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第16話 男、袖の下で笑い 女、几帳の奥で溜息

紗世の様子が、どうにも落ち着かない。

六条御息所はそれを、すぐに見抜いた。


以前なら、女房の些細な変化など気にも留めなかっただろう。

だが最近は違う。

自分の感情を少しずつ言葉にするようになったからこそ、他人の心の揺れにも、自然と目が向くようになっていた。


「……和泉、何か隠していませんか?」


静かな声だった。

責める響きはない。ただ、逃げ場のない問いかけ。


紗世は一瞬、言葉を失い、それから観念したように小さく息を吐いた。


「……実は」


そう前置きして、源氏の君から文をもらったこと、その中で頼まれたことを、包み隠さず語った。


御息所は黙って聞いていたが、やがて静かに口を開く。


「源氏の君にも、困ったものね。」


その言葉に、紗世は思わず身を強張らせる。


「常陸宮の姫君……以前、源氏の君のお話から察するに、あの方のことでしょう。親しく交流があったわけではありませんが、常陸宮さまがご健在だった頃、歌合の折にお見かけしたことはあります。」



――末摘花って、常陸宮の姫君のことだったのね。

そういえば確か、「末摘花」という名は、瓜や他の殿方たちが勝手につけた呼び名のようなものだったはず。


鼻が赤いだの何だのと理由をつけて「末摘花」だなんて……。

自分だって瓜のくせに。


……よし。私は、あの方を「末摘花」なんて絶対に呼ばない。



「和泉は、どうしたいと思いますか。」


紗世は少し考え、慎重に言葉を選んだ。


「私は六条御息所さまの女房ですから、他のお方のお屋敷へ伺うのは、やはり憚られます。ただ……」


そこで一度、言葉を切る。


「常陸宮の姫君に、悪いところは何もありません。

女人というのは、父であったり、夫であったり、子であったり……後ろ盾となる殿方や親戚によって、暮らしも立場も変わってしまいます。姫君ご自身の罪ではないのに、そう思うと……同じ女人として、その……もし私にできることがあるなら……と。」


言い終えた紗世は、そっと視線を伏せた。


御息所はしばらく沈黙し、やがて、ほんのわずかに頬を緩めた。


「そうですね。常陸宮の姫君の身の上を思えば、私も気の毒に感じます。」


そして、ふっと笑みを含ませて続ける。


「それに――頼み事をしてきたのは、あの源氏の君、ですからね。和泉が簡単に断れるはずもない。」


紗世は顔を上げる。


「和泉が姫君を助けたいと思うなら、行ってきなさい。

もし、この件を断りたいのであれば、私から源氏の君に申し上げましょう。」


「御息所さま……よろしいのですか?」


「ええ。」


御息所は、少し楽しげに言った。


「和泉は、人の雰囲気や髪の状態によって、飾り髪を変えると言っていましたね。常陸宮の姫君を、どのように整えるのか……私も興味があります。」


その一言で、紗世の胸の重石は、すっと消えた。


こうして――

「内密に」という源氏の君の言葉は、見事に黙殺され、六条御息所の正式な許可のもと、末摘花騒動は動き出すことになったのだった。




─────


その日、源氏の君は頭中将と、近頃の流行りや女房たちの噂話に花を咲かせていた。


そこへ惟光が参り、

「和泉殿より、お返事の文が届いております。」

と申し出る。


源氏の君は文を受け取り、さっと目を通した。

その表情に、わずかな安堵の色が浮かぶ。


「なんだい? 気になる姫君からの文か。都一の貴公子は、相変わらずお忙しそうだね。」

頭中将が、からかうように笑う。


「いや、実は……」

源氏の君は、常陸宮の姫君のもとへ和泉を同行させることにした経緯を簡単に話した。


すると頭中将は、声を上げて笑った。


「――あの末摘花か!

君が通っていると聞いてね、実は都の評判は嘘で、実は奥ゆかしい姫君なのでは、などと期待して私も訪ねてみたのさ。」


だが、すぐに顔をしかめる。


「……ところがどうだ。屋敷に入った途端、後悔したよ。

庭は荒れ放題、姫君は季節の挨拶を一言したきり、会話も続かない。

衣は流行遅れで、色合わせも野暮。

早々に暇を告げて帰ってきたよ。


君がそこまで気を配るほどの姫君とは、到底思えないね。

それも評判の飾り髪の和泉殿を連れて行くなんて!」


源氏の君は一瞬、言葉を失った。


「……頭中将。

君の言うことも、まあ、人それぞれの考え方ではあるが――」


少し間を置いて、源氏の君は苦笑した。


「うん。君は、なかなかに酷い男だね。」


頭中将は肩をすくめ、どこか楽しげに言った。


「ああ、でも本当に和泉殿を連れて行ったのなら、どうなったのか後で教えてくれ。

あの野暮さは、和泉殿でも手強いだろう。

奮闘ぶりを聞くのは、なかなか面白そうだ。」


源氏の君は、しばらく何も言わなかった。


そして静かに、言葉を落とした。


「……下劣な男だね。」





そして数日後───


六条御息所邸の前に、小さく質素な牛車が一つ停まっていた。その脇には惟成が控えている。


そこへ、大きな道具箱を二つ、さらに布に包んだ小物類を抱えた紗世が、よろよろと歩いてきた。


それを見とめると、惟成は慌てて駆け寄り、荷を受け取って牛車へと積み込む。


「六条御息所さまの御邸の前に、さすがに源氏の君の牛車を停めるのは憚られますので――

少し離れた場所に、源氏の君がお乗りの牛車がございます。そこまでこちらの牛車でご容赦ください。」


丁寧でそつのない対応だった。


しばらく走ると、一回りも二回りも大きな牛車の隣に停まった。

その中から、聞き慣れた声がする。


「すまないね、和泉殿。今日はよろしく頼むよ。気をつけて乗っておくれ。」


源氏の君の声だった。


紗世は扇子で顔を隠しながら、静かに乗り込む。


「今日は内密に、ということだからね。コソコソしなくては。」


どうやら「秘密の行動」という状況に、源氏の君は少なからず浮き立っているらしい。


(良い気なもんだよ、このウカレポンチ瓜が。)


扇子の下で表情を隠せてよかった、と紗世は思った。


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