【第1話】 夕暮れの交差点で
社会人になって二年。 僕――白瀬 陸空は、都内のIT企業で働く、ごくごく平凡な営業マン。
……と言いたいが、実際は残業100時間超えが常態化した、ただ消耗するだけの社畜営業マンだ。
「やる気が足りねえんだよ」
それが上司の口癖。定時で悠々と帰る上司の背中を見送り、僕は青白い蛍光灯の下で日付が変わるまでキーボードをひたすら叩き続ける。
休日だろうが容赦なく鳴り響く社内チャットの通知音。 あの無機質な電子音を聞いただけで、心臓が冷たい手で握り潰されるようになり、激しい動悸がする。 とうの昔に僕の心はすり減って、ボロボロだった。
そんな地獄のような日々の中で、僕がまだかろうじて「僕」でいられる理由があった。
入社二年目に入り、雀の涙ほどしかなかった給料にも、ほんの少しだけ余裕ができた。 その余裕のすべてを注ぎ込む、唯一の楽しみ。
毎週日曜にあるサモエド専門カフェ。
店の看板犬である「凛」に会うためだけに、僕は過酷な一週間を生きていると言っても過言じゃない。 真っ白で、ふわふわで、指が沈み込むあの柔らかな感触。 触れた瞬間に、モノクロだった世界の彩度が上がるような、圧倒的な癒し。
凛の首元に顔をうずめながら、僕はいつも心の底から思う。
「やっぱりもふもふって、正義だよなぁ……」
頭にこびりつく理不尽な上司の暴言も、幻聴までしてくるチャットの通知音も、あの純白の毛並みの前ではすべてがどうでもよくなる。 きっとこれは、現実逃避なんだろう。 けれど、今の僕にとって“もふもふ”は、すり減りきった心を回復させてくれる何よりも必要な存在だった。
……ああ、できることならずっと、永遠にもふもふな凛たちに囲まれて生きていたい。
◇
その日は、まさに奇跡的に早く仕事が終わった。 こんなに早く終わったのは入社してから初めてだ。 空は程よくオレンジ色に染まり、ビルの隙間を抜ける風が肌に心地よい。
(こんな日に凛に会えたら最高だなぁ)
足取りも軽く、このままいつものサモエドカフェに行こうかと考えながら歩いていた。
ふと、交差点の向こう側。 視界の端に、白い何かが映った。
小さな子犬。真っ白な毛並み。 ……まるで、凛の小さい頃みたいだ。
信号が変わる、その瞬間。 その子犬が、ふらりと車道へ踏み出した。
考えるより先に身体が動いていた。 持っていた荷物を投げ捨て全力で駆けつけその子犬を、腕の中に抱きしめる。
次の瞬間、耳をつんざくようなブレーキ音。 世界を真っ白く塗りつぶす、ヘッドライトの光。
(……ああ、やっぱり……)
腕の中の温もりと、柔らかい毛の感触を感じながら、僕は薄れてゆく意識の中で思った。
(白いもふもふって、最高だな……)
視界が、真っ白に染まった。




