第15話 その文、瓜より青し〜末摘花、余計なお世話始まる〜
六条御息所が、以前よりもわずかに感情を表に出すようになってから、しばらく経ったある日。
紗世は御息所の御前を離れ、屋敷の奥で雑用をしていた。
帳簿を運び、女房たちのやり取りに気を配り、ようやく一息つこうとしたところで、来客の取次を務める女房に呼び止められた。
「和泉殿。お客人です。左兵衛尉様のお遣いだとか。」
「……さひょうえのじょう?」
思わず鸚鵡返しにする。
「その、奥方さまや姫君からの遣いではなくて?」
「ええ。若いお方でございます。」
若い、という言葉に首を傾げながら、紗世は門の方へ向かった。
そこに立っていたのは、遣いと言うには少し幼さの残る水干姿の少年だった。
背はまだ低く、肩幅も細い。だが、烏帽子のかぶり方や立ち姿には、きちんとした躾が感じられる。
(……若っ。元服したばかり、って感じ?十一……十二?
って、待って。これ、現代なら小学生——いや中学生?)
少年は紗世を見ると、きちんと一礼した。
「私、左兵衛尉・源惟光が嫡男、源惟成と申します。
六条御息所様にお仕えの和泉殿でいらっしゃいますか。」
見た目に反して、口調は落ち着いている。
(源惟光……惟光……。)
脳内で名前が弾けた。
(あっ!! 瓜のお付きの人!!
そうか、あの人、左兵衛尉なんだ……初耳。
……って、息子!?)
まじまじと少年を見る。
(……似てる、かも。
惟光殿は実務系で、顔も体もシュッとしてるから現代感覚でも違和感ないんだよねぇ……。
息子、幼いのに、結構顔、整ってない?)
「はい。和泉ですが……なにか御用でしょうか?」
「源氏の君より、和泉殿宛に文を預かって参りました。
できれば、早めにお返事をいただきたいとのことで……。」
源氏の君。
内心で、紗世は顔をしかめる。
(瓜から文……?)
受け取った文には、季節の花も香も添えられていない。
少なくとも恋文ではなさそうだ。
文を開き、目を走らせる。
───────
近頃、とある姫君のもとへ通っている。
かつて六条御息所様の御前で話題に出た、あの古風な家の姫君である。
屋敷の調度も、衣も、いかにも昔風で、いささか不憫に思えてならない。
とりわけ、姫君の髪は――もう少し、何とかならぬものかと。
和泉殿の飾り髪ならば、姫君を華やかに美しくできるのではないか。
ただし、我が邸の女房が他家の姫君に手を貸すとなれば、六条御息所様のお心を煩わせかねない。
どうか、このことは内々に。力を貸してほしい。
────────
読み終え、文を畳む。
(……行ったな。末摘花のところに。あの瓜め。)
そして、最後の一文が、妙に引っかかった。
(六条御息所様には内緒、ね。
この一文だけ、やけに重いんだけど。)
顔を上げると、惟成がじっとこちらを見ていた。
無駄な動きも、そわそわした様子もない。ただ、きちんと返事を待っている。
(……この子、真面目だな。)
「……お返事は、少し考えてからでよろしいですか。」
「はい。父よりも、そのように申すよう言われております。」
即答だった。
(父親の顔が浮かぶわ……。)
「では、後ほど必ず。」
「承知いたしました。」
再び深く礼をして、惟成は静かに下がっていった。
その後ろ姿を見送りながら、紗世は小さく息を吐く。
(さて……どうする、私。)
六条御息所。
源氏の君。
そして、末摘花。
——嫌な予感しかしない。
惟成が去ったあと、紗世はしばらくその場に立ち尽くしていた。
文は、袖の中でやけに重い。
(どう考えても厄介案件。)
源氏の君が、末摘花のもとへ通い始めた。
それだけでも、原作的に「あ、来たな」案件なのに。
(しかも、六条御息所様に内緒で、私を貸してほしいって何!?
その理屈、現代でもアウトだよ!?)
屋敷に戻り、女房の仕事をしながらも、頭の中はぐるぐるしていた。
——手伝えば、末摘花は救われるかもしれない。
——でも、六条御息所様を裏切る形になる。
——しかも、源氏の君の「善意」って、後で大惨事になる率高くない?
(この瓜、無自覚に地雷原タップダンスするタイプだよな……。)
夕刻、御息所の御前に呼ばれ、いつも通り髪の手入れをする。
御息所は、静かで穏やかだった。
その様子が、逆に胸に刺さる。
(この人に、内緒で動く?
いや……無理。無理無理無理。)
胃のあたりが、きゅっと縮む。
(でも断ったら、末摘花が……
ああもう、なんで私、源氏物語の世界に来てるの!?)
その夜、文机の前に座ったまま、紗世は筆を持っては置き、持っては置き。
「……返事、書けない……。」
ついには机に突っ伏した。
(六条御息所様に話す?
いや、今はまだ感情が芽生え始めたばかりだし……
源氏の君の話題、まだ慎重に扱いたい……。)
悩みすぎて、完全に胃が痛い。
(これはもう……誰か、第三者の意見が欲しい……。)
そう思った瞬間、翌日の予定がふと頭をよぎった。
(……あ、文を取りに来るの、惟成くんだ。)
翌日。
門の近くで雑用をしていると、昨日と同じ少年の姿が見えた。
源惟成。
今日も変わらず、きちんとした佇まい。
(うん、やっぱり落ち着いてるな、この子。)
「和泉殿。」
「……あ、惟成殿。昨日はどうも。」
「父より、返事は急がなくてよいと申すように、と。」
その一言で、紗世の肩から力が抜けた。
「……そう、ですか。」
「はい。
父は、『六条御息所様にお仕えしている以上、和泉殿が悩まれるのは当然だ』と。」
(……え。)
思わず惟成を見る。
「……そんなこと、惟光殿が?」
「はい。
源氏の君は、お優しい方ですが……時に、急ぎすぎるところがありますから。」
淡々と言うが、ほんの少しだけ、困ったような表情を浮かべた。
(え、なにこの子。
空気読むし、客観視できてるし、父親の性格も把握してる……。)
「和泉殿が、無理をなさる必要はない、とも。」
(……優しいな。)
一瞬、胸の奥がじんわり温かくなる。
「ありがとうございます。
……実は、少し悩んでいて。」
「そうでしょうね。」
即答だった。
「源氏の君は、良かれと思って人を巻き込みます。ですが、和泉殿は……」
惟成は一拍置いてから、続けた。
「誰かを裏切る形になることを、よしとしない方だと思いました。」
(……この子、観察力高すぎない?)
「ですから」
惟成は、少しだけ微笑んだ。
「お返事は、和泉殿が納得されてからで大丈夫です。
私が、そう父にも伝えます。」
完全に、逃げ道を作ってくれている。
(……この子、将来絶対モテる。)
「惟成殿……ありがとうございます。」
「いえ。」
短くそう答えると、惟成は一礼した。
「では、また伺います。」
去っていく背中を見送りながら、紗世は思った。
(……この世界で、
一番安心できる男性、今のところこの子かもしれない。)
文は、まだ白いままだ。
けれど、昨日よりは少しだけ、心が軽くなっていた。




