第12話 まだ誰も、怨んでいない夜
その夜、灯台の火はいつもより低く、影が長かった。
昼間の賑やかさが嘘のように、六条御息所邸は静まり返っている。
女房たちはそれぞれの持ち場に戻り、廊のきしむ音すら、やけに大きく聞こえた。
紗世は几帳の内側で膝を抱え、昼間の会話を反芻していた。
――「お父上が皇族で、学問と儀礼に明るく、古風で格式を重んじる……」
あれは、どう考えても。
(末摘花のことだよねぇ……。)
源氏物語の記憶が、じわじわと蘇ってくる。
正直に言うと。
源氏の君の末摘花に対する態度って、わりと――いや、かなり――酷い。
勝手に理想を盛り盛りにして、
実際に会ったら「え、これ?」って顔して、勝手にテンション下げて、でも情けで通い続ける、あの感じ。
(いや、情けって何。
期待値を勝手に上げたのは、そっちだろ、瓜。
しかも頭中将。あの人も行くんだよね、末摘花の所。行った瞬間、光の速さで「ナシ」判定。
よく生霊にならなかったよ、末摘花。
偉い。ほんと偉い。)
六条御息所様が生霊になるなら、条件的には末摘花の方がよっぽど揃ってる。
・高貴
・真面目
・プライド高い
・なのに評価されない
……役満じゃない?
(なのに、あの人はならなかったんだよな……。)
そこまで考えて、紗世はふっと息を吐いた。
(……あ、でも)
まだ源氏の君が末摘花を訪ねるのは、少し先の話だ。
今はまだ、六条御息所様の元に足繁く通っている。
最近は多すぎるくらいだ。
二日おき。
時には、間に一日も空けず。
(ヤバいよね〜……これ。)
問題は、六条御息所様が
源氏の君をどう思っているのか。
それが、まったく読めない。
扇子で口元を隠し、
声の調子は常に一定、
返す言葉は完璧な模範解答。
嬉しいのか。
楽しいのか。
それとも、ただ「あるべき応対」をしているだけなのか。
(感情、ゼロ……?
いや、そんなわけないよね。生霊飛ばすくらいだもん。)
紗世は、和泉の国で母から言われた言葉を思い出す。
――「女は、思ったことをそのまま顔に出してはいけません」
――「喜びも怒りも、少し控えめが美しいのです」
確かに、それは正しい。
この都では、特に。
でも。
(隠してばっかりだと……。)
心の中で、何かが溜まっていく。
言えなかった言葉。
飲み込んだ感情。
「こうしたかった」という小さな後悔。
それが、ある日。
――どん。
(爆発するんだよね……。)
生霊って、嫉妬だけで生まれるわけじゃない。
「我慢し続けた結果」
「感情の行き場がなくなった結果」
そういうものの集合体なんじゃないか、と
紗世は思っている。
(だったらさ
源氏の君をどうにかするより。
来訪の回数を減らすより。
六条御息所様の気持ちの扱い方そのものを
変えた方が、早いんじゃない?
思ったことを、全部ぶつけろとは言わない。
でも。
「少しだけ」
感情を外に出してもいいって、誰かが教えてあげないと。
……それ、女房の役目?)
紗世は、天井を見上げて小さく笑った。
(いやいや、重いわ。
私、髪結い担当なんですけど。)
でも。
このままじゃ、六条御息所様は
“完璧で、美しくて、孤独な人”のままだ。
(生霊回避ルート、
源氏対策じゃなくて、
御息所様メンタルケア説……あるな。)
そう結論づけたところで、
灯台の火が、ゆらりと影を揺らした。
夜は、まだ深い。
そして、厄介な未来も、まだ先。
――だと、いいんだけど。
その頃――。
末摘花の屋敷では、庭のあちこちに伸びてきた雑草が、夜風に揺れていた。
その様子を、御簾の内からぼんやりと眺めながら、姫は小さく息を吐いた。
――庭の手入れを、頼まねば。
そう思う。
思うだけで、口には出ない。
そんな余裕が、今の屋敷にはないことを、誰よりも姫自身が分かっていたからだ。
庭を眺めながら、思いは自然と過去へと向かう。
いつから、こうなってしまったのだろう。
父上は、皇族で、高貴な身分で、学問にも儀礼にも明るいお方だったというのに。
もし、わたくしが――
立派な殿方に見初められていたなら。
もう少し、髪が豊かで、艶やかであったなら。
鼻が、ほんの少し小さかったなら。
身分はある。
由緒も、格式もある。
身分を求める殿方は、いるはずなのに。
それでも、誰も訪ねては来ない。
……きっと、わたくしが、美しくなかったから。
庭は、手入れをすれば、美しくなる。
けれど、わたくしは――。
自嘲するように、姫は小さく笑った。
その時、御簾の向こうから、付き従う女房の声がした。
「もう、夜も更け、肌寒うございます。
そろそろ、寝所にお入りくださいませ。」
「……そうしましょう。」
静かに答え、姫は立ち上がる。
女房たちも、いつの頃からか、業務的な言葉ばかりを交わすようになった。
噂話も、評判の品の話も、聞かなくなった。
姫と呼ぶには、少し歳を重ねてしまったその姫は、何も言わず、寝所へと入っていった。




