第13話 その男、瓜につき
几帳の内は、午後の光をやわらかく含み、静まり返っていた。
紗世は六条御息所の背後に控え、ゆっくりと髪を梳いていた。
櫛を入れるたび、艶やかな黒髪が静かに揺れる。
「源氏の君、近頃は足繁くこちらへ通っていらっしゃいますね。」
できるだけ何気なく、紗世は言葉を選んだ。
「御息所様のご魅力が、きちんと伝わっているのだと思うと……私も、少し誇らしい気持ちになります。」
六条御息所は、扇子を胸元に添えたまま、穏やかに答えた。
「……あの方は、まだお若いのでしょう。私のように年の離れた女が周囲におらぬゆえ、珍しがっておいでなのだと思います。」
声は静かで、感情の揺れは感じられない。
「きっと、そのうち……こちらへ来る頻度も、自然と減っていくでしょう。」
(そうなったら……生霊フラグが立つんですけど……。)
紗世は心の中で叫びながら、必死に笑顔を保った。
「噂の貴公子ですもの。各家の姫君方も、きっとご自分の元へ来ていただこうと、さまざまな工夫をなさっているのでしょうね。」
少し間を置いてから、付け足す。
「その中で、こうして御息所様のもとへ通っていらっしゃるのですから……やはり、御息所様は特別なのだと思います。」
六条御息所は、ほんのわずかに扇子を傾けた。
「和泉の飾り髪のおかげでもありますよ。いつも、ありがとう。」
(違うんだぁ!!
知りたいのは、そうじゃなくて……源氏の君をどう思ってるか、なんです……!)
紗世は内心で頭を抱えた。
(どうする……どう聞く……!?
直球は無理……遠回し……いや、もっと自然な話題……。)
紗世は、とにかく源氏の君の話題を!気持ちを!聞き出さないと!と言う焦りと想いでいっぱいになっていた。
「……源氏の君って、噂通りの貴公子ですよね!お召し物の趣味もよろしいですし、焚きしめていらっしゃるお香も、とても良い香りで……」
勢いづいた言葉は止まらない。
「お顔も白くて瓜みたいで、高貴なお顔立ちで……」
――――。
――――――。
………………!!!!!!?
(……言った……!
今、言っちゃった……!
瓜って!!!!!)
紗世の手から、櫛がするりと滑り落ちた。
ぽとり、と畳に落ちる音がやけに大きく響く。
「……っ!」
紗世は慌てて両手で口を覆い、その場に固まった。
(しまった……!!
ずっと心の中で瓜呼びしてたから……!!)
恐る恐る視線を落とし、叱責を待つ。
だが。
しばし、沈黙。
静かすぎるほどの沈黙。
「…………瓜……?」
感情の読めない、低く澄んだ声。
紗世の背中を、冷たい汗が伝った。
(終わった……。)
次の瞬間。
「……っふ……。」
小さく、息を漏らす音。
「……ふ、ふふ……」
(……え?)
紗世は、恐る恐る顔を少しだけ上げた。
御息所の背中が、微かに震えている。
(……肩……震えて……?)
「い、いず……和泉……っ…」
六条御息所は言葉を絞り出そうとしているが、声が続かない。
「……ふっ……!」
そして、ついに。
「ぶふっ――――!!」
御息所は前のめりになり、扇子を持つ手をひらひらと振った。
「……瓜……うり……!!」
堪えきれず、声を殺しながら笑っている。
(……笑ってる???
六条御息所様が????)
紗世ははっとして、すぐに周囲の女房たちに目配せをし、静かに下がらせた。
「御息所様……!申し訳ございません!
その……源氏の君に、なんと失礼な……。」
土下座せんばかりに身を低くする紗世。
だが、六条御息所は体をこちらへ向けた。
「いえ……。」
まだ、笑いを堪えきれない声音で。
「確かに、源氏の君には……失礼なのですが……。」
ふっと息を整え、
「和泉の……その……『瓜』という表現が……」
再び、肩が震える。
「……あまりにも……的確で……
……ふふ……その通りだな、と……。」
そう言って、また小さく笑った。
それは、紗世が初めて目にする、
感情を隠さない六条御息所の顔だった。
感情の滲んだその表情を見て、紗世は思わず言葉をこぼした。
「御息所様、やはりお美しいです。……笑っていらっしゃると、なおさら。」
まだ笑いを完全には堪えきれていない様子で、御息所は目尻に浮かんだ涙を指先でそっと拭い、紗世を見やった。
「ああ……でも、そろそろ品位を保たなくてはなりませんね。いつまでも笑っていては……。」
そう言って、乱れかけた佇まいを正そうとする。
「いいえ。」
紗世は即座に、しかし真剣な声音で否定した。
「御息所様は、笑顔でいらっしゃる方がずっと素敵です。品がないだなんて、そんなこと、絶対にありません。」
現代の感覚を色濃く残す紗世にとって、「感情を表に出すのは品がない」という考え方は、どうしても馴染めなかった。常々、もっと人は感情を出していいのに、と思っていたからだ。
「ふふ……ありがとう、和泉。」
御息所は穏やかに微笑んだが、その表情にはわずかな翳りがあった。
「けれど、私ほどの年齢の女が感情を露わにするのは、見苦しいと思われてしまうものです。」
二人きりで、しかも御息所が不意に感情を見せてくれた今――
紗世は、これは普段胸にしまっている思いを伝えられる、またとない機会だと感じた。
「あの……御息所様。」
少し間を置き、慎重に言葉を選ぶ。
「私、ずっと思っていたのですが……なぜ女人は、感情を表に出すと“はしたない”“品がない”と思われてしまうのでしょう?」
御息所は驚いた様子も見せず、穏やかに答えた。
「仏様は、煩悩や感情に溺れず、平常心を保ち、淡々と生きることを良しと説いておられますからね。」
「そうですよね。」
紗世は頷いた。
「和泉国にいた頃、母上や尼の方からも、そう教わりました。でも同時に、こうも言われたんです。平常心とは、感情を持たないことではなく――感情があっても、心の中心が揺らがないことだ、と。」
御息所の目が、わずかに見開かれた。
「はしたない、と言われればそれまでかもしれません。でも私は、感情は感じたまま出してもいいものだと思うんです。大切なのは……感情そのものじゃなくて、その扱い方だと。」
「感情の……扱い方?」
興味を惹かれたように、御息所が問い返す。
「はい。」
紗世は少し考えてから、言葉を続けた。
「たとえば、気になる殿方が訪ねて来てくれたら、嬉しい気持ちを笑顔で迎える。他の姫君のもとへ行ったと聞けば、少し拗ねた顔をする。帰ってこなければ、泣いて、悲しむ……。そういう感情自体は、自然なものだと思います。」
御息所は黙って聞いている。
「ただ、その感情が行き過ぎると、品がなくなってしまうのだと思うんです。」
「行き過ぎる……とは?」
「嬉しさのあまり声が大きくなってしまったり、嫉妬が強すぎて相手を縛ろうとしたり、悲しみのあまり周りに当たってしまったり……。」
御息所はしばし考え込むように視線を伏せ、やがて静かに口を開いた。
「……そう、ですね。仏様も、感情を持つなとは説いてはいません。どんな感情であれ、心の中心を乱してはならない、と言うだけで……。」
その表情が、ふっと柔らいだのを紗世は見逃さなかった。
(なんか……御息所様、目からウロコ、って顔してる……?
生き霊フラグ、ここで折れてくれ……!)
いつもより和らいだ雰囲気に背中を押され、紗世は思い切って言った。
「ですから、源氏の君を“瓜のようだ”と聞いて可笑しかったのなら、笑っていいと思います!
……ご本人の前でなければ、ですけど(どや)。」
「……っ、ふっ……」
御息所は一瞬こらえたものの、
「ふふふふふふ……!」
再び、堪えきれない笑いが零れ落ちた。




