルベに大和色オンリーとか……
そりゃ顔色沈むし、良さ全部消えるわ!!!)
――ああ。
(黒髪、直毛、ふくよかな顔っていう平安美人像の、ど真逆。
だから“醜い”って思い込んじゃったんだ……。)
紗世は、黙ったまま思考を全速力で回していた。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、末摘花が不安げに声を落とす。
「あの……和泉殿。
本当に、無理はなさらなくてよろしいのですよ。
やはり……醜い、ので……」
「何を仰っているのですか!!!」
被せるように、勢いよく声が飛び出した。
「素晴らしい御髪です!!
他の誰にも真似できない、常陸宮の姫君だからこその飾り髪ができます!!」
そして――
「っきゃーーー!!!」
自分でも止められなかった。
「俄然!!!
やる気!!!
出てきましたぁぁぁぁぁ!!!」
畳の間に、完全に場違いな咆哮が響き渡る。
「これは……!
これはですね……!!
職人魂が燃え上がらない方が失礼です!!!」
拳を握りしめ、ずいっと一歩踏み出す紗世。
「え……え……?(この方、職人だったかしら?女房って…。)」
末摘花は目を丸くし、ぽかんと振り返る。
「あ、あの……和泉……殿……?」
その声には、ほんのわずか――
けれど、確かにこれまでにはなかった“期待”の色が混じっていた。
――大丈夫。
この人は、変われる。
紗世は、確信していた。




